間章 新しい家族
雪が降っていた。
身を切るような冷たい風が、帝国南西部の小さな町を吹き抜けていく。
その町の片隅に建つ一軒の家。
十歳のゼムは、閉ざされた扉の前に座り込んでいた。
雪が髪や肩へ積もっても、そこを動こうとはしない。
もう何日も待ち続けている。
父を。
母を。
父は帝国軍の騎士だった。
厳しい人だったが、幼いゼムへ剣の握り方から足の運びまで、一つずつ教えてくれた。
母は帝国魔術軍に所属していた。
優しい人で、暇さえあれば本を読んでいた。その隣へ座り、物語を聞かせてもらう時間を、ゼムは何より楽しみにしていた。
そんな二人が、そろって戦場へ向かった。
王国との戦争だった。
戦争が始まった頃、町の誰もが口を揃えて言っていた。
『帝国は強い』
『すぐに勝って帰ってくる』
『だから、何も心配する必要はないと』
だが、現実は違った。
撤退。
敗走。
補給路の崩壊。
届く知らせは、日に日に悪いものへ変わっていった。
そして最後まで、父も母も帰ってこなかった。
二人の代わりに届いたのは、戦死を告げる一枚の通達だけだった。
ゼムは理解したくなかった。
紙に書かれた文字など、何かの間違いだと思いたかった。
待っていれば、いつものように父と母が帰ってくる。
そう信じて、何日も家の前に座り続けた。
しかし、家は空になったままだった。
蓄えていた食料も、やがて底をついた。
助けてくれる者もいない。
十歳のゼムは、たった一人の戦争孤児になっていた。
そして、両親が戦った相手の名を知る。
ノルディア辺境伯――ヴァルグ・ノルディア。
王国北方最強の男にして、帝国軍を壊滅へ追い込んだ英雄。
その名を聞いた瞬間、行き場を失っていた悲しみが、激しい憎しみへ変わった。
許せない。
父を。
母を。
自分から全てを奪った男。
「……絶対に殺してやる」
ゼムは、そう心に誓った。
父の形見である剣を手に取る。
細く長い、帝国式の長剣。
帝国騎士だった父が、いつも振るっていた剣だ。
何もなくなったゼムに残された、家族との唯一の繋がりだった。
数日後。
ゼムは、王国へ向かう商隊の荷馬車の下へ張りついていた。
街道には冷たい風が吹き荒れ、凍えた指から少しずつ力が抜けていく。
腕が痛い。
腹も減っている。
それでも、しがみついた手を離さなかった。
全ては復讐のためだった。
長い道のりの果てに、荷馬車はノルディア領へ辿り着いた。
その夜。
ゼムは、ノルディア辺境伯邸へ侵入した。
闇に紛れて塀を越え、父の剣を強く握り締める。
狙うのは、辺境伯ヴァルグ・ノルディアの首。
ただ、それだけだった。
だが、十歳のゼムが考えた計画など、あまりにも甘かった。
「そこまでだ!」
突然、背後から鋭い声が飛んだ。
ゼムが振り返る。
そこには武器を構えた兵士達が立っていた。
気づいた時には、すでに完全に包囲されている。
「どけ!」
ゼムは剣を抜き、正面の兵士へ突撃した。
だが、十歳の子供が歴戦の兵士に敵うはずもない。
剣を振るう暇さえ与えられず、瞬く間に地面へ押さえつけられた。
父の剣も、その手から奪われる。
「離せ! ……離せぇ!!」
必死に身体を捩り、何度も暴れる。
しかし、押さえつける腕は僅かにも動かなかった。
そのままゼムは、邸の執務室へ連行された。
部屋の奥には、一人の男が座っていた。
大柄な身体。
熊を思わせるほど逞しい体格。
髪には白いものが交じり、その豪放な顔には幾つもの皺が刻まれている。
酒瓶を片手に、男は豪快な笑みを浮かべていた。
ヴァルグ・ノルディア。
ゼムが殺すと誓った、仇その人だった。
「それで?」
ヴァルグが口を開く。
「何で俺を殺そうとした?」
ゼムは憎しみを込めて叫んだ。
「お前に! ……父さんと母さんを殺されたからだ!」
執務室が静まり返る。
兵士達の視線が、ヴァルグへ集まった。
だが、次の瞬間。
ヴァルグは腹を抱えて大笑いした。
「がははははは!!」
その豪快な笑い声が、執務室を揺らす。
「仇討ちか!? 面白いガキだな!!」
「笑うな! ……殺してやる!」
ゼムが怒鳴ると、ヴァルグは酒瓶を置いて立ち上がった。
そして、兵士が持っていた木剣を奪い取る。
「よし! やってみろ」
兵士達が一斉に固まった。
「辺境伯様!?」
「構わん」
ヴァルグは木剣を肩へ担ぎ、不敵に笑う。
「俺を殺しに来たんだろ? なら受けてやる」
奪われていた剣を返され、ゼムは再び父の形見を握った。
そして、勝負が始まった。
全力だった。
怒りも。
憎しみも。
悲しみも。
胸の中にあるもの全てを、剣へ込めた。
それでも、届かない。
一歩も。
一太刀も。
剣先が掠ることさえなかった。
気づけば、ゼムは床へ倒れていた。
父の剣は手を離れ、遠くへ弾き飛ばされている。
