第81話 名前の価値
礼拝堂の一室。
火傷の跡すら残さず消した薬を前に、誰もが言葉を失っていた。
机の中央に置かれているのは、通常よりも僅かに濃い青色をした回復薬。
使用した材料も、製造方法も同じ。
ただ、普通の水を丘の湧水へ替えただけだった。
それにもかかわらず、完成した薬は教国で作られる回復薬を遥かに上回る治癒力を示した。
セリオスは小瓶を見つめたまま、動こうとしない。
その赤い瞳には、未だに信じられないという驚きが残っていた。
最初に沈黙を破ったのは、クロエだった。
「これさ……教国の回復薬とは、別の名前にした方がよくない?」
その言葉に、レオンも頷く。
「確かにそうだな。同じ回復薬と呼んでいたら、区別がつかない」
製造する場所や材料によって効果が異なるのであれば、それぞれを明確に分ける必要がある。
特に今回完成した薬は、通常の回復薬と同じものとして扱えるような性能ではない。
間違えて販売すれば、命に関わる混乱を招く可能性もあった。
「私もそう思います」
セリオスも、ようやく小瓶から顔を上げる。
「これほど性能が違う以上、名称は分けるべきでしょう。使用する側にも、一目で違いが分かるようにしなければなりません」
「でも、何て名前にするの?」
クロエが腕を組む。
「普通の回復薬と、今作った凄い回復薬でしょ?」
「それでは、そのまますぎますね」
セリオスが苦笑する。
レオンは机の上に並んだ二本の小瓶を眺めた。
普通の水を使って作った、淡い青色の回復薬。
丘の湧水を使って作った、より濃い青色の回復薬。
そして、教国がこれまで作り続けてきた回復薬。
しばらく考えた後、レオンは口を開いた。
「孤児院で作る普及用の通常品を、ポーションと呼ぶことにしよう」
全員の視線がレオンへ集まった。
クロエが聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返す。
「ぽーしょん?」
「ああ」
「どういう意味?」
「薬という意味だ。昔読んだ本に載っていた」
レオンは平然と答えた。
もちろん、嘘である。
ポーションという言葉は、前世で遊んだゲームや物語の中で何度も目にしていた。
だが、異世界で生きていた頃の知識だと正直に説明したところで、誰にも理解してもらえない。
昔読んだ本。
それで押し通す方が簡単だった。
クロエは特に疑うこともなく、納得したように頷く。
「へえ。それで、丘の湧水を使った方は?」
「ハイポーション」
「ハイポーション?」
「ああ。ポーションより上位の薬という意味だ」
レオンは二本の小瓶を順番に指差した。
「孤児院で広く作る普及品がポーション。教国でこれまで作られてきたものが回復薬。そして、丘の湧水を使った上位品がハイポーション」
ポーション。
回復薬。
ハイポーション。
名称を聞いただけで、どの段階の薬なのか判断しやすい。
「効果の順番も分かりやすいだろ?」
クロエは三つの名称を小さく繰り返しながら考える。
やがて、納得したように頷いた。
「確かに分かりやすいね。初めて聞く人でも、ハイポーションが一番凄い薬だって分かりそう」
ゼムも静かに同意する。
「良い名称かと存じます。呼び方が似ておりますので、同じ系統の薬であることも伝わりやすいでしょう」
「私も賛成です」
セリオスも穏やかに微笑んだ。
こうして、新たな薬の名称が決まった。
孤児院で作られる普及用のポーション。
教国で製造されてきた回復薬。
そして、ノルディアの丘から湧き出す水を使ったハイポーション。
だが、名前が決まっても、全ての問題が解決したわけではない。
クロエは濃い青色のハイポーションを見つめながら、再び口を開いた。
「それでさ……」
僅かに間を置き、商人らしい疑問を口にする。
「これ、いくらで売るの?」
礼拝堂の一室が、再び静まり返った。
確かに、事業として扱うのであれば避けては通れない問題だった。
どれほど優れた薬であっても、価値が分からなければ値段を決められない。
安く売りすぎれば、本来得られるはずの利益を失う。
高くしすぎれば、必要とする者の手へ届かなくなる。
