第54話 教国の枢機卿
「そういえば」
クロエが、ふと思い出したように口を開いた。
「王都で少し変な噂を聞いたよ」
レオンは机の上から顔を上げる。
「噂?」
「うん」
クロエは一度頷き、僅かに声を落とした。
「最近、セレスティア教国が騒がしいらしいんだ」
レオンは不思議そうに首を傾げる。
「教国が?」
「正確には、教国の枢機卿を巡って騒ぎになってるみたい」
その言葉を聞いた瞬間、レオンの脳裏に一人の名前が浮かんだ。
【セレスティア教国枢機卿 セリオス・セラフィス】
つい先ほどまで考えていた、四人の攻略対象の一人。
乙女ゲームの中で、教国最年少の枢機卿として登場する人物だ。
クロエはレオンの反応に気づかないまま、話を続ける。
「何でも、教国の偉い人が勝手に動いたらしくてね。それで向こうは大騒ぎになってるんだって」
「名前は?」
レオンの口から、自然と問いが零れた。
クロエは記憶を辿るように視線を上へ向ける。
「確か……」
僅かに考えた後、思い出したように答えた。
「セリオス」
(やはりか……)
レオンは心の中で呟いた。
偶然とは思えなかった。
ゲームの攻略対象。
教国最年少の枢機卿。
そして、その運命が将来の王国を大きく揺るがす人物。
そのセリオスの名前が、よりにもよって今ここで出てきたのだ。
「何をしたんだ?」
レオンが尋ねると、クロエは困ったように肩を竦めた。
「詳しいことまでは知らないよ。ただ、周囲に何も言わず、勝手にどこかへ向かったらしいんだ。それで教国の人達が慌ててるとか」
レオンは腕を組んで考える。
枢機卿ともなれば、教国の中でも相当な地位にいる人間だ。
そんな人物が事前の連絡もなく姿を消せば、大騒ぎになるのも当然だろう。
「ゼムは何か知ってるか?」
レオンが顔を向けると、ゼムは静かに頷いた。
「私も、噂程度でしたら」
「教国でも問題になってるのか?」
「はい。枢機卿は、教国を代表する立場にございます。そのような方が事前の連絡もなく出発されたとなれば、周囲が慌てるのも無理はございません」
レオンは思わず苦笑した。
どうやら、ゲームで見た印象以上に自由な人物らしい。
クロエも同じことを考えたのか、僅かに口元を緩める。
「でも、かなり変わった人らしいよ」
「変わった?」
「うん」
クロエは頷いた。
「財布を落として困ってる人がいたら、自分のお金を渡しちゃうんだって」
レオンは思わず眉を寄せる。
「詐欺だったらどうするんだ?」
「『その人が助かったのなら、それでよいではありませんか』」
クロエは、セリオスの口調を真似るように穏やかな声で告げた。
そして、いつもの声に戻る。
「そう言ったらしいよ」
執務室へ、何とも言えない沈黙が落ちた。
レオンは椅子の背へ身体を預け、天井を仰ぐ。
「馬鹿なのか?」
「馬鹿だと思う」
クロエは即答した。
普段なら何かしら言葉を添えるゼムも、今回ばかりは否定しなかった。
「それだけじゃないよ」
クロエは指を折りながら、王都で聞いた話を並べていく。
「怪我人がいれば無償で治療する。孤児院には多額の寄付。貧民街には食料を運んで、教会を信じていない人でも関係なく助ける。聞こえてくるのは、そんな話ばっかり」
レオンは腕を組んだまま黙り込んだ。
ゲームの中でも、セリオスはそのような人物として描かれていた。
誰に対しても優しい。
困っている人間を決して見捨てない。
誰よりも慈悲深い、理想の聖職者。
だが、だからこそ怪しく思えてしまう。
悪役令嬢だったクラリスにも、ゲームでは描かれなかった努力や苦しみがあった。
ならば、セリオスにも何かあるのではないか。
ただの善人という言葉だけでは片づけられない、隠された事情が。
「出来過ぎてるな」
「だよね」
クロエも疑わしそうに頷いた。
「正直、怪しい」
「俺もそう思う」
二人は顔を見合わせ、同時に頷く。
だが、ゼムだけは少し違う考えを持っていた。
「ですが……」
「何だ?」
レオンが顔を向けると、ゼムは穏やかに続ける。
「王都では、五年以上前から同じような話が語られているそうです」
レオンは僅かに目を見開いた。
五年。善人を演じ続けるには、あまりにも長い年月だった。
それも、誰かに見せるための一度や二度の行動ではない。
治療。
寄付。
食料支援。
五年以上も変わらず続けているのなら、少なくとも打算だけでは説明できなかった。
「少なくとも、行動そのものは本物なのでしょう」
ゼムの言葉を受け、レオンは黙り込む。
ゲームの中で描かれていたセリオス。
王都で語られているセリオス。
その二つは、ほとんど一致している。
だからこそ、判断に困った。
見返りを求めず、困っている人間を助け続ける。
そんな人間が、本当に存在するのだろうか。
クロエはふと首を傾げた。
「でも、何で勝手に教国を出ていったんだろうね」
「そこまでは分からないな」
レオンは静かに息を吐いた。
セリオス・セラフィス。
将来、王国を揺るがすことになる人物。
そして、『ノルドレア・ロワイヤル』に登場する攻略対象の一人。
いずれ会うことになるだろうとは思っていた。
だが、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。
何となく、嫌な予感がした。
その時だった。
コンコン、と再び執務室の扉が叩かれた。
「失礼します!」
扉の向こうから、ひどく慌てた声が聞こえる。
返事を待つ余裕もなかったのか、扉が勢いよく開き、一人の若い騎士が執務室へ飛び込んできた。
「レオン様!」
「どうした?」
騎士は乱れた息を整えることもなく、姿勢を正して敬礼する。
「教国より使者が来ております!」
レオンは眉を寄せた。
あまりにも、タイミングが良すぎる。
しかし、報告はそれだけではなかった。
騎士は僅かに言葉を詰まらせる。
「それと……」
「何だ?」
「枢機卿セリオス様ご本人も、来られております!」
執務室が静まり返った。
クロエは目を見開いたまま固まっている。
普段は何があっても動じないゼムでさえ、珍しく言葉を失っていた。
レオンだけが、諦めたように天井を仰ぐ。
そして、深いため息とともに一言。
「嫌な予感って、当たるんだな……」