首元には、ヴァルグの木剣がぴたりと当てられていた。
完敗だった。
勝負が始まってから、五秒も経っていない。
悔しさに視界が滲み、ゼムの目から涙が溢れた。
その時、一人の兵士が剣を抜いた。
「辺境伯様、コイツは帝国人です」
別の兵士も続ける。
「しかも暗殺未遂犯です。処刑を――」
「待て」
ヴァルグの低い声が、それを遮った。
先ほどまでの豪快な笑い声とは違う。
有無を言わせぬ響きに、兵士は動きを止めた。
ヴァルグはゼムの前まで歩み寄ると、その場へしゃがみ込んだ。
そして、ゼムと真っ直ぐに目を合わせる。
「おい、ガキ」
ゼムは涙を拭うこともせず、目の前の男を睨みつけた。
「お前は家族を失った」
静かな声だった。
「それは戻らん」
握り締めたゼムの拳が震える。
すると、ヴァルグの声に怒気が滲んだ。
「だがな……死んだ者を馬鹿にするな!」
ゼムが目を見開く。
「お前の父親は王国の奴を殺したくて戦場へ向かったのか? お前の母親は王国を滅ぼしたいと戦場へ向かったのか?」
ゼムは答えられなかった。
「違うだろうが!」
ヴァルグの怒号が、執務室に響き渡った。
「友人を、家族を、皆を守るために自国の事を思って戦場に出るのだ!」
ヴァルグの目が鋭くなる。
その奥には、怒りだけではない深い悲しみが宿っていた。
「俺も息子と妻を失った」
執務室を重い沈黙が包む。
「跡取りだった、息子は強かった……俺より強くなると思っていた。妻は俺にしちゃあ、いい女だった」
ヴァルグは、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「だが帰ってこなかった……帝国とのアホな戦争でな」
ゼムは何も言えない。
自分と同じように、この男も大切な家族を戦争で失っていた。
「だから分かる。お前の気持ちは良く分かる」
ヴァルグは静かに告げる。
次の瞬間、その声が再び怒号へ変わった。
「だが、仇討ちなどけしからん!!」
大気が震え、部屋そのものが揺れたように感じられた。
「死んだ奴らの覚悟を踏みにじる気か!? 命を懸けて守ったものを無駄にする気か!」
その場にいた誰も、声を出すことができなかった。
しかし、一人の家臣が意を決したように口を開く。
「ですが辺境伯様! 親は帝国兵ですぞ!」
ヴァルグの目が細くなった。
「馬鹿者」
先ほどまでとは打って変わった、静かな声だった。
「親の罪を子供に押し付けるな」
家臣が口を閉ざす。
「戦ったのは親だ……このガキじゃない」
ヴァルグは周囲の兵士達へ目を向けた。
その瞳には、深い闇が映っていた。
「コイツはただ家族を失っただけだ」
そう言い切ると、ヴァルグは再び豪快に笑った。
まるで、いつもの自分へ戻ったかのように。
「おい、ガキ」
ゼムが顔を上げる。
「お前は家族を失った! それは戻らん」
ヴァルグはゆっくりと近づき、ゼムの目の前まで顔を寄せた。
「だがな……新しい家族は作れる」
ゼムには理解できなかった。
この男が何を言っているのか、まるで分からない。
ヴァルグは親指を立て、自分自身を指した。
「俺の家族になれ!」
その場にいた全員が固まった。
「へ、辺境伯様!?」
「何を仰っているのですか!?」
家臣達が一斉に騒ぎ始める。
当然だった。
相手は敵国の孤児。
それも、たった今ヴァルグの暗殺を企てた少年なのだ。
しかし、ヴァルグは本当に分からないという顔で首を傾げた。
「何だ? 何がおかしい?」
「おかしいに決まっております!」
ヴァルグは不満そうに鼻を鳴らす。
「こいつは俺が家族を奪ったと言っている」
そして、迷いなど微塵も見せずに笑った。
「じゃあ俺がなるしかないだろう!!」
執務室が再び静まり返った。
兵士も家臣も、あまりの言葉に唖然としている。
その中で、ヴァルグの豪快な笑い声だけがいつまでも響いていた。
こうしてゼムは、ノルディア家の側仕えとなった。
それから十数年後。
ゼムが初めて執事服に袖を通した日。
ヴァルグは一本の剣を差し出した。
父の形見。
十歳のあの日、ノルディア邸へ侵入した際に奪われた剣だった。
ゼムは両手で受け取り、その重さを確かめるように握り締める。
そこで、柄頭に新たな紋章が刻まれていることに気づいた。
翼を大きく広げ、"雄叫びを上げるグリフォン"。
ノルディア家の紋章だった。
ヴァルグは満足そうに笑う。
「返すぞ、ゼム。今度は守るために振るえ」
そして、邸中に響き渡るほどの声で豪快に笑った。
最後に、当たり前のことを告げるように言う。
「お前は既にノルディアの家族だからな」
ゼムは剣を強く握り締めた。
帝国で生まれ、父の形見だった剣。
ノルディアで与えられた、新たな居場所。
その日、ゼムは心に誓った。
この命が尽きるまで、ノルディア家を守り抜くと。




