第419話 届かなかった願い
武芸大会が終わった翌日、クラリスはローゼンベルク公爵家の馬車に揺られ、王都の屋敷へ戻っていた。
学園が設けた三日間の休みの初日。大会を終えた生徒たちは、寮で身体を休めたり、実家へ帰ったりしている。
馬車の窓から見える街には、武芸大会の熱気がまだ残っていた。大会の旗や飾りは少しずつ片付けられているが、観戦に訪れた人々はまだ多く、通りの店も賑わっている。試合の結果を語り合う声が、窓越しにも聞こえてきた。
クラリスは外を眺めながら、膝の上で手を握りしめていた。
大会最終日、彼女は女子剣術部門で優勝した。表彰台に立ち、優勝者として名を呼ばれ、周囲から祝福を受けた。ローゼンベルク家の令嬢として、誇るべき結果だった。
それなのに、胸に残っているのは優勝の喜びではない。
試合場に倒れたエリシア。振り上げたレイピア。刃を素手で止めたアレクの手。そして、自分へ向けられた怒りの眼差し。
何度も、あの光景が脳裏によみがえる。
エリシアは倒れても、何度も立ち上がろうとしていた。審判が試合を止めなかったため、クラリスは試合を続けた。だが、あの時点ですでに勝敗は決していたのではないか。審判の判断を待つのではなく、自分で剣を収めるべきだったのではないか。
考えるほど、胸の奥が重くなった。
アレクはエリシアを抱きかかえ、試合場を去った。クラリスに何も告げず、振り返りもしなかった。
それ以来、二人は話していない。
馬車が屋敷の門をくぐり、玄関前で止まる。使用人が扉を開けた。
「お帰りなさいませ、クラリス様」
「ただいま。父上は執務室かしら?」
「はい。旦那様は執務室にいらっしゃいます。クラリス様がお戻りになるとお伝えしてございます」
「そう。着替えたら、すぐに伺うわ」
クラリスは自室へ向かった。
部屋へ入ると、窓辺の椅子に腰掛けた。学園の制服から屋敷用の服へ着替えたものの、気持ちは少しも休まらない。
あの試合のことを、父に話さなければならなかった。
審判が試合を止めなかったこと。生徒会長たちが、エリシアの使っていた剣術を問題視するような話をしていたこと。そして、アレクが自分へ向けた怒り。
ただの試合ではなかったのかもしれない。
王権派の者たちは、エリシアを傷つけることでアレクを動かしたかったのではないか。王太子が特待生の平民を庇えば、それを理由に自分との婚約に疑いを差し挟める。二人の間に不和があると周囲に見せれば、ローゼンベルク家を揺さぶることもできる。
そう考えれば、審判が試合を止めなかったことにも説明がつくように思えた。
しかし、確かな証拠はない。
王権派が本当に関わっていたのか。それとも審判の判断が遅れただけなのか。クラリスには分からなかった。
思い込みで動いてはいけない。父からも、周囲をよく見て、誰が何を言い、どう動くのか確かめるよう言われている。
だが、何もできずにいる間にも、エリシアが再び狙われるかもしれない。
クラリスは立ち上がり、父の執務室へ向かった。
◇
執務室では、父が机に向かって書類を読んでいた。
「戻りました、父上」
「お帰り、クラリス。大会は見事だったな。優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
父は書類を机へ置き、クラリスの表情を見た。
「何かあったようだな」
「はい。大会で起きたことをご報告したいのです」
「座りなさい」
クラリスは父の向かいに腰を下ろし、試合のことを起きた順に説明した。
エリシアが何度も倒されても立ち上がったこと。審判が試合を止めなかったこと。最後にレイピアを振り下ろそうとした時、アレクが割って入り、剣を止めたこと。アレクがエリシアを抱きかかえて試合場を去ったこと。
父は途中で口を挟まず、静かに聞いていた。
「その後、王太子殿下とは話したのか?」
「いいえ。大会の間も、表彰式の後も、話しておりません」
「殿下はエリシア嬢の見舞いに?」
「大会最終日の表彰式が終わった後、医務室へ行かれたそうです。わたくしは、その場にはおりませんでした」
