第66話 回復薬
魔力草についての話が一段落した頃。
セリオスは机の上に広げていた資料をまとめると、別の羊皮紙へ手を伸ばした。
「実は、回復薬についてもう一つお話があります」
レオンがセリオスへ視線を向ける。
隣に座るクロエも、不思議そうに首を傾げた。
「お話ですか?」
「はい……」
セリオスは僅かに間を置いてから頷いた。
「多くの方は、回復薬を薬師が調合していると思っています」
クロエは迷うことなく頷く。
「違うの?」
「正確には違います」
セリオスは静かに答えた。
「回復薬は、魔法陣によって作られているのです」
執務室が静まり返る。
クロエが驚いたように目を丸くした。
「魔法陣?」
「ええ」
セリオスは一枚の羊皮紙を取り出し、机の上へ広げた。
そこに描かれていたのは、回復薬の製造に用いられる魔法陣の一部だった。
複数の円が重なり合い、その間を埋めるように細かな文字と無数の線が刻まれている。
一見しただけでは、何を目的とした魔法陣なのか見当もつかないほど複雑だった。
クロエは数秒間、羊皮紙をじっと見つめた。
そして、あっさりと顔を上げる。
「ボク、全然分からない」
レオンは思わず苦笑した。
「諦めるのが早いな」
「だって、考えても分からないものは分からないし」
クロエは悪びれる様子もなく開き直った。
セリオスも、その潔さに小さく苦笑する。
一方、レオンは何も言わず、羊皮紙へ視線を落としていた。
最近は夜になると、賢者が残した資料を読み続けている。
その中には魔法陣に関する研究も多く、以前より構造を読み取れるようになっていた。
重なり合う円。
その隙間に書き込まれた術式。
魔力が流れる方向を示す線。
しばらく魔法陣を眺めた後、レオンはゆっくりと口を開いた。
「これは……魔力草から成分を抽出するための魔法陣ですか?」
今度は、セリオスが僅かに目を見開いた。
驚いたようにレオンを見つめた後、穏やかに頷く。
「ええ。正解です」
クロエが二人の顔を交互に見比べた。
「どうして分かったの?」
「何となくだ」
「絶対に嘘だよね」
即答だった。
レオンは誤魔化すように肩を竦める。
セリオスは二人のやり取りに小さく笑った後、魔法陣の一部を指差した。
「実際、レオン様の見立てはかなり正確です。この魔法陣は、魔力草から回復薬に必要な成分を抽出するためのものです」
そう説明しながら、セリオスは次の資料を取り出した。
「回復薬の材料は、それほど多くありません。まず、主材料となる魔力草」
資料に記された文字を指でなぞる。
「そして、水です」
クロエが目を瞬かせた。
「それだけ?」
「正確には、製造用の魔法陣も必要になりますが」
セリオスは頷いた。
「純粋な材料だけでいえば、それだけです」
レオンは驚きながら腕を組んだ。
回復薬というくらいなのだから、何種類もの希少な薬草や魔獣の素材を使うものだと思っていた。
しかし、実際に必要なのは魔力草と水だけらしい。
想像していたよりも、遥かに単純だった。
その時、クロエがふと片手を上げた。
「ちょっと待って」
「何だ?」
「回復薬って、誰が作るの?」
レオンとセリオスの視線が、同時にクロエへ向けられる。
クロエは机の上の羊皮紙を指差した。
「火属性の人には作れないとか、治癒魔法を使える人じゃないと駄目とか、そういう条件はないの?」
商人として、当然の疑問だった。
もし製造に特殊な属性や才能が必要なら、材料を確保できたとしても簡単には量産できない。
しかし、セリオスは静かに首を横へ振った。
「いいえ。回復薬の製造に、術者の属性は関係ありません」
「え?」
クロエが目を瞬かせる。
セリオスは、机の上へ広げた魔法陣を指差した。
「回復薬を作るのは、術者ではなく魔法陣です。人が行うのは、材料を用意し、魔法陣へ魔力を流し込むことだけです」
そして、二人を真っ直ぐ見つめる。
「魔力さえあれば、誰でも作ることができます」
執務室が再び静まり返った。
レオンも意外そうに眉を上げる。
「本当に、誰でもですか?」
「ええ」
セリオスは頷いた。
「火属性でも、水属性でも、風属性でも、土属性でも構いません。どの属性を持つ者であっても、魔力を流すことさえできれば製造できます」
クロエは驚いたまま、魔法陣へ視線を戻す。
「そんなに簡単なんだ……」
「工程だけを見れば、難しくはありません」
セリオスは僅かに苦笑した。
「だからこそ、材料不足が大きな問題となっているのです。魔力草さえ十分に確保できれば、回復薬の生産量は大幅に増やせます」
セリオスはさらに資料を広げた。
そこには、教国で製造された回復薬の生産量と、各国への出荷量が記されていた。
「教国では、現在も回復薬を生産し、各国へ輸出しています。しかし、需要に対して供給がまったく追いついておりません」
騎士団。
冒険者。
傭兵。