レオンはハイポーションへ視線を落とす。
「問題は、そこだな」
「高く売ればいいんじゃない?」
クロエが首を傾げる。
「教国の回復薬より凄いんだから、それより高いのは当然でしょ?」
「そう単純でもない」
レオンは小さく首を振った。
「これは、教国の回復薬を上回る薬だ。それをノルディア領が何の相談もなく売り出せば、余計な軋轢を生む可能性がある」
回復薬といえば教国。
それは、長い年月をかけて世界中へ定着した常識だ。
教国は回復薬を製造する技術を管理し、それによって多くの命を救ってきた。
その教国を上回る薬を、王国の一領地が突然売り始める。
教国の立場から見れば、決して無視できる話ではない。
セリオスの表情も真剣なものへ変わる。
「確かに、その可能性はあります」
「もちろん、この薬の所有権はノルディア領にある」
レオンは、これまでに交わした契約を思い返しながら続けた。
「製造用の魔法陣を使う対価として、教国へ使用料を支払う。孤児院には、製造した本数に応じた報酬を支払う。完成した薬の所有権はノルディア領が持つ。そういう契約だったはずです」
「ええ」
セリオスが頷いた。
「契約上も、その認識で間違いありません。販売先と価格を決める権利は、ノルディア辺境伯家にあります」
「なら、こちらで好きに決めていいんじゃないの?」
クロエの問いに、レオンは頷く。
「決める権利はある。だが、先に教国へ話を通しておきたい」
「どうして?」
「教国の秘術を使って、教国製より優れた薬を売るんだぞ」
レオンは苦笑した。
「権利がこちらにあるからといって、黙って売り出す必要はない。後から問題になる方が面倒だろ?」
「ああ……」
クロエも、ようやく意味を理解したようだった。
今回の薬は、ノルディア領の力だけで完成したわけではない。
魔力草を育てたのはノルディア領。
特殊な湧水があるのもノルディア領。
だが、薬を作るための魔法陣は教国の秘術だ。
もし教国から魔法陣の使用を禁じられれば、ハイポーションの製造は続けられなくなる。
契約上の権利だけを主張し、協力相手との関係を損なうべきではなかった。
「その配慮は、ありがたいですね」
セリオスは、どこか安心したように微笑んだ。
「教国の中にも、様々な考えを持つ者がいます。事前に事情を説明しておけば、私からも理解を求めることができます」
レオンは肩を竦める。
「無駄な敵は作りたくありませんから」
「その年齢で、そこまで先のことを考えられる方は珍しいと思いますが」
セリオスが感心したように言う。
レオンは何事もないような顔で答えた。
「……辺境伯ですので」
その言葉を聞いたクロエが、呆れたように目を細める。
「最近、それが便利な言葉になってない?」
レオンは片手で耳を掻きながら、そっと視線を逸らした。
「……耳が痒いな」
「逃げた!」
クロエの声に、礼拝堂の一室へ小さな笑いが広がる。
先ほどまでの重苦しい空気が、僅かに和らいだ。
だが、ハイポーションの価値が消えたわけではない。
教国の回復薬を上回る治癒力。
普通なら跡が残る火傷さえ、完全に治してしまう薬。
いくらで売るべきなのか。
誰に販売するのか。
そもそも、どの程度の量を生産できるのか。
教国は、その存在を認めるのか。
決めなければならないことは、いくつも残っている。
セリオスは、机の上に置かれた濃い青色のハイポーションを見つめた。
「教国の方々も驚くでしょうね……間違いなく」
その声には、僅かな苦笑が混じっていた。
クロエも深く頷く。
教国からすれば、魔力草の栽培に成功したという報告だけでも前例のない話だった。
その直後に、自分達の回復薬を上回る薬まで生まれたと知らされる。
驚かない方がおかしい。
レオンも、静かにハイポーションを見つめた。
正確な価値は、まだ分からない。
どれほどの利益を生むのかも分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
ノルディア領で、これまで世界に存在しなかった新たな薬が生まれた。
その事実だけは、もう変わらなかった。




