第84話 救えなかった方法
執務室から、音が消えた。
「私は、魔力侵食症です」
セリオスの声は静かだった。
あまりにも穏やかに告げられたからこそ、その言葉は重く響いた。
クロエは目を見開いたまま固まっている。
ゼムも珍しく表情を変え、セリオスを見つめていた。
レオンだけは、静かだった。
もちろん、驚いていないわけではない。
だが、心のどこかでは予想していたような気もする。
魔力草について話す時の、どこか必死にも見える表情。
回復薬の研究へ向ける、並々ならぬ熱意。
そして、時折見せていた酷く疲れたような横顔。
これまでの出来事を思い返せば、心当たりはいくつもあった。
セリオスは三人の反応を見回し、僅かに苦笑する。
「やはり、驚きますよね」
「当然です」
レオンは静かに答えた。
「いつ、分かったのですか?」
「半年前です」
セリオスは膝の上で両手を重ねた。
「最初は、ただの疲れだと思っていました。以前よりも魔力の回復が遅くなり、回復魔法を使った後の倦怠感も残るようになった。その程度でしたから」
そこで、ほんの少しだけ視線を落とす。
「ですが、念のために検査を受けました。その結果、魔力侵食症だと分かったのです」
レオンは僅かに眉を寄せた。
前世で遊んだ乙女ゲーム――『ノルドレア・ロワイヤル』。
セリオスのルートでも、彼が魔力侵食症を患っていることは語られていた。
だが、それはもっと後の出来事だったはずだ。
エリシア達が学園へ入学した後。
セリオスが、主人公であるエリシアへ自らの病を打ち明ける場面があった。
だから、レオンは一瞬だけ違和感を覚えた。
こんなに早く発症していたのか?と。
しかし、すぐに考え直す。
父のグラニウスも同じだった。
魔力侵食症は、発症した途端に倒れるような病ではない。
魔力を使うたびに身体の内側が少しずつ蝕まれ、長い年月をかけて進行していく。
ならば、ゲームで病が明かされた時期と、実際に発症した時期が違っていてもおかしくはない。
むしろ、その方が自然だった。
セリオスは、教国でも重要な立場にある枢機卿だ。
しかも、慈愛の聖人と呼ばれ、多くの者から慕われている。
そんな人物が不治の病に侵されていると知れ渡れば、教国内に大きな混乱が起きるかもしれない。
だからこそ、セリオスは病を隠していた。
そしてゲームの中でエリシアへ打ち明けたのは、病を発症した瞬間ではない。
それ以上、秘密を抱え続けられなくなった瞬間だったのだろう。
そう考えれば、全ての辻褄が合う。
重い沈黙が落ちる。
やがて、クロエが恐る恐る口を開いた。
「……大丈夫なの?」
いつもの明るい声ではなかった。
不安を隠すこともできず、真っ直ぐセリオスを見つめている。
セリオスは、そんなクロエを安心させるように微笑んだ。
「そのような顔をしないでください」
「でも……」
「まだ初期の段階です。すぐに命へ関わるような状態ではありません」
その言葉を聞き、クロエの強張っていた肩から僅かに力が抜ける。
セリオスは穏やかな声で続けた。
「もちろん、今のところ完全に治す方法はありません。ですが、数年単位でゆっくり進行する病です。魔力の使用を控え、魔力草から作った薬を服用すれば、進行を遅らせることもできます」
レオンは黙って、その説明へ耳を傾けていた。
父も、発症してすぐに倒れたわけではない。
長い間、病を隠しながら辺境伯としての役目を果たし続けた。
最後に限界を超えるほど魔力を使ったことで、急激に症状が悪化したのだ。
「ですから、薬の研究を続けているのです」
セリオスは、どこか自分へ言い聞かせるように笑う。
「まだ、諦めるには早いでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、レオンは椅子から立ち上がった。
何も言わず、執務室の本棚へ向かう。
クロエが不思議そうに振り返った。
「レオン?」
レオンは本棚の奥へ手を伸ばした。
並べられた本の陰から、一冊の古びた革表紙の本を取り出す。
何度も開かれたのだろう。
表紙の端は擦り切れ、革には長い年月を経た跡が残っていた。
レオンは席へ戻ると、その本を机の上へ静かに置いた。
本を目にした瞬間、セリオスの表情が変わる。
レオンは古びた表紙へ視線を落としたまま告げた。
「父を助けるために、探し出したものです」
「グラニウス様を……?」
「ええ」
レオンは表紙を開き、目的のページを探す。
迷うことなく手を止めると、その本をセリオスの前へ差し出した。
開かれたページには、幾重にも重なった円と術式から成る、極めて複雑な魔法陣が描かれていた。
セリオスは、ゆっくりと本へ手を伸ばした。
魔法陣を目で追った瞬間、その赤い瞳が大きく見開かれる。
教国の枢機卿として、セリオスは魔法陣にも深い知識を持っている。
だからこそ、僅かな時間で理解できてしまった。
それが何を目的として作られた術なのか。
そして、どのような代償を要求する魔法陣なのか。
「これは……」
セリオスが息を呑む。
指先で術式を辿り、何度も全体を確かめる。
やがて、信じられないものを見るような顔でレオンを見た。
「これを……使おうとしたのですか?」
レオンは静かに頷いた。
「そうです。起動方法までは分かりましたので」
父を救うために向かった洞窟。
そこで見つけた古びた本。
複雑な魔法陣の意味を全て理解することはできなかった。