そして、各国の軍隊。
回復薬を必要とする者は、あまりにも多い。
魔獣討伐や護衛の依頼だけでなく、戦争が起きれば需要はさらに跳ね上がる。
それが途絶えることは、まずないだろう。
「ノルディア領も例外ではありません」
セリオスは説明を続けた。
「王国内でも特に魔獣被害の多い地域です。そのため、ほかの領地よりも優先して回復薬が送られています」
レオンは頷いた。
討伐隊にも、騎士団にも、回復薬は欠かすことができない。
現在の討伐方法へ変えて死傷者は大幅に減ったが、それでも怪我を完全になくせるわけではなかった。
セリオスは資料へ目を落とし、僅かに表情を曇らせる。
「ですが、それにも限界があります。そもそも王国へ送ることのできる回復薬の数が限られているのです」
「原因は魔力草か」
「はい」
セリオスはレオンの言葉に頷いた。
「材料が足りない以上、どれほど必要とされても生産量を増やすことはできません」
クロエが腕を組む。
「つまり、魔力草を増やせれば、回復薬も増やせる?」
「その通りです」
セリオスは頷いた。
「王国へ送られる回復薬の数も、今より増やすことができるでしょう」
しばらく、全員が机の上の資料を見つめていた。
やがて、何かを考えていたクロエが口を開く。
「でもさ」
全員の視線が集まる。
「魔力草をノルディアで栽培できるなら、話が変わってくるよね?」
レオンが僅かに眉を上げた。
「どういうことだ?」
「輸送の話だよ」
クロエは机の上に置かれた地図へ手を伸ばした。
まずノルディア領を指差し、そこから教国へ向かって指を滑らせる。
「ノルディアで魔力草を採る。それを教国まで運ぶ」
セリオスが頷いた。
「ええ」
「教国で回復薬を作る」
「そうなります」
今度は教国から王都へ向けて、指を動かす。
「完成した回復薬を王都へ運んで売る」
「はい」
最後に、王都からノルディア領へ指を戻した。
クロエは地図の上にできた長い道筋を見つめ、首を傾げる。
「無駄じゃない?」
部屋が静まり返った。
「ノルディアから教国へ魔力草を運んで、教国から王都へ回復薬を運ぶ。それで結局、ノルディアでも使うんでしょ?」
レオンも、地図の上に描かれた経路へ目を落とす。
言われてみれば、その通りだった。
「輸送費が掛かる。護衛も必要。馬車も用意しなきゃいけないし、道中で盗賊や魔獣に襲われる危険もある」
クロエは肩を竦めた。
「だったら、最初からノルディア領で回復薬にした方が安くない?」
どこまでも商人らしい発想だった。
材料を遠くまで運ぶより、生産地で加工してから出荷した方が効率は良い。
重量や体積を抑えられるなら、輸送費も減らせる。
セリオスも、その意見自体を否定することはなかった。
「物流だけを考えれば、その通りです」
しかし、その表情は僅かに曇っている。
「ですが、一つ大きな問題があります」
セリオスは、机の上へ広げられた魔法陣へ視線を落とした。
「この製造用魔法陣は、教国の秘術です」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「回復薬の製法は、教国の国家機密に当たります。魔法陣が国外へ流出すれば、国家間の問題に発展しかねません」
レオンとクロエは黙って話を聞く。
「ですので、回復薬の製造は教国内の限られた施設でしか認められておりません」
セリオスは申し訳なさそうに苦笑した。
「さすがに、私の独断で国外での製造を許可することはできません」
クロエも事情を理解したのか、納得したように口を閉ざした。
どれほど効率が良くても、国家機密を簡単に国外へ持ち出すことはできない。
それは商売だけで決められる話ではなかった。
しかし、レオンは一つの言葉が引っ掛かっていた。
魔力さえあれば、誰でも作れる。
特別な属性も、治癒魔法の才能も必要ない。
必要なのは、材料と製造用の魔法陣。
そして、魔力を持つ人間だけだ。
レオンはしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「それなら、孤児院で作ればいい」
セリオスの動きが止まった。
「……はい?」
クロエも驚いたように目を瞬かせる。
レオンは構わず続けた。
「王国内にある孤児院の多くは、教国の教会が管理しているのですよね?」
「え、ええ」
「それなら、孤児院の敷地内に製造施設を造ればいい」
レオンは机の上の地図で、ノルディア領の孤児院を指差した。
「土地はノルディア領にありますが、施設の管理と回復薬の製造は教会側が行う。働く者も教会が認めた人員に限定すれば、製法を守ることができます」
部屋の空気が変わった。
セリオスは無意識のうちに、僅かに身を乗り出していた。
国家機密を守りながら、生産地で回復薬を製造する。
レオンの提案が持つ意味を、理解し始めていたからだ。




