第49話 届かなかった想い
ノルディア邸の執務室で、レオンは最後の書類に判を押した。
「これで本日の分は以上です」
ゼムが書類を回収する。
朝から机の上に積み上げられていた書類の山は、ようやく跡形もなく消えていた。
レオンは椅子の背へ深く身体を預け、大きく息を吐く。
さすがに疲れた。
五日分の政務は、想像していた以上の量だった。
その時、執務室の扉が静かにノックされた。
「入れ」
扉を開けて現れたのは、ガレスだった。
「若様」
「どうした?」
「クロエ殿がまだ戻られておりません」
レオンが顔を上げる。
「まだか?」
「はい」
ガレスは重々しく頷いた。
「花を買って旦那様のお墓へ向かわれましたが、未だ戻られておりません」
レオンは窓の外へ目を向けた。
執務室から見える丘。
その頂には、父グラニウスの墓がある。
墓石の周囲を埋め尽くしているのは、領民達が今も供え続けている無数の花だった。
遠くから眺めれば、墓があるとは思えないほど美しい花畑に見える。
その中心に、小さな人影があった。
クロエだ。
すでに夕日は傾き、空を赤く染め始めている。
それでも、立ち去る気配はなかった。
レオンは僅かに眉をひそめる。
「行ってくる」
ゼムは静かに頷いた。
「お気を付けて」
レオンは席を立ち、執務室を後にした。
丘へ続く道を歩く。
夕暮れの風が吹き抜けるたび、道の両側に咲く花々がさざ波のように揺れていた。
やがて丘の頂へ辿り着く。
墓石の前には、クロエが地面へ座り込んでいた。
「クロエ」
呼びかけた瞬間、その小さな肩がびくりと震えた。
クロエがゆっくりと振り返る。
その顔を見たレオンは、思わず足を止めた。
蒼い瞳は赤く腫れ、頬には幾筋もの涙の跡が残っている。
泣いていたのだ。
「どうしたんだ?」
クロエは答えずに俯いた。
何かを口にしようとしているのか、唇が小さく震えている。
やがて、消え入りそうな声が漏れた。
「ごめん」
「何がだ?」
クロエは膝の上で拳を強く握り締めた。
堪え切れなくなった涙が一粒、膝へ落ちる。
「ボクのせいで………ボクのせいでレオンのお父さんを」
レオンの表情が僅かに固まった。
クロエは震える声で続ける。
「リックさんに聞いたんだ。病気を抑える秘薬を持つ商人を探してたって」
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
「探してたのはボクだったんだ……ボク……逃げたから見付からなかった……だから」
喉が詰まり、その先の言葉が出てこない。
クロエは何度も息を吸おうとするが、嗚咽に邪魔され、肩だけが小さく震え続ける。
「だからグラニウス様は」
どうにか絞り出した声も、途中で崩れた。
「ボクが奪ったんだ。レオンの家族を…………ボクはレオンのお父さんを殺したんだ……」
墓の前で抱え続けていた罪悪感が、堰を切ったように溢れ出していた。
レオンは何も言わなかった。
夕暮れの風が二人の間を通り抜け、墓前に供えられた花々を静かに揺らしていく。
やがてレオンは、父の名が刻まれた墓石へ視線を向けた。
しばらく見つめた後、静かに口を開く。
「クロエ、それは違う」
クロエが涙に濡れた顔を上げた。
「俺は父上が病気なのを知ってた」
クロエが息を呑む。
「でも深く聞かなかった」
レオンは自嘲するように苦笑した。
「父上は強かったからな……どうせ大丈夫だと思ってた」
そう言いながら、クロエのそばまで歩み寄る。
「そのうち良くなると思ってた……だから向き合わなかった」
風が丘を駆け抜けた。
無数の花が、一斉に波打つように揺れる。
「気付いた時にはもう危篤だった」
静かな声だった。
だが、その言葉には今も消えない後悔が重く滲んでいた。
「お前を探した時には、残された時間もほとんど無かった」
クロエは何も言えない。
レオンはゆっくりと首を横へ振った。
「だから違う、クロエのせいじゃない。俺が助けられなかったんだ。それをクロエが背負う必要はない」
クロエの瞳から、再び大粒の涙が溢れた。
責められると思っていた。
恨まれていると思っていた。
それなのに、レオンはクロエを責めなかった。
父を救えなかった苦しみを自分も抱えているのだと、そう告げてくれた。
レオンは涙を流すクロエから目を逸らさず、真っ直ぐに言う。
「だから自分を責めるな」
クロエは言葉を失った。
何かを返したくても、声にならない。
すると、レオンが少し困ったように頭を掻いた。
「それに謝るなら俺だ」
「え?」
クロエが目を瞬かせる。
「レンなんて偽名を使って辺境伯だって隠してた」
レオンは苦笑する。
「そのせいで色々面倒な事になった」
そして、クロエへ向かって軽く頭を下げた。
「悪かった」
クロエは呆然とレオンを見つめた。
違う。
謝らなければならないのは、自分の方だ。
それなのに、この人は自分にも責任があったのだと言って、クロエへ頭を下げている。
堪えようとした涙が、また頬を伝った。
「何でまた泣くんだ」
「知らない!!」
クロエは涙を流しながら、それでも小さく笑った。
本当に、この人はずるい。
優しすぎる。
その優しさが、冷え切っていた胸の奥へゆっくりと染み込んでくる。
先ほどまで息もできないほど苦しかったはずなのに、今はほんの少しだけ救われたような気がした。
傾いた夕日が、墓石と二人を柔らかく照らしている。
周囲では、無数の花が風に揺れていた。
その一つ一つに込められているのは、今もなおグラニウスを慕い続ける人々の想いだった。
レオンは静かに墓石を見つめる。
「父上」
小さく呼びかける。
返事はない。
それでも、不思議と寂しくはなかった。
隣にはクロエがいる。
守るべき人がいる。
父から受け継いだ領地がある。
だから、前へ進もう。
レオンは静かにそう思った。
夕日に照らされた墓石は、何も語らない。
それでもレオンには、父が二人を静かに見守っているように思えた。