「試合の判断について、審判には何か言ったのか?」
「わたくしからは何も申し上げておりません。ロザリア嬢とミレイユ嬢が、生徒会として抗議するとおっしゃっていました」
「そうか」
父は椅子の背へ身を預け、少し考え込んだ。
「審判が試合を止めなかった理由は、まだ分からない。だが、王太子殿下が試合場へ飛び込むほどの事態になった以上、学園には確認させる必要がある」
「わたくしもそう思います。ですが、あの試合を利用しようとした者がいるのではないかと……」
「王権派の狙いだと思うのか?」
「断定はできません。ただ、エリシアさんを傷つければ、殿下は必ず動かれます。殿下が彼女を庇えば、わたくしとの関係に不和があると見せられる。そう考えた者がいても、不思議ではありません」
父はクラリスを見つめた。
「その推測を裏付けるものはあるか?」
「ありません。ですから、進言すべきか迷っているのです」
「今の状況では、慎重にならざるを得ない」
父の声は落ち着いていたが、苦さがにじんでいた。
「中立穏健派は、いま非常に厳しい立場に置かれている。魔導国家で取り潰され、処刑された貴族たちは、穏健派の中でも有力な家ばかりだった」
クラリスは息を呑んだ。
その事件については、入学前に耳にしていた。だが、父の口から今の状況を踏まえ改めて聞くと、その重みが違った。
「彼らの家は、王国の中でも多くの役職を担っていた。領地も人脈もあり、穏健派の中心を支えていた。その家々が失われたのだ」
「王権派が関わっていたのでしょうか?」
「そう疑う者はいる。だが、証拠はない。表向きには、魔導国家で盗賊へ資金を流した罪に問われ、処刑された。王国から抗議すれば、他国の司法へ介入することになる。軽々しく動ける問題ではない」
「では、このままでは……」
「このままでは、中立穏健派も改革派と同じ道をたどるかもしれない」
父は静かに続けた。
「かつて改革派は、中心となる貴族を失い、まとまりを保てなくなった。名目上は派閥が残っていても、実際に動かす者がいなくなれば、やがて消える。穏健派も有力家を失い続ければ、派閥そのものが立ち行かなくなる」
クラリスは膝の上で手を握った。
「それを防ぐために、アレク殿下との婚約を……?」
「そうだ」
父は目を逸らさず答えた。
「王権派の勢力が、王国の重役に偏り始めていた。宰相をはじめ、王権派の者が要職を占め、国の決定に強い影響力を持つようになっていた。このままでは、王族を中心とした一つの派閥だけで国が動くことになる」
「だから、王権派の中心人物である宰相に……」
「オズワルド・アルカディア公爵の弱みを握った。ローゼンベルク家はその弱みを利用し、王子との婚姻を認めさせた。お前とアレク殿下の婚約は、王権派の力が一方へ偏るのを抑えるためのものでもあった」
クラリスは言葉を失った。
自分とアレクの婚約が、家同士で決められた政治的なものだとは分かっていた。だが、王権派の中心人物の弱みを握り、それを使って成立させたと聞くのは初めてだった。
「殿下ご自身は、その交渉についてご存じなのでしょうか」
「すべてを知っているわけではないだろう。婚約は王家の承認を得て成立した。しかし、宰相の弱みを利用した交渉の細部まで、殿下に伝える必要はなかった」
父は一度、言葉を切った。
「お前に隠すつもりはなかった。だが、これはお前の婚約を巡る政治的な事情だ。いつかは話すべきだと思っていた」
「では、わたくしと殿下の婚約は、穏健派を守るための……」
「それだけではない。ローゼンベルク家にとっても、王族とのつながりは必要だった。しかし、王権派が重職を占める状況を少しでも変えるため、婚約を成立させたのは事実だ」
クラリスは父の言葉を受け止めようとした。
自分はアレクの婚約者だ。だが、その立場には、自分の気持ちとは関係のない政治的な意味がある。アレクとの関係が揺らげば、ローゼンベルク家だけでなく、中立穏健派にも影響が及ぶ。
「わたくしが殿下との関係を損なえば、穏健派の立場も弱くなるのですね」
