第5話 守護者の成れの果て
扉を開いた瞬間、レオンは足を止めた。
寝台の上にいる男を見て、胸が締め付けられる。
グラニウス・ノルディア
"王国最強の辺境の守護者"
身長は二メートル近く。
白銀の混じり始めた黒髪は短く刈り込まれ、岩を削ったような顔には、無数の古傷が刻まれている。
そのどれもが、辺境を守り続けた証だった。
かつては鎧を着たまま、熊のような魔獣を担ぎ上げ、騎士達から人間ではないと冗談交じりに言われた男だった。
レオンにとっては、幼い頃から見上げるしかなかった大きな背中。
幼い頃から見上げ続けてきた父。
だが、そこにいたのは、病に蝕まれた一人の男だった。
頬は痩せこけ、以前は丸太のように太かった腕も細くなっていた。
呼吸は浅く、胸が上下するたびに苦しそうな音が漏れる。
それでも、その蒼色の瞳だけは変わっていなかった。
グラニウスはゆっくりと視線を向け、レオンを見ると、僅かに口元を緩めた。
「……帰ったか」
掠れた声だった。
それだけで、レオンの胸が痛む。
いつもの父なら、もっと低く響く声だった。
こんな弱々しい声を聞いたことがない。
レオンは寝台の傍へ歩み寄り、頭を下げた。
「ただいま戻りました、父上」
グラニウスは小さく頷くが、その動作だけでも辛そうだった。
しばらく、沈黙が流れる。
レオンは言葉を探すが、何を言えばいいのか分からない。
病気のこと。
余命のこと。
それとも――
結局、口から出たのは別の言葉だった。
「お痩せになりましたね」
グラニウスは僅かに目を細めた。
「そうか」
それだけだった。
だが、その直後、小さく咳き込む。
「父上!」
レオンが身を乗り出す。
グラニウスは手を上げて制した。
「……大丈夫だ」
大丈夫なはずがない。
レオンには分かる。
ゼムが言っていた。
『もって数日』
それが現実なのだ。
「病のことは伺いました」
グラニウスは静かに頷く。
「……そうか」
「なぜ、黙っておられたのですか?」
少しだけ沈黙した後、グラニウスは答えた。
「言っても……変わらん」
短い言葉だった。
だが、途中で息が続かなくなったのか、言葉が途切れる。
レオンは思わず視線を逸らした。
見ていられなかった。
目の前にいるのは"英雄"ではない。
死を目前にした父親だった。
しばらく沈黙が続き、窓の外から風の音だけが聞こえる。
やがて、グラニウスがゆっくりと口を開いた。
「もうすぐ……領地を……任せることになる……」
レオンが顔を上げる。
その瞳には、涙が滲んでいた。
グラニウスは天井を見つめたまま続けた。
「心配するな……」
呼吸を整えるように、一度言葉が途切れる。
「お前は……賢い……必ず……私より良い領主になる……だろう」
レオンは何も言えなかった。
今は、そんな話を聞きたくなかった。
それではまるで、全てを終える準備をしているようだ。
グラニウスは小さく目を閉じる。
「学校を卒業するまでは……私が……と思っていたが……」
息を整えると、僅かに苦笑した。
「どうやら……無理のようだ……」
レオンは拳を握り締める。
爪が掌に食い込み、歯を食いしばらなければ、この場で泣き崩れてしまいそうになる。
それでも、痛みは感じなかった。
グラニウスは、しばらく黙っていた。
何かを考えるように。
そして――
「幼い頃から……構ってやれなかった……」
レオンの目が見開かれる。
父がそんなことを口にするとは思わなかったからだ。
「父上、そんなことは……」
レオンの言葉を遮るように、グラニウスが口を開いた。
「我慢を……させていた……」
そこで言葉が途切れ、激しい咳が漏れた。
「ごほっ……ごほっ……!」
レオンは慌てて身体を支える。
「父上!」
グラニウスは、大丈夫だと言うように首を振った。
だが、その顔色は明らかに悪く、咳が収まるまでしばらく時間が掛かった。
そして、ようやく顔を上げる。
「すまない……こんな……〝ダメな父親〟で……」
その瞬間、レオンの中で何かが切れた。
「違います!」
思わず声を上げていた。
グラニウスが、少しだけ目を見開く。
レオンは震える拳を更に強く握り締めた。
「父上は、立派な父親です」
声が震える。
目からは涙が零れていた。
それでも、止まらなかった。
「領民を守り、騎士達を守り、私を育ててくださいました」
グラニウスは何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
「私は、父上を誇りに思っています」
レオンは深く頭を下げた。
震える声で続ける。
「ですから……そんなことを仰らないでください」
部屋に静寂が落ちる。
長い沈黙の後、グラニウスは僅かに口元を緩めた。
それは、レオンが見た中で一番優しい笑顔だった。
「……そうか」
その一言だった。
その一言だけで、レオンには十分だった。




