第70話 魔獣の血
魔力草が発芽してから、数日後。
レオンは朝一番で、ノルディア邸の裏手にある実験場へ向かっていた。
隣を歩くのはクロエ。
その少し後ろには、ゼムが付き従っている。
実験場へ到着すると、三人の視線は自然と魔力草を植えた木箱へ向いた。
しかし、そこにあったのは期待していた光景ではなかった。
「……枯れてるな」
レオンが低く呟く。
数日前に発芽した魔力草は、青白かった葉を黄色く変色させていた。
葉は力なく萎れ、茎も伸びていない。
完全には枯れていないものの、成長が止まっているのは明らかだった。
クロエも顔をしかめる。
「昨日までは元気だったのに」
ゼムが木箱へ歩み寄り、土と魔力草の状態を確認する。
「水やりは一度も欠かしておりません。土にも、目立った異常はないようです」
「ということは、原因は別にあるのか」
レオンは木箱の前へしゃがみ込み、萎れた魔力草を慎重に観察した。
クロエの土属性魔法によって作られた、魔力を帯びた土。
レオンの氷魔法で生み出した氷を溶かした、魔力を帯びた水。
賢者の研究資料に記されていた条件は満たしている。
実際、前回は発芽すらしなかった魔力草が、今回は芽を出した。
それでも、その先へ育たない。
発芽するための条件は満たしているが、成長を続けるために必要な何かが足りない。
そんな気がした。
その時、三人の背後から声が掛けられた。
「実験の様子はいかがですか?」
振り返ると、実験場の入口にセリオスが立っていた。
教国への報告書を書き終え、ようやくこちらへ来られたらしい。
レオンは立ち上がる。
「教国への報告は終わったのですか?」
「ええ。先ほど書状を送りました」
セリオスはそう答えながら木箱へ近づいた。
そして、土から伸びた小さな芽を目にした瞬間、その赤い瞳を大きく見開く。
「これは……発芽したのですか?」
「ええ」
レオンは頷いた。
「ただ、途中で成長が止まってしまいました。このままでは枯れるでしょう」
セリオスはすぐに木箱の前へしゃがみ込み、魔力草へ顔を近づけた。
変色した葉や茎を、触れないよう慎重に観察する。
その表情には、驚きがはっきりと浮かんでいた。
「発芽しただけでも大発見です……」
セリオスが感嘆するように呟く。
「教国でも、魔力草の発芽には成功しておりませんから」
その言葉に、クロエが少し得意そうに胸を張った。
「ボクのおかげだよ」
「ああ。土のおかげだな」
レオンは木箱を見たまま頷く。
クロエの笑顔が僅かに引きつった。
「それ、ボクのおかげってことだよね?」
「まあ、そうだな」
「何で一度、土だけを褒めたの?」
クロエは不満そうに頬を膨らませた。
レオンが苦笑し、セリオスの口元にも小さな笑みが浮かぶ。
だが、和らいだ空気は長く続かなかった。
全員の視線が、再び萎れた魔力草へ戻る。
発芽しただけでは、回復薬の材料として使えない。
このまま育たなければ、栽培に成功したとは言えなかった。
「何が足りない……?」
レオンは腕を組み、前世の知識を探る。
植物が成長するために必要なもの。
土。
水。
日光。
そして――。
一つの可能性へ思い至り、レオンは顔を上げた。
「肥料か?」
クロエが首を傾げる。
「肥料?」
「ああ」
レオンは頷いた。
「植物は、土と水だけで育つわけじゃない。成長するには栄養が必要だ」
セリオスも興味深そうに耳を傾けている。
「魔力草が生えていた群生地には、常に魔獣がいる」
レオンは先日の森を思い返した。
「なら、魔獣の排泄物が肥料になっていた可能性がある」
クロエの表情が僅かに引きつる。
「排泄物……?」
「うんちだ。肥料に使うのは普通だろう?」
「言い直さなくても分かってるよ!」
クロエの声が実験場へ響いた。
ゼムも何とも言えない表情で二人を見ている。
「おそらく、クロエ様が気にされているのは、そこではないかと」
「そうなのか?」
「そうだよ!」
レオンが不思議そうに首を傾げると、クロエはますます顔をしかめた。
その時、セリオスが静かに口を開く。
「確かに、魔獣の排泄物にも僅かな魔力が残っています」
レオンがすぐに視線を向けた。
「魔力があるのですか?」
「はい」
セリオスは頷く。
「ですが、血液に含まれる魔力と比べれば、ごく僅かなものです」
レオンの眉が僅かに動いた。
「血液?」
「ええ」
セリオスは萎れた魔力草へ目を向けたまま説明する。
「魔獣の体内で、最も多くの魔力を含んでいるのは血液です。排泄物にも魔力は残りますが、その量は比較になりません」
レオンは黙って考え込んだ。
魔力草の群生地。
そこに棲む魔獣。
縄張りを巡る争い。
騎士や冒険者による討伐。
戦いが起きれば、当然その場には魔獣の血が流れる。
群生地の土が魔力を帯びていた理由も、そこにあるのかもしれない。
クロエも同じ考えへ辿り着いたらしい。
「あっ……」
目を見開き、木箱を指差す。
「じゃあ、排泄物じゃなくて血なんじゃない?」
「可能性はあります」
セリオスは頷いた。
「魔力草が、土や水だけではなく、成長するための栄養として魔獣の血に含まれる魔力を必要としているのかもしれません」
ただし、と言葉を続ける。
「現時点では仮説にすぎません。実際に試してみなければ、正しいかどうかは分かりません」
レオンも同意するように頷いた。
確証はない。
だが、今までの条件から考えれば、試す価値は十分にあった。
すると、ゼムが静かに口を開く。
「ぼっちゃま。レッドボアの解体場であれば、血を大量に確保できます」
「ああ、そうだな」
レオンはすぐに頷いた。
レッドボアの肉を扱う事業が始まってから、解体場では毎日のようにボアが処理されている。
これまで捨てていた血であれば、いくらでも手に入る。
量を確保するために、新たな費用を掛ける必要もない。
試さない理由はなかった。
クロエが僅かに嫌そうな顔で尋ねる。
「まさか、今から行くの?」
「今からだ」
レオンは迷うことなく即答した。
「思いついた時に動いた方がいい」
クロエは呆れたように笑った。
「レオンの、そういうところ……ボクは嫌いじゃないよ」
「そうか」
レオンは特に深く考えずに頷いた。
その横で、ゼムが僅かに目を細める。
セリオスも苦笑していたが、反対する様子はなかった。
むしろ、発芽に成功した魔力草の研究に、強い興味を抱いているようだった。
レオンは木箱の中で萎れた小さな芽を見下ろす。
まだ、答えは出ていない。
魔獣の血が正しいとも限らない。
それでも、次に試すべきことは決まった。
「解体場へ向かおう」
その言葉に、全員が頷いた。
魔力草を育てるための答えは、今も深い霧の中にある。
だが、その霧を晴らすための次の一歩は、確かに見つかっていた。