「その可能性はある。だが、だからといって、お前に何も考えるなとは言わない。殿下との関係は、お前自身のものだ。政治のためだけに維持すればよいという話ではない」
「お父様……」
「ただ、今は軽率に動けない。穏健派の有力家が処刑された直後だ。王権派に正面から抗議すれば、残った家まで危険にさらすかもしれない。王権派が大会を利用したという証拠もない。お前の推測だけで動けば、こちらが不利になる」
クラリスは視線を落とした。
分かっている。今は、何をするにも慎重にならなければならない。
けれど、慎重に構えている間に、エリシアがまた傷つけられるのではないか。
「エリシアさんは平民です。彼女を守るために、わたくしにできることはないのでしょうか」
「お前は何を考えている?」
「寮母であるフローラ嬢に相談したいと思っています」
父の眉がわずかに動いた。
「フローラ・フェルナード嬢か。革新派の中心となる家の娘だな」
「はい。フローラ嬢は女子寮の寮長です。エリシアさんとも関わりがあり、彼女を気にかけているように見えます」
「相談すること自体は構わない。ただし、相手の立場を考えなさい。革新派も穏健派と同じ中立派に属してはいるが、彼らには彼らの判断がある。協力を求めるなら、相手が何を危惧しているかを聞く必要がある」
「分かりました」
「それから、アレク殿下に会う機会があれば、試合のことを話しなさい。謝罪をするにしても、言い訳をするためではなく、何が起きたのか、どう考えているのかを自分の言葉で伝えるんだ」
「……はい」
クラリスは頷いたが、アレクへ何を伝えればよいのか、まだ分からなかった。
彼に謝るだけでいいのか。エリシアを傷つけたことを詫びれば、彼は聞いてくれるのか。それとも、自分が試合を続けた理由も話すべきなのか。
父との話が終わり、クラリスは執務室を出た。
◇
自室へ戻ると、窓の外はすでに夕暮れに染まり始めていた。休み初日は、屋敷で父と話すだけで終わろうとしている。
クラリスは着替えを済ませ、学園へ戻る支度を始めた。
「クラリス様、今夜は屋敷にお泊まりにならないのですか?」
侍女が尋ねた。
「今日中に寮へ戻るわ。明日から休みとはいえ、学園で確認したいことがあるの」
「かしこまりました。お帰りのお支度をいたします」
帰りの馬車の窓から、王都の通りを見つめた。
大会の飾りが片付けられていく。人々はそれでも賑やかに行き交い、通りの店には明かりが灯り始めていた。
クラリスは、フローラに何をどう話すべきか考えた。
穏健派の窮状を伝え、助力を求めるのか。エリシアの保護を頼むのか。それとも、まずは大会で何が起きたかを相談するのか。
すべてを一度に話すことはできない。だが、フローラが穏健派の状況を知っているなら、話を聞いてくれるかもしれない。
その一方で、父の言葉が胸に重く残っていた。
王権派と中立派が正面からぶつかれば、対立はさらに激しくなる。国が二つに割れる危険さえある。今、穏健派に味方すれば、フローラの家にも大きな負担をかけることになる。
それでも、何もしないままでいいのだろうか。
馬車が学園の門へ着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
クラリスは寮の玄関へ入り、受付にいた寮母へ声をかけた。
「寮母様、少しお願いがありますの」
「はい、クラリス様。どうされましたか?」
「寮長のフローラ様とお話ししたいのです。可能でしたら、面会の時間をいただけないでしょうか」
寮母は少し驚いたように目を瞬かせた。
「フローラ様にお伝えいたします。急ぎのご用件でしょうか?」
「はい。休みの間に、一度お話ししておきたいことがありますの」
「分かりました。確認してまいりますので、少々お待ちください」
寮母は奥へ下がっていった。
クラリスは玄関ホールに一人残され、壁に掛かったランプの明かりを見つめた。
フローラと話をすれば、何かが変わるかもしれない。
けれど、話したところで助けてもらえるとは限らない。父の言う通り、革新派には革新派の立場がある。フローラが断る可能性もある。