それでも、魔力侵食症を治すための術だということと、起動させる方法だけは突き止めていた。
もし半日早く戻っていれば。
父がまだ生きていたなら。
レオンは迷わず、この魔法陣を使っていただろう。
セリオスの表情が僅かに歪む。
それから本へ視線を戻し、小さく息を吐いた。
「間に合わなくて……よかったのかもしれません」
クロエが目を見開く。
「よかった?」
レオンも眉をひそめた。
セリオスは古びた本を見つめたまま、静かに答える。
「この魔法陣は、魔力回路を譲渡するための術です」
「魔力回路の譲渡……」
「はい。魔力侵食症によって壊れた魔力回路を、別の人間から譲り受けた正常な回路へ置き換える」
セリオスは魔法陣へ記された術式を指でなぞる。
「理論上は、確かに魔力侵食症を治療できます」
レオンの目が、僅かに見開かれた。
やはり、あの魔法陣は間違っていなかった。
父を救う方法だったのだ。
だが、セリオスは苦しそうに顔を歪める。
「……ですが」
そこで一度、言葉を切った。
「魔力回路を譲渡するということは、その者の命を譲り渡すことと同じです」
執務室が静まり返る。
クロエが小さく息を呑んだ。
「魔力回路は、人が生きるために必要なものです。それを全て失えば、身体は魔力を生み出すことも、正常に循環させることもできなくなる」
セリオスは顔を上げ、レオンを見つめた。
「つまり、この魔法陣を使えば、魔力回路を譲渡した術者は必ず死にます」
その言葉は、静かに執務室へ落ちた。
誰も、すぐには何も言えなかった。
クロエは無意識に、自分の胸元を強く握っていた。
もし、あの日。
自分がレオンから隠れなければ。
レオンと会い、秘薬の話をしていれば。
グラニウスは助かったのではないか。
そう考えたことは、一度や二度ではなかった。
ずっと、心の奥へ重く引っかかっていた。
だが、もし本当にレオンが間に合っていたら。
グラニウスが生きているうちに、この魔法陣を持ち帰っていたら。
レオンは、これを使っていたかもしれない。
――違う。
きっと、使っていた。
クロエは知っている。
レオン・ノルディアという人間を。
自分の命と引き換えに父親を救えると知れば、迷わず自分を差し出す。
周囲がどれほど止めても、それが当然であるかのように選ぶ。
レオンは、そういう人間だ。
クロエは小さく息を吐いた。
グラニウスを救えなかった後悔が消えるわけではない。
それでも胸の奥に残り続けていた重い何かが、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。
セリオスは古びた本を静かに閉じた。
そして、改めてレオンへ視線を向ける。
「ですから、間に合わなくてよかったのかもしれません」
レオンは何も答えなかった。
セリオスは穏やかな声で続ける。
「この術を使えば、グラニウス様は助かったかもしれません」
そこで言葉を区切る。
「ですが、その代わりに死んでいたのは、レオンさんです」
迷いのない断言だった。
レオンも。
クロエも。
何も言えなかった。
ゼムは目を伏せ、静かに拳を握っている。
セリオスは、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「私も同じ病だからこそ、分かるのです」
レオンが顔を上げる。
「自分が助かるために、大切な人が命を失う。そのような治療を望む方はいません」
その声は穏やかだった。
だが、その奥には揺るがない強さがあった。
「少なくとも、私は望みません」
セリオスは真っ直ぐにレオンを見つめる。
「ですから、グラニウス様も同じだったと思います」
クロエは静かに目を伏せた。
ゼムも何も言わなかった。
レオンは、机の上に置かれた古びた革表紙の本へ視線を落とす。
父を救えたかもしれない方法。
これまで、そう思い続けていた。
自分が身代わりになればよかったのではないか。
父が生きていたらこの後に起こる様々な悪災も解決するのではないのかと。
父が亡くなったばかりの頃は、何度も何度も考えた。
自分よりも父が生き残るべきだった。
父が領主でいた方が、ノルディア領のためになった。
十二歳だった自分の命より、グラニウスの命の方が多くの人々を救えた。
そう思っていた。
だが、もしあの日、この魔法陣を使っていたなら。
父は、息子の命を奪うことで生き延びることになっていた。
そんな未来を、グラニウスが望むはずはない。
レオンが魔法陣を使えなかったことで、父は最後まで父のままでいられたのかもしれない。
領民を守り。
騎士達を守り。
そして、息子の命を奪うことなく、その生涯を終えた。
半日の差で間に合わなかったことを、運命だと思うつもりはない。
父を救えなかった後悔が、なくなるわけでもない。
それでも、あの日の結末には、レオンが知らなかった別の意味があった。
セリオスは古びた本を、レオンの前へ返した。
「見せてくださり、ありがとうございます」
それから、穏やかな表情で首を振る。
「ですが、私はこの魔法陣を使いません」
「分かっています」
レオンも静かに頷いた。
これは、治療法と呼べるものではなかった。
一つの命を救うために、別の命を奪う。
ただの、最後の手段だった。
そして同時に。
父を救えなかった方法ではなく、父ならば決して望まなかった方法でもあった。




