第78話 教国からの手紙
それから数日後。
回復薬事業を始めるための準備は、順調に進んでいた。
ラッツは新たに招かれた教師の下で、帳簿の読み方や金銭の計算を学び始めている。
リンもシスターに教わりながら、一文字ずつ懸命に覚えていた。
二人が勉強する姿を見て、他の子供達まで以前より学ぶことへ興味を持つようになったらしい。
まだ小さな変化に過ぎない。
それでも、孤児院の未来は確かに動き始めていた。
その日の夜。
レオンはノルディア邸の執務室で、机に積まれた書類へ目を通していた。
回復薬の製造場所。
魔力草を育てるための畑。
必要となる道具や人員。
事業を正式に始めるためには、決めなければならないことがいくつも残っている。
レオンが一枚の書類へ署名を終えた時、執務室の扉が規則正しく二度叩かれた。
その丁寧な叩き方には覚えがある。
レオンは書類から顔を上げた。
「入ってください」
扉が開き、予想した通りセリオスが入ってくる。
その手には、教国の紋章が封蝋に刻まれた一通の封筒が握られていた。
後ろにはクロエとゼムの姿もある。
レオンは、すぐに封筒へ視線を向けた。
「教国からですか?」
「ええ」
セリオスは静かに頷く。
「正式な返事が届きました」
その一言で、執務室の空気が僅かに張り詰めた。
回復薬事業。
魔力草の栽培。
どちらも教国との協力がなければ、安定して続けることはできない。
特に回復薬の製造には、教国が秘匿している魔法陣を使用する。
どれほど準備を整えても、教国から正式な許可が下りなければ事業として始めることはできなかった。
セリオスは席へ着くと、慎重に封を切った。
折り畳まれた書状を取り出し、最初の一文へ目を通す。
「まず、回復薬事業についてです」
レオン達が見守る中、セリオスは書状を読み上げた。
◇
ノルディア領における回復薬製造計画を、教国の名において正式に承認する。
ただし、教国より監査役を派遣し、製造技術及び使用する魔法陣を厳重に管理すること。
製造数、保管数、販売先を記録し、定期的に教国へ報告すること。
◇
読み上げられた内容を聞き、クロエの青い瞳が明るく輝いた。
「やった!」
思わず上がった声が、静かな執務室へ響く。
レオンも安堵し、小さく頷いた。
これでようやく、構想に過ぎなかった計画を正式な事業として進められる。
孤児院の子供達へ仕事を与えることも。
ノルディア領で回復薬を製造することも。
教国から認められたのだ。
「教国による監査に、技術と魔法陣の管理。それから定期的な報告ですか」
ゼムが内容を確かめるように口にする。
「どれも当然の条件でございますね。教国にとっては、長く守ってきた秘術なのですから」
「私もそう思います」
セリオスも同意した。
レオンにも異論はなかった。
むしろ、これほど重要な技術の使用を認める条件としては、軽い方だろう。
製造方法を外部へ漏らさず、作った回復薬の行方を記録する。
その程度であれば、事業を行う側にとっても必要なことだった。
「全て受け入れます」
レオンが答える。
「管理方法と報告書の形式については、監査役の方と相談して決めましょう」
「承知いたしました」
ゼムが一礼し、手元の紙へ必要な項目を書き留めていく。
セリオスは、そのまま書状の続きを読み進めた。
やがて、僅かに表情を和らげる。
「よかった……」
その呟きを聞き、クロエが不思議そうに首を傾げた。
「何が?」
「派遣される監査役です」
セリオスは書状から顔を上げる。
「以前、私が推薦した方に決まったようです」
「信用できる方なのですね」
レオンが尋ねると、セリオスは迷うことなく頷いた。
「ええ。私が最も信頼している者の一人です」
その言葉には、僅かな迷いもなかった。
回復薬の製造技術だけではない。
ノルディア領と教国の間に立ち、事業の管理まで任せることになる人物だ。
能力はもちろん、双方から信頼される人間でなければ務まらない。
ゼムも興味を示したように尋ねる。
「それほど信頼を寄せておられる方とは、いったいどなたなのでしょうか?」
セリオスは改めて書状へ目を落とし、その名を告げた。
「教国聖騎士団副団長、エミルです」
「副団長?」
クロエが驚いて目を丸くする。
ゼムも僅かに眉を上げていた。
教国聖騎士団。
その副団長ともなれば、教国の中でも相当に高い地位にある人物だ。
一つの事業の監査役として派遣するには、あまりにも大物に思える。
レオンも意外に感じ、セリオスへ視線を向けた。
「随分と重要な方が来るのですね」
「今では、そうですね」