それでも、頼まなければ何も始まらない。
やがて寮母が戻ってきた。
「フローラ様は、休みの最終日に寮でお茶会を開いてはどうか、とおっしゃっています。その時にお話を聞きたいそうです」
「休みの最終日……分かりました。お願いしますわ」
「参加される方は、フローラ様とクロエ様、それからクラリス様でよろしいそうです」
クラリスの記憶に、フローラの傍に控えている少女の姿が浮かんだ。
クロエ。名前までは知らなかったが、平民にしては魔力量があまりに大きい。フローラの近くにいることもあり、護衛のような役目を担っているのだろうと、クラリスは考えていた。
「分かりました。ありがとう」
クラリスは寮母に礼を言い、自室へ向かった。
休みの最終日まで、三日ある。その間、父から聞いた話と、自分がフローラへ求めるものを整理しなければならない。
穏健派の危機。アレクとの婚約。王権派の動き。エリシアの保護。
どれも、自分一人で決められることではなかった。
それでも、何もしないままでは、取り返しのつかないことになる気がしていた。
◇
休みの最終日。学園の女子寮にある広間には、三人分の茶器が用意されていた。
広間は寮生たちが食事や集まりに使う場所で、天井は高く、壁際には大きな窓が並んでいる。休暇中のため、普段の賑わいはない。窓から差し込む午後の日差しが、長机と椅子を明るく照らしていた。
テーブルには紅茶と焼き菓子が並んでいる。茶会というには簡素だが、今日の話し合いには十分だった。
クラリスが広間へ入ると、フローラが立ち上がった。
「お待ちしておりました、クラリス様」
「お招きいただき、ありがとうございますわ」
フローラの隣には、以前から彼女のそばで見かけていた少女が立っていた。落ち着いた表情で、姿勢よく控えている。クラリスは彼女が護衛役だと思っていたが、こうして茶会に同席するとは考えていなかった。
「こちらはクロエです。私と一緒に来てもらいました」
「初めまして。クロエと申します」
クロエは丁寧に頭を下げた。
「クラリス・ローゼンベルクですわ。よろしくお願いいたします」
三人は席についた。
フローラが紅茶を注ぎ、クロエが菓子を勧める。最初は、休暇中の過ごし方や大会の話など、当たり障りのない会話が交わされた。
クラリスは、どう切り出すべきか迷っていた。
父から聞いた話をすべて伝える必要はない。だが、穏健派が置かれている状況を説明しなければ、フローラへ協力を求める理由も伝わらない。
クラリスはカップを置いた。
「フローラ様。本日は、お願いがあってお時間をいただきました」
「はい。伺います」
「中立穏健派が、今とても厳しい状況にあることはご存じでしょうか」
フローラの表情がわずかに曇った。クロエも視線を落とす。
「存じております。魔導国家で取り潰され、処刑された貴族家の中には、穏健派の有力な方々がいらっしゃいました」
「彼らは穏健派の中心を支えていた方々だったそうです。このままでは、かつての改革派と同じように、中心となる貴族を失い、派閥そのものがなくなってしまうのではないかと、父は危惧しております」
隣にいるクロエの表情が少し歪む。
フローラは何も言わず、クラリスの話を聞いていた。
「王権派が王国の重職を占める状況も続いております。父は、その偏りを抑えるため、わたくしとアレク殿下との婚約を成立させました」
話しているうちに、クラリスの声は少しずつ硬くなった。
「かなりの手回しをしたことで、王子との婚姻にこぎつけたのです。王権派の勢力が王国の要職に偏り始めていたことが、その理由でした」
フローラは静かにカップへ手を添えた。
「そのうえで、私たち中立革新派に協力を求めるということですか?」
「はい。王権派がこれ以上勢力を広げれば、穏健派は立ち直れなくなるかもしれません。わたくし一人の力では、何もできません。フローラ様のお力をお借りできないかと思いました」
クラリスは姿勢を正し、フローラを見つめる。
「革新派も同じ中立派です。どうか、穏健派にご協力いただけませんでしょうか」
