第55話 慈愛の枢機卿
応接室へ向かう廊下を歩きながら、レオンは何度目か分からないため息を吐いた。
隣を歩くクロエも、どこか複雑そうな顔をしている。
「本当に来たんだね」
「来たな」
「枢機卿だよ?」
「らしいな」
「何で辺境に来るの?」
「俺が聞きたい」
レオンは困ったように肩を竦めた。
クロエも、それ以上は何も言わずに頷く。
まったく、その通りだった。
枢機卿ともなれば、セレスティア教国の重鎮だ。
教国はもちろん、王都へ滞在しているだけでも、面会や会談で休む暇などないはずである。
そんな人物が、周囲へ何も告げずに教国を出て、わざわざ王国北部のノルディア領までやって来た。
その理由が、まるで分からなかった。
二人の少し前を歩いていたゼムが、静かに振り返る。
「間もなくでございます」
「ああ」
レオンは頷いた。
やがて三人は応接室の前へ辿り着く。
閉ざされた扉の両脇には、ノルディア家の騎士が一人ずつ立っていた。
二人とも背筋を真っ直ぐ伸ばしているが、その表情には隠し切れない緊張が浮かんでいる。
無理もなかった。
扉の向こうで待っているのは、セレスティア教国最年少の枢機卿なのだ。
レオン達の姿を認めると、騎士が揃って敬礼した。
「お待ちになっております」
「分かった」
レオンは一度、深く息を吐いた。
そして、応接室の扉を開ける。
室内には三人の客人がいた。
一人は、教国からの使者と思われる壮年の男。
もう一人は、腰に剣を帯びた護衛騎士。
そして窓際には、白い法衣を纏った一人の青年が立っていた。
雪のように白い髪。
鮮血を思わせる紅い瞳。
女性と見紛うほど整った顔立ちに、穏やかな雰囲気。
その姿をひと目見て、レオンは思わず眉を寄せた。
【弱そう】
それが、最初に抱いた率直な印象だった。
身体は細く、騎士のような力強さは感じられない。
日頃から鍛えているようにも見えず、白い肌も相まって、むしろ病人のようにさえ見えた。
これが攻略対象。
これが、将来の王国を大きく揺るがす人物。
正直なところ、すぐには信じられなかった。
青年はレオン達が入ってきたことに気づくと、紅い瞳をこちらへ向けた。
そして、柔らかく微笑む。
「初めまして」
ひどく穏やかな声だった。
「セレスティア教国枢機卿、セリオス・セラフィスと申します」
レオンも足を止め、貴族として一礼を返す。
「ノルディア辺境伯、レオン・ノルディアです」
「突然の訪問、申し訳ございません」
セリオスも丁寧に頭を下げた。
互いに形式的な挨拶を交わした後、全員が席へ案内される。
レオンとクロエが長椅子へ並んで座り、向かいにはセリオスと教国の使者が腰を下ろした。
ゼムと護衛騎士は、それぞれの主人の後ろへ静かに控える。
天候や旅路について、しばらく当たり障りのない話が続いた。
やがて挨拶が一段落したところで、レオンは本題を切り出す。
「それで、本日はどのようなご用件でノルディア領へ?」
セリオスは小さく頷いた。
「孤児院です」
レオンの目が僅かに細くなる。
「孤児院ですか?」
「はい」
セリオスは穏やかな表情を崩さずに答えた。
「ノルディア領にある孤児院を、少し視察させていただきたいのです」
「理由を伺っても?」
レオンが尋ねても、セリオスに隠す様子はなかった。
「ここ数年、ノルディア領の孤児院に対する教会からの給付金が減少しております」
レオンは口を挟まず、その先を待った。
「ですが、それに反して民間からの寄付金は増え、孤児院の運営状況も改善されていると報告を受けました」
セリオスは僅かに首を傾げる。
「記録を見る限り、喜ばしいことではあります。ですが、あまり例のない変化でしたので、少々不思議に思いまして」
その紅い瞳が、真っ直ぐにレオンへ向けられた。
「一度、自分の目で確かめたいと思い、参りました」
レオンはすぐには答えず、その言葉について考えた。
確かに、事情を知らない者から見れば不思議だろう。
教会から支給される給付金は、以前より減っている。
それにもかかわらず、寄付金は増え、孤児達の生活は以前より豊かになっている。
数字だけを見れば、何か裏があるのではないかと疑われてもおかしくない。
「なるほど」
レオンは納得したように頷いた。
「構いません。ご自由にご覧ください」
セリオスは丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます」
それきり、会話が一度途切れた。
応接室へ静かな空気が流れる。
だが、レオンはセリオスから視線を外さなかった。
セリオスもまた、穏やかな微笑を浮かべたままレオンを見つめている。
互いに礼儀は崩さない。
表面上は、辺境伯と枢機卿による穏やかな会談だった。
しかし、その裏では互いの言葉や表情から、相手が何を考えているのかを探ろうとしている。
少なくともレオンは、目の前の青年をまだ信用していなかった。
そしてセリオスもまた、レオンという人間を見極めようとしているように思えた。
しばらくして、セリオスが静かに立ち上がった。
「それでは、早速向かわせていただきます」
レオンも頷く。
「ゼム」
「はい」
「孤児院まで案内を頼む」
「承知しました」
ゼムも一礼し、セリオスの傍らへ移動する。
セリオスはゼムへ向き直ると、軽く頭を下げた。
「お手数をおかけします」
「いえ」
ゼムはいつもと変わらない穏やかな顔で答える。
「仕事ですので」
セリオスとゼムが応接室を出ていく。
教国の使者と護衛騎士も、二人の後へ続いた。
扉が閉じる。
それまで人の声があった応接室に、急に静寂が戻った。
しばらくして、クロエが閉じた扉を見つめたまま口を開く。
「どう思う?」
レオンは答えを探すように窓の外へ目を向けた。
「分からんな」
それが、正直な感想だった。
少なくとも、会話をした限りでは善人に見える。
言葉遣いは丁寧で、態度も穏やかだった。
孤児院へ向かう理由にも、不自然な点はない。
だが、善人に見えすぎる。
噂で聞いた話と寸分違わない姿が、かえってレオンの疑念を強くしていた。
クロエも同じことを考えているらしい。
「ボクも、よく分からない」
レオンは腕を組み、しばらく考え込んだ。
そして、何かを決めたように口を開く。
「一つ、試してみたいことがある」
クロエが不思議そうに首を傾げた。
「試す?」
「ああ」
レオンは僅かに口元を緩めた。
「噂だけじゃ、その人間の本当の姿までは分からない」
再び窓の外へ視線を向ける。
その先にあるのは、セリオス達が向かった孤児院の方角だった。
「行動を見るのが一番だ」
クロエは僅かに考えた後、何かを察したように頷いた。
「なるほど」
慈愛の聖人。
セレスティア教国最年少の枢機卿。
セリオス・セラフィス。
その噂の裏に、どのような人間が隠れているのか。
レオンは、まだ知らない。
そしてセリオスもまた、この時はまだ、自分が試されようとしていることを知らなかった。




