第45話 約束の食事
朝日が、グランツの宿場町を明るく照らしていた。
大通りには、朝早くから多くの商人達が行き交っている。
荷物を積んだ竜車が石畳の上を進み、通りのあちこちから走竜の鳴き声が聞こえてきた。
昨夜、衛兵達が大人数で町外れへ向かったことは、すでに町の人々の間で噂になり始めている。
それでも、商人達の朝は止まらない。
昨夜の騒動などなかったかのように、宿場町はいつもと変わらず動き始めていた。
レオンは、宿の食堂で席に着いていた。
「ぼっちゃま」
ゼムが淹れたての紅茶をレオンの前へ置く。
「何だ」
「本日は領地へ戻ります」
「分かってる」
レオンは頷いた。
クロエを巡る誘拐事件は、ひとまず終わった。
ブロドは昨夜のうちに、グランツ宿場町の衛兵へ引き渡されている。
レオンがノルディア辺境伯として厳罰を求めれば、この地の領主も無視することはできないだろう。
だが、レオンは自ら処罰へ介入するつもりはなかった。
ここはノルディア領ではない。
ブロドの罪を調べ、その処遇を決めるのは、この地を治める領主だ。
レオンは必要な証言だけを残し、正式な裁きはこの地の領主へ委ねることにしていた。
その時、食堂の扉が開いた。
灰色の髪。
見慣れた迷彩柄のフード付きマント。
クロエだった。
そのマントは、誘拐された際に宿の裏口へ落ちていたものだ。
昨夜、宿へ戻った後にレオンから返してもらい、今は再びクロエの肩を覆っている。
「おはよう」
「おう」
クロエは食堂へ入ると、レオンの向かいの席へ座った。
二人の間には、どこか気まずい空気が流れている。
少なくとも、クロエはそう感じていた。
昨夜、隠し続けてきたことを知られてしまった。
公爵家の生き残りであること。
過去を隠し、追っ手から逃げ続けていたこと。
誰にも知られたくなかった秘密を、レオンは知っている。
それでも、レオンの様子はいつもと何も変わらなかった。
「朝飯食ったか?」
「まだ」
「じゃあ頼めばいい」
「うん」
交わした言葉は、たったそれだけ。
過去について尋ねられることもなければ、以前とは違う目を向けられることもない。
あまりにも普段通りのレオンを見て、クロエは少しだけ安心した。
そして、ふと大切なことを思い出す。
「あ」
レオンが顔を上げた。
「どうした?」
クロエは少しだけ笑った。
「約束」
「約束?」
「ご飯」
レオンの動きが固まった。
数秒間、そのまま黙り込む。
「あ」
ようやく思い出したらしい。
二人は、これまで何度も食事へ行こうとしてきた。
一回目は、竜車を購入するための商談が長引いた。
二回目は、クロエが断った。
三回目は、レオンが断った。
そして四回目は、食事へ向かう直前にクロエが誘拐された。
見事なまでに、全て失敗している。
レオンは困ったように苦笑した。
「そうだったな」
クロエも思わず笑う。
「そうだったなじゃないよ」
「四回連続だよ?」
「過去最高記録じゃないか?」
「更新しなくていいから」
クロエが珍しく、すぐさま突っ込んだ。
二人のやり取りを聞いていたゼムが、小さく笑う。
「では本日が五回目ですな」
その瞬間、レオンとクロエが同時にゼムを見た。
「縁起でもない事を言うな」
「言わないで」
二人の声が、見事に重なった。
ゼムは僅かに肩を竦める。
「失礼しました」
そう言いながらも、その表情に反省の色はまったく見えなかった。
しばらくすると、頼んでいた料理が運ばれてきた。
焼きたてのパン。
湯気を立てる温かなスープ。
香ばしく焼かれた卵料理。
どれも宿場町ではありふれた朝食で、決して豪華なものではない。
それでも、温かな料理の香りに包まれていると、昨夜から続いていた緊張が少しずつ解けていくようだった。
レオンはパンを手に取る。
「そういえば」
向かいに座るクロエへ目を向けた。
「何?」
「昨日結局食ってなかったな」
クロエは頷く。
確かに、昨日は何も食べていない。
誘拐されていたのだから、食事どころではなかった。
すると、レオンが楽しそうに笑った。
「じゃあこれで達成だな」
クロエは一瞬、何を言われたのか分からず、きょとんとする。
意味を理解した途端、堪え切れずに吹き出した。
「朝ご飯だよ?」
「飯は飯だろ」
「そうだけど!」
また笑ってしまった。
本当に変な奴だ。
王国でも有数の大貴族。
ノルディア辺境伯。
その正体を知った今でも、クロエの目の前にいる少年は、やはりこれまでと変わらないレンだった。
いや――レオンだった。
クロエはパンを口へ運ぶ。
いつもと変わらないはずのパンが、今日は少しだけ美味しく感じられた。
窓の外からは、荷車の音に交じって走竜の鳴き声が聞こえてくる。
もうすぐ、別れの時間だった。
レオンはノルディア領へ帰る。
クロエもまた、商人として次の町へ旅立つ。
これまでと同じように、それぞれの道へ戻っていく。
それでも、以前までと全てが同じというわけではなかった。
何度も食事の約束を交わし、共に商売を始め、そして昨夜の出来事を乗り越えたことで、二人の間には確かな信頼が生まれていた。
やがて食事が終わる頃、クロエが静かに口を開いた。
「レオン」
初めてだった。
レンではなく、本当の名前で呼んだのは。
レオンも少し驚いたようにクロエを見る。
「何だ?」
クロエは僅かに迷った後、小さく笑った。
「助けてくれてありがとう」
昨夜も、同じ言葉を口にした。
だが今度は、消え入りそうな声ではなく、きちんとレオンの顔を見て伝えたかった。
レオンは少し照れ臭そうに頭を掻く。
「気にするな」
そして、当たり前のことを告げるように続けた。
「友達だろ」
クロエは目を見開いた。
友達。
これまで一人で生き、誰とも深く関わらないようにしてきたクロエにとって、その言葉は妙に嬉しかった。
胸の奥に生まれた温かな気持ちに押されるように、自然と頷く。
「うん」
春の朝。
賑わい始めた宿場町の片隅にある、ありふれた食堂。
並んでいるのは、特別でも豪華でもない朝食だけだった。
それでも、四度も流れた末にようやく叶った約束の食事は、二人にとって思っていた以上に大切な時間となっていた。




