間章 グリフォンの紋章
戦争が終わってから、十数年の歳月が流れた。
ノルディア邸の訓練場には、木剣が激しくぶつかり合う音が響いていた。
「はああああっ!!」
少年へと成長したグラニウスが、地面を強く踏み込む。
振り下ろされたのは、体重を十分に乗せた力強い一撃だった。
だが、向かいに立つゼムは慌てない。
半歩だけ身体をずらすと、木剣はその衣服さえ掠めることなく空を切った。
勢い余って体勢を崩したグラニウスへ、ゼムの木剣が滑るように伸びる。
その切っ先は、グラニウスの首元でぴたりと止まった。
「そこまででございます」
穏やかな声が告げる。
勝負は決した。
グラニウスは木剣を握ったまま、肩を大きく上下させていた。
額からは幾筋もの汗が流れ、荒い呼吸がなかなか収まらない。
対するゼムは、普段と変わらない涼しい顔をしている。
呼吸は乱れず、汗一つかいていなかった。
「参りました」
グラニウスが敗北を認め、木剣を下ろす。
ゼムも木剣を引くと、隙のない所作で一礼した。
「グラニウス様はまた強くなっておられます」
口元には穏やかな笑み。
礼儀も完璧だった。
だが、グラニウスは疑わしそうに顔をしかめる。
「嘘だな」
「何がでしょうか?」
「絶対そう思ってないだろ」
ゼムは不思議そうに首を傾げた。
「思っておりますが」
「その顔で言われても嬉しくない」
どうやら、ゼムは本気で分かっていないらしい。
二人の稽古を眺めていたヴァルグが、とうとう堪え切れずに吹き出した。
「がははははは!!」
訓練場へ響き渡る笑い声を聞きながら、グラニウスは深いため息を吐いた。
「ますます母上に似てきたな」
その言葉を聞いたゼムは、即座に頭を下げる。
「お褒め頂きありがとうございます」
「褒めてない」
グラニウスは間髪を入れずに否定した。
「そうなのですか?」
「その態度だ」
グラニウスは呆れた様子で、木剣を肩へ担いだ。
「母上も父上に同じ顔をする」
それまで響いていたヴァルグの笑い声が、ぴたりと止まる。
「おい」
だが、グラニウスは構わず続けた。
「父上が何かすると……『流石でございます』『素晴らしい判断でございます』『感服致しました』そう言うんだ」
ゼムは納得したように頷く。
「素晴らしい事ではありませんか」
「顔が全然そう言ってない」
再び訓練場に笑い声が響いた。
ヴァルグは腹を抱え、先ほど以上に豪快に笑う。
「がははははは!! 確かにそっくりだ!!」
グラニウスは呆れたように肩を竦めた。
それでもゼムは、まだ理解できない様子で首を傾げている。
「つまり私は奥様に似ていると」
「そこだ」
グラニウスは深々とため息を吐いた。
「そこが似てるんだ」
ヴァルグはひとしきり笑った後、膝へ手をつきながら立ち上がった。
「今日は終わりだ」
「はい」
「ありがとうございました」
グラニウスとゼムはヴァルグへ一礼し、並んで訓練場を後にする。
ヴァルグは、その背中を黙って見送った。
真っ直ぐ前を向いて歩くグラニウス。
一度決めた道を迷いなく進んでいくその姿は、力強い獅子のようだった。
そして、その半歩後ろを歩くゼム。
常に周囲へ目を配り、何が起きても対応できるよう静かにグラニウスを支えている。
冷静で、聡く、鋭い。
まるで一羽の鷹だった。
ヴァルグは二人の背中を見つめながら、小さく笑う。
「獅子か」
続いて、ゼムへ視線を移す。
「鷹だな」
訓練場を後にしたヴァルグは、そのまま執務室へ戻った。
机の上には、今日も処理を待つ書類が山のように積まれている。
それは、いつもと何一つ変わらない光景だった。
ヴァルグは椅子へ腰を下ろすと、酒瓶を持ち上げて一口飲む。
