第83話 夜の執務室
セリオスの帰国まで、あと二日。
その日の仕事を終えたレオンは、最後に残った書類へ判を押した。
「……終わった」
小さく息を吐き、判を机へ置く。
数日前まで机を占領していた書類の山は、綺麗になくなっていた。
回復薬事業へ時間を割いていたため、政務が少しずつ溜まっていたのだが、それもようやく片づいた。
向かいの椅子に座っていたクロエが、両手を高く上げて大きく伸びをする。
「終わったー!」
そのまま椅子の背へ深く身体を預け、満足そうに笑った。
レオンはそんなクロエを見て苦笑する。
「お前は何もしてないだろ」
「失礼だなぁ」
クロエは頬を膨らませた。
「ちゃんと応援してたよ?」
「それは邪魔とも言う」
「酷い!」
クロエは勢いよく立ち上がった。
しかし、すぐに機嫌を直すと、満面の笑みを浮かべる。
「もう仕事は終わったんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、ご飯を食べに行こうよ」
レオンも席を立とうとする。
その時だった。
コン、コン。
執務室の扉が、遠慮がちに二度叩かれた。
強すぎず、弱すぎず。
妙に丁寧な、聞き覚えのある叩き方だった。
クロエがぴたりと動きを止め、扉へ顔を向ける。
「セリオスさんかな?」
レオンは苦笑しながら頷いた。
「正解だ」
執務室の隅に控えていたゼムも、小さく頷く。
「あの方でしょうな」
この数か月で、何度も聞いた音だった。
レオンは再び椅子へ腰を下ろす。
「入ってください」
扉が静かに開いた。
「失礼します」
予想した通り、入ってきたのはセリオスだった。
だが、その表情はどこか真剣だった。
普段のような穏やかな笑みも浮かべていない。
クロエも、その違いに気づいたらしい。
食事へ行こうと浮かべていた笑顔が、僅かに消える。
レオンは向かいの椅子を示した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
セリオスは軽く頭を下げ、レオンとクロエの向かいへ腰を下ろした。
ゼムも壁際から離れ、レオンの傍らにある定位置へ立つ。
しばらく、誰も口を開かなかった。
セリオスは一度だけ深く息を吐く。
それから、静かに話を切り出した。
「帰国する前に、お話ししておきたいことがあります」
その言葉で、執務室の空気が変わった。
レオンも表情を改め、セリオスを見つめる。
「何でしょうか?」
セリオスは僅かに迷うような様子を見せた。
話すべきか。
それとも、黙ったまま帰国するべきか。
最後まで決めかねているようにも見える。
やがて意を決したように顔を上げた。
「聖属性についてです」
執務室が静まり返った。
"聖属性"
教国の象徴と言っても過言ではない、回復魔法を扱うための特別な属性。
少なくとも、世間ではそう認識されている。
前世で遊んだ乙女ゲーム――『ノルドレア・ロワイヤル』でも同じだった。
主人公であるエリシアが聖属性を持っていると明らかになり、その力を教えるため、セリオスが臨時講師として王国の学園を訪れる。
それほど希少で、特別な属性だったはずだ。
だが、セリオスは静かに首を振った。
「いえ……正確には、それも違いますね」
クロエが不思議そうに首を傾げる。
「違う?」
「はい」
セリオスは一度言葉を切る。
そして、レオン達の目を見ながら告げた。
「聖属性というものは、存在しません」
言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
クロエが固まっている。
レオンも、すぐには何も答えられなかった。
やがてクロエが困惑した様子で口を開く。
「……え? いやいや、あるよね?」
セリオスへ顔を近づけ、何度も瞬きをする。
「だって、回復魔法を使ってるじゃない。セリオスさんだって使えるでしょ?」
「そうなりますよね」
セリオスは困ったように苦笑した。
「正確に申し上げれば、回復魔法は無属性魔法です。身体強化と同じ分類になります」
「無属性?」
クロエの目が、さらに大きくなる。
レオンも僅かに眉を寄せた。
身体強化であれば、レオンも普段から使っている。
体内へ魔力を巡らせ、筋力や反応速度を一時的に高める技術だ。
魔力の有る騎士であれば、多くの者が扱える。
誰も、それを聖属性の魔法だとは呼ばない。
「はい」
セリオスは頷いた。
「身体強化と治癒。本質的には、どちらも対象へ魔力を流し込み、身体へ作用させる技術です」
身体強化は、自らの身体へ魔力を流して能力を高める。
治癒魔法は、傷ついた身体へ魔力を流し、治癒する力を促す。
目的も結果も違う。
だが、技術の根本は同じなのだという。
クロエは納得しきれない様子で腕を組む。
「でも、無属性って外れ扱いじゃないの?」
「そう言われることもありますね」
セリオスは少し悲しそうに笑った。
「火も、水も、風も、土も扱えない。そのため、魔法の才能がないと判断する国は少なくありません」
「教国は違うの?」
「ええ」
セリオスは、はっきりと頷いた。
「属性を持たない方は、無属性魔法を習得するのが早い傾向にあります。特に身体強化や治癒魔法との相性が良い方も多い。そのため、教国では属性を持たない方々を保護しています」
クロエが驚いたように目を丸くする。
「保護してるんだ」