フローラは、すぐには答えなかった。
窓の外で風が木々を揺らす。葉擦れの音が、静かな広間にかすかに届いていた。
やがてフローラは、クラリスから目をそらさず口を開いた。
「協力なら、私の方から申し上げることはございません」
きっぱりとした断りだった。
クラリスは一瞬、言葉を失った。
「……そうですか」
「申し訳ありません。私の一存で答えを変えることはできません」
フローラはそれ以上説明しなかった。クラリスも、すぐに理由を問い詰めることはできなかった。
父から、フローラの家にはフローラの家の判断があると聞いていた。革新派が中立穏健派に加われば、王権派との対立が激しくなる。そうなれば、王国が二つに割れる危険がある。フローラも、その危険を考えているのだろう。
クラリスは胸の内で息をつき、別の話題へ移った。
「では、もう一つお願いがございますの」
「エリシアさんのことですね」
フローラが先に言った。
クラリスはわずかに目を見開いた。
「どうしてそれを……」
「大会の試合について、私も話を聞きました。エリシアさんが大怪我を負い、王太子殿下が試合場へ入られたと」
フローラの目には、心配が浮かんでいた。
「彼女は学園で、何度も嫌がらせを受けております。今回の試合も、審判が止めなかったことが、私も気になっています。王権派の方々が、彼女を利用しているのではないかと考えております」
「その可能性は否定できません。わたくしは、エリシアさんを守りたいのです。フローラ様の保護下に置いていただくことはできませんでしょうか?」
クラリスは深く頭を下げた。
フローラは驚く様に目を開く。公爵令嬢の彼女が平民の為に頭を下げる。その意味をフローラとクロエは知っていた。
だが、フローラは驚く表情を濁らせる。
「わたくしの近くに置くのは難しいと思います。わたくしの周りには王権派の令嬢たちがおります。わたくしの側にいることで、エリシアさんがこれ以上狙われるかもしれません。ですから、フローラ様のもとで守っていただきたいのです」
フローラは、すぐには答えなかった。
クロエが一度だけフローラへ目を向ける。二人の間に、言葉にしないやり取りがあった。
やがて、フローラが口を開いた。
「クラリス様。私の今の立場では、エリシアさんを保護することは難しいです」
クラリスは、膝の上で指を握りしめた。
「……そうですか」
「ですが、別の提案ならできます」
フローラは隣のクロエへ目を向けた。
「クロエを、クラリス様の側付きとして置いてはいかがでしょうか」
「側付き、ですか?」
「はい。クロエは平民ですが、私のそばで身の回りを支えてくれています。魔力量も多く、いざという時には身を守る力もあります」
クラリスはクロエを見た。
彼女はフローラの護衛役だと思っていた。平民にしては魔力量があまりに大きく、寮長のそばに控えている。そういう立場なのだろうと考えていた。
「クロエ様を、わたくしの側付きに……?」
「もちろん、ただの護衛としてではありません」
フローラが続けた。
「クロエはノルディア家の専属商人です。今は新しい街の運営にも関わり、権限を任されています。ノルディア家にとって重要な立場にある人です」
クラリスは再びクロエを見た。目の前の少女が、単にフローラのそばに控える護衛役ではないと、初めて知った。
「ノルディア家の……」
「そうです」
フローラは穏やかな口調で説明した。
「ノルディア家は、今の王国にとって大きな存在です。先代様、先々代様は王国の英雄と呼ばれた方々ですし、現在も領地を発展させ、国に貢献しています。ノルディア家がクラリス様の後ろ盾となれば、王権派も簡単には手を出せなくなるでしょう」
「ノルディア家に手を出せば、帝国との条約や、教国とのポーション事業にも影響が出る可能性があります」
クロエが静かに付け加えた。
「王権派がノルディア家を敵に回せば、国内だけの問題では済まなくなるかもしれません」
クラリスは返事をせず、二人の言葉を聞いていた。