そして、ふと壁へ目を向けた。
そこには、ノルディア家の紋章が掲げられていた。
飾り気のない、ただの盾を象った紋章。
ヴァルグは酒瓶を片手に、しばらくそれを眺め続けた。
やがて、不満そうに一言呟く。
「つまらんな」
近くに控えていた家臣の身体が固まった。
長年ヴァルグへ仕えてきた者だからこそ分かる。
嫌な予感しかしなかった。
「辺境伯様?」
ヴァルグは壁の紋章を見つめたまま言う。
「変えるか……」
「何をですか?」
「紋章だ」
その言葉が落ちた瞬間、執務室が静まり返った。
家臣達が一斉に動きを止める。
「辺境伯様!?」
「何を仰っているのですか!?」
ヴァルグは騒ぎ出した家臣達へ顔を向け、不思議そうに首を傾げた。
「駄目なのか?」
「駄目です!!」
家臣達の声が、見事に重なった。
「紋章は家の歴史そのものです! 簡単に変えるものではありません!」
しかし、ヴァルグは納得せずに鼻を鳴らす。
「だが今のノルディアは俺だけじゃない」
家臣達が口を閉ざす。
ヴァルグは酒瓶を机へ置き、先ほど訓練場から去っていった二人の姿を思い浮かべた。
「これからはグラニウスの時代だ」
その顔に、少しだけ柔らかな笑みが浮かぶ。
「ゼムもいる」
執務室に、再び沈黙が流れた。
家臣達も、ようやく察し始める。
ヴァルグがなぜ突然、家の紋章を変えると言い出したのか。
するとヴァルグは、近くに立っていた一人の兵士を指差した。
「お前」
「は、はい!」
突然指名された兵士の背筋が伸びる。
「前に報告書へ落書きしていただろ」
兵士の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「え……?」
「絵が上手かったな」
「辺境伯様……」
「何だ」
「十年以上前の話です」
ヴァルグは愉快そうに大笑いした。
「がはははは! 覚えておるぞ!」
だが、兵士にとっては少しも嬉しくなかった。
ヴァルグは机に積まれた書類の中から紙を一枚引き抜くと、兵士の胸元へ押しつける。
「描け!」
「は?」
「獅子と鷹だ」
兵士は紙を持ったまま固まった。
「意味が分かりません」
「俺は分かる」
兵士は、ますます分からなくなった。
ヴァルグはそんな兵士へ構うことなく笑う。
「獅子みたいな息子がいる、鷹みたいなガキがいる、だから合わせろ」
「無茶です!」
ヴァルグは腹を抱えて笑った。
「がはははは!」
そして、まるで冗談を口にするような軽さで告げる。
「描かなかったら打首な」
兵士の顔から、完全に血の気が失せた。
「辺境伯様ぁぁぁぁぁ!!」
悲鳴が執務室中へ響き渡る。
家臣達は誰も助けようとはせず、呆れたように頭を抱えていた。
それは、いつものことだった。
半泣きになった兵士が、縋るように尋ねる。
「どんな生き物ですか!?」
ヴァルグは腕を組み、僅かに考え込んだ。
そして、胸を張って堂々と答える。
「知らん!」
「辺境伯様ああああああ!!」
再び兵士の悲鳴が響いた。
だが、何を言っても命令が覆らないことだけは分かっている。
兵士は涙を浮かべたまま、紙へ向かった。
数十分後。
兵士は震える手で、描き終えた紙をヴァルグへ差し出した。
そこには、一頭の幻獣が描かれていた。
鷹の頭。
獅子の身体。
背には、大きく広げられた翼。
鋭い爪と、力強い四肢。
その幻獣が天へ向かい、雄々しく咆哮する姿だった。
紙を受け取ったヴァルグは、描かれた幻獣を見た瞬間、勢いよく椅子から立ち上がった。
「これだ!!」
家臣達が揃って悲鳴を上げる。
「辺境伯様ああああああ!!」
その反応とは対照的に、ヴァルグは満足そうだった。
描かれた幻獣を眺めながら、嬉しそうに笑う。