「はい。無属性だから価値がない。魔法を使えないから役に立たない。そのように扱われる方々を受け入れ、教育を行っています」
属性を持たない者でも、魔力そのものがないわけではない。
正しく学び、訓練を重ねれば、身体強化や治癒魔法を扱える可能性がある。
それを知らないまま、才能がないと切り捨てられている者が大勢いるのだろう。
「もちろん、属性を持たない方なら、誰でも治癒魔法を使えるというわけではありません」
セリオスは続ける。
「無属性魔法にも適性と才能が必要です。ただ、他の属性を持つ方より早く習得する例も珍しくありません」
「へえ……初めて聞いた」
クロエは感心したように呟いた。
「教国外では、ほとんど知られていませんからね」
セリオスは苦笑しながら肩を竦めた。
「そもそも、本来であれば外部へ話してはいけない内容ですし」
「やっぱり駄目じゃん!」
クロエの声が、執務室へ響いた。
セリオスは申し訳なさそうに笑う。
「ですが、皆さんであれば問題ありません」
「その考え方が駄目なんだよ」
クロエは片手で額を押さえた。
「この人、絶対そのうち教国の人に怒られるよ」
「私も、そう思います」
ゼムまで珍しく同意する。
「酷くありませんか?」
セリオスは僅かに肩を落とした。
その様子を見て、レオンは思わず苦笑する。
確かに、この事実を教国が隠しているのであれば、勝手に話してよい内容ではない。
知られれば、セリオスは間違いなく叱責されるだろう。
だが、レオンには別の疑問があった。
「それで……」
レオンはセリオスを見る。
「なぜ、帰国前にその話を私達へ?」
セリオスは、真っ直ぐレオンを見つめ返した。
「レオンさんは、身体強化を使えますよね?」
「ええ」
「それに、魔力の扱いも非常に正確です」
魔力草の栽培実験。
丘の湧水の調査。
そして、回復薬の製造。
この数か月、セリオスはレオンが魔力を扱う姿を何度も見てきた。
「それほど繊細に魔力を操れるのであれば、治癒魔法を習得できる可能性があります」
レオンは目を見開いた。
クロエも驚き、二人の顔を交互に見る。
「レオンも回復魔法を使えるかもしれないの?」
「はい」
セリオスは頷いた。
「もちろん、才能は必要です。ですが、不可能ではありません」
セリオスは席を立つと、レオンへ右手を差し出した。
「少し試してみましょう」
それから一時間。
執務室では、セリオスによる治癒魔法の指導が続いていた。
身体強化との違い。
体内で魔力を練る方法。
自分以外の対象へ魔力を流す感覚。
そして、傷ついた身体の状態を魔力で捉え、治癒すべき場所だけへ作用させる方法。
「身体強化のように、魔力を力へ変えてはいけません」
セリオスは自らの手へ淡い光を宿しながら説明する。
「形を押しつけるのではなく、相手の身体へ馴染ませるように流してください」
「馴染ませる……」
レオンは掌を見つめ、何度も魔力を流した。
しかし、最初は何も起こらなかった。
魔力が強すぎる。
流す速度が速すぎる。
対象へ触れた瞬間、魔力が散ってしまう。
セリオスはそのたびに原因を指摘し、丁寧に修正していった。
そして、何度目かの挑戦。
レオンは呼吸を整え、掌へ魔力を集めた。
押し込まない。
強く作用させようとしない。
自分の魔力を、相手の身体へ静かに馴染ませる。
次の瞬間。
レオンの掌に、淡い光が宿った。
それはセリオスの回復魔法と比べれば、消えてしまいそうなほど弱い光だった。
だが、確かに治癒の性質を帯びている。
セリオスの表情が、ぱっと明るくなった。
「成功です」
クロエが目を丸くする。
「えっ、もう?」
レオン自身も驚いていた。
掌に浮かぶ淡い光を、信じられないように見つめる。
「本当にできた……」
「素晴らしいです」
セリオスは、自分のことのように嬉しそうに笑った。
「やはり才能がありますね。習得までの早さだけなら、私以上かもしれません」
「それはないでしょう」
レオンは苦笑した。
教国で慈愛の聖人とまで呼ばれるセリオスを、自分が上回るとは思えない。
しかし、セリオスは冗談を言っている様子ではなかった。
本気でレオンの才能を評価しているらしい。
だが、不意にその笑みが消えた。
再び、セリオスの表情が真剣なものへ変わる。
執務室に張り詰めた空気が戻った。
レオンは静かにセリオスを見つめる。
聖属性の正体。
治癒魔法の指導。
どちらも重要な話だった。
だが、それだけではない。
セリオスが帰国前に伝えようとしている本題は、まだ残っている。
そんな気がした。
「もう一つ、あります」
クロエもゼムも、何も言わなかった。
セリオスはゆっくりと椅子へ座り直す。
そのまま僅かに視線を落とした。
膝の上で重ねられた両手には、微かに力が込められている。
迷い。
恐れ。
そして、ようやく何かを受け入れたような諦め。
幾つもの感情が、その横顔を通り過ぎた。
やがてセリオスは顔を上げる。
穏やかな声で、静かに告げた。
「私は、魔力侵食症です」
その瞬間。
執務室から、全ての音が消えたように感じられた。
誰も言葉を発しない。
レオンも。
クロエも。
ゼムも。
ただ、セリオスの告白だけが、静まり返った部屋の中へ残されていた。
セリオスは穏やかな表情を浮かべていた。
それはまるで、長い間たった一人で抱えてきた重荷を、ようやく下ろしたかのように見えた。