セリオスはどこか感慨深そうに苦笑した。
その言い方が少し気になったものの、レオンは深く追及しなかった。
「実力も人格も申し分ありません。任された役目を途中で投げ出すような者でもありませんから、安心して事業を任せられます」
クロエは興味津々といった様子で身を乗り出した。
「どんな人なの?」
セリオスは少し考えた後、穏やかに答える。
「とても真面目な方です。責任感が強く、騎士としても非常に優秀です。教国の規律を重んじますが、立場の弱い者へも分け隔てなく接することができます」
「完璧な人みたいだね」
「ええ。私も、そう思っています」
そこまでは、何の問題もなかった。
しかし、セリオスは何かを思い出したように視線を逸らす。
「ただ……少々、過保護なところがありますが」
「過保護?」
クロエが首を傾げる。
セリオスが答えるより先に、ゼムが察したように尋ねた。
「セリオス様に対して、でございますか?」
一瞬の沈黙が落ちる。
セリオスは困ったように笑った。
「否定はできませんね」
「ああ、心配性な人なんだ」
クロエも納得したように頷く。
「まあ……そのようなところです」
セリオスの返事は、どこか歯切れが悪かった。
単なる心配性という言葉だけでは説明しきれない何かがありそうだったが、レオンはそれ以上考えなかった。
信用できる人物であり、事業を任せられる。
今はそれだけ分かれば十分だった。
そこでレオンは、別のことに気づく。
「そういえば……」
「どうしました?」
「セリオスさんも、教国へ戻られるのですね」
その言葉に、部屋の中が僅かに静かになった。
セリオスは書状を机へ置き、小さく頷く。
「ええ。本来であれば、もっと早く戻る予定でしたから」
セリオスがノルディア領を訪れたのは、教会が管理する孤児院の状況を調べるためだった。
それが、回復薬事業の相談を始め。
魔力草を探し。
栽培方法の解明にまで関わることになった。
気づけば、最初の予定を大幅に超えて滞在している。
教国で重要な立場にあるセリオスを、いつまでもノルディア領へ引き留めるわけにはいかなかった。
クロエが少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。
「もう帰るんだ」
「回復薬事業も、ようやく動き始めましたからね」
セリオスは穏やかに微笑んだ。
「魔力草の栽培方法も見えてきました。教国から正式な承認も得られた。私がノルディア領で果たすべき役目は、ひとまず終わったと思っています」
少し寂しさはある。
それは、レオンも同じだった。
セリオスの知識と助言がなければ、ここまで辿り着くことはできなかった。
回復薬事業だけではない。
孤児院の子供達へ、新たな未来を示すこともできなかっただろう。
それでも、セリオスにはセリオスの立場と責任がある。
教国の枢機卿を、自分達の都合だけで引き留めることはできない。
「今まで、ありがとうございました」
レオンが頭を下げる。
「まだ、お礼を言われるには早いですよ」
セリオスは小さく笑った。
「帰国するまでに、エミルへ引き継ぐ内容をまとめなければなりません。それに、ラッツとリンへ教えられることも、できる限り教えておくつもりです」
「お願いします」
レオンが顔を上げると、セリオスはもう一度書状へ目を向けた。
「エミルがノルディア領へ到着するのは、およそニか月後になるようです。私が教国へ戻り、直接引き継ぎを済ませてから、数日後に出発する予定だと記されています」
ゼムが日程を計算するように目を細める。
「ニか月後であれば、製造施設の準備もある程度は進んでいるでしょう。引き継ぎにも問題はなさそうでございます」
「ええ」
セリオスも頷いた。
教国から正式な承認を得た。
監査役も、セリオスが信頼する人物に決まった。
魔力草の栽培も、今のところ順調に進んでいる。
ラッツとリンの教育も始まった。
まだ課題は残っているものの、回復薬事業は確実に形を持ち始めていた。
レオンは机の上に置かれた書状を見つめ、静かに息を吐く。
これからノルディア領へやってくる、教国聖騎士団副団長エミル。
実力も人格も申し分なく、セリオスが最も信頼する人物の一人。
その説明を聞く限り、心配するようなことは何もなかった。
だが、この時のレオン達はまだ知らない。
エミルが、セリオスを誰よりも深く敬愛していることを。
そして、予定を大幅に超えてセリオスを引き留めたレオン・ノルディアという少年へ、強い警戒心を抱いてやってくることを。