「鷹みたいに賢いゼム、獅子みたいに強いグラニウス」
そして、二人の未来を思い描くように言った。
「これからのノルディア家だ」
その言葉を聞いても、家臣達の表情は晴れなかった。
むしろ、そのうちの一人が何かを思い出し、青ざめた顔で叫ぶ。
「お待ちください!!」
「今度は何だ?」
「生き物の紋章は王家のみです!!」
執務室が静まり返った。
家臣は必死の形相で説明を続ける。
「王家の紋章は竜! それ以外の貴族家は武具や植物のみ! 生き物など前例がありません!!」
だが、ヴァルグは手元の紙を眺めながら言った。
「だが竜じゃない」
家臣達の表情が固まる。
「……は?」
ヴァルグは紙に描かれた幻獣を指差した。
「これは鷹と獅子だ」
「そうですが!」
「竜じゃない」
ヴァルグは、さらに続ける。
「それに架空だ」
執務室に沈黙が落ちた。
「存在しない生き物だろう?」
誰も反論できなかった。
理屈としては、間違っていない。
あくまで、理屈としては。
家臣達は揃って頭を抱える。
そんな彼らを気にすることなく、ヴァルグは満足そうに頷いた。
「よし……決まりだ!」
こうして、ノルディア家の新たな紋章が決まった。
翼を大きく広げ、雄叫びを上げるグリフォン。
鷹のように賢い少年と、獅子のように強い息子。
それは、ノルディア家を背負う二人の未来を象徴する紋章だった。
その時、年配の家臣が小さく呟く。
「竜は実在するというのに……」
ヴァルグは鼻を鳴らした。
「だから王家の紋章なんだろう」
そう言い放つと、ヴァルグは邸中に響き渡るほどの声で豪快に笑った。
後日。
ノルディア邸へ、王都から一通の手紙が届いた。
封筒の裏には、竜の紋章が刻まれた封蝋。
王家から送られた正式な書状だった。
家臣達が固唾を呑んで見守る中、ヴァルグは躊躇なく封を切った。
書状へ目を落とし、しばらく読み進める。
やがて、不満そうに鼻を鳴らした。
そこには、こう記されていた。
◇
ノルディア家紋章変更の件について説明を求める。
速やかに王都へ参上されたし。
エルグランド王国。
◇
執務室が静まり返った。
家臣達の顔が一斉に青くなる。
当然だった。
これは、国王から下された正式な王命である。
しかし、ヴァルグは少しも動じなかった。
それどころか、書状を手にしたまま豪快に笑い出す。
「がはははは!!」
近くにあったペンを掴み、受け取った書状を裏返す。
そして、その裏面へさらさらと何かを書き始めた。
書き終えると、満足そうに頷く。
嫌な予感を覚えた家臣が、恐る恐るその手元を覗き込んだ。
そこには大きな文字で、たった一言だけ書かれていた。
【お前が来い!】
執務室の空気が凍りついた。
「へ、辺境伯様……」
「何だ」
「相手は国王陛下です」
「知ってる」
ヴァルグは、まったく気にした様子もなく答えた。
書状を元の形へ折り畳むと、近くにいた兵士へ放り投げる。
「お前」
「は、はい!」
反射的に書状を受け取った兵士の声が裏返った。
「これを商人ギルドから出してこい」
兵士の身体が固まる。
嫌な予感しかしなかった。
「辺境伯様……」
「何だ」
「嫌な予感しかしません」
ヴァルグは愉快そうに大笑いした。
「がはははは!!」
そして、満面の笑みを浮かべたまま告げる。
「出さなかったら打首な?」
兵士の顔から、さっと血の気が引いた。
「辺境伯さまぁぁぁぁぁぁぁ!!」
執務室に悲鳴が響き渡る。
だが、ヴァルグの笑い声は止まらなかった。
「がははははは!!」
こうして、後に王国中を騒がせることになるノルディア家の紋章変更騒動は、さらなる騒動を呼び込むこととなった。