ノルディア家が派閥を作れば、どの派閥にも所属していない貴族が集まるかもしれない。中立派だけではない。王権派の中にいる貴族でさえ、王権派の勢力が強まりすぎることを恐れ、ノルディア家へ移る可能性がある。
それほど大きな力を持つ家の人間を、自分の側付きにする。
フローラがクラリスを助けるために出した提案なのだろう。
「クロエ様がわたくしの側付きになれば、ノルディア家が後ろ盾になってくださるということでしょうか」
「少なくとも、クラリス様に何かあれば、ノルディア家が無関係ではいられなくなります」
フローラは慎重に答えた。
「その結果、王権派も軽率には動けなくなるでしょう」
クラリスは目を伏せた。
ありがたい提案だ。けれど、受けることはできない。
ノルディア家に借りを作ることになる。
それだけ大きな後ろ盾を得るなら、相応の対価が必要だ。何を返せばいいのか。金銭だけで済む話ではない。政治的な借りを、いつか返さなければならない。
自分が婚約していなければ、まだ何かを差し出せたのかもしれない。自分の身が空いているなら、妻になる、あるいはノルディア家に嫁ぐなど、家のためにできることがあったかもしれない。
だが、クラリスはアレクの婚約者だった。
アレクとの婚約は、ローゼンベルク家と中立穏健派を支えるために結ばれたものだ。王族との婚約を持ちながら、さらに別の家へ身を差し出すことはできない。
ノルディア家に何を返せるのか。
答えは浮かばなかった。
相応の対価を用意できないまま、この提案を受けることはできない。ノルディア家の力を借りれば、その分だけ彼らを危険に巻き込むことにもなる。
「……ありがとうございます。ですが、そのご提案をお受けすることはできません」
クラリスは顔を上げた。
「ノルディア家に助力をお願いするなら、それに見合う対価を用意しなければなりません。今のわたくしには、それができません」
フローラは、何か言おうとして口を開いたが、すぐには言葉にできなかった。
クロエも静かにクラリスを見ている。
「クラリス様。これは、必ずしも何かを差し出していただくという話ではありません」
「お気持ちはありがたく存じます。ですが、わたくしはノルディア家の力を借りておきながら、何も返さずにいることはできません」
クラリスの言葉には、断固とした意思があった。
フローラは小さく息を吐いた。
「分かりました。無理にとは申しません」
「せっかく考えてくださったのに、申し訳ありません」
「謝らないでください。私たちも、クラリス様のお望みをそのまま叶えることはできませんでしたので」
クラリスはカップに手を伸ばした。紅茶は、すっかり冷めていた。
エリシアを守るために頼ったフローラは、穏健派への協力を断った。エリシアを保護することもできないと言った。そして代わりに示されたのは、クラリス自身を守るための提案だった。
フローラたちがクラリスを助けようとしてくれていることは分かる。だが、彼女が求めていたものとは違った。
クラリスの周りにいる王権派の令嬢たちを遠ざけることも、エリシアを直接守ることも、今日の茶会では決められなかった。
話題は自然に、学園の授業や休暇中の予定へ移っていった。三人は形式的な会話を交わし、茶会は静かに終わった。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました」
クラリスが立ち上がる。
「こちらこそ、お話しいただきありがとうございました」
フローラも立ち上がり、クロエとともに礼をした。
クラリスは二人に礼を返し、広間を出た。
◇
廊下を歩きながら、クラリスは足取りを止めたくなるのをこらえていた。
父から聞いたのは、穏健派が失われていく現実だった。フローラからは、協力はできないと言われた。エリシアを保護してほしいと頼んでも、今の立場では難しいと断られた。ノルディア家の後ろ盾を得る案も、相応の対価を用意できないと判断し、受け入れられなかった。
頼れる相手がいない。
そう思った瞬間、胸の奥に冷たいものが広がった。
寮の広間を出た先には、休暇中の静かな廊下が続いている。窓から差し込む夕方の光が、床の上に長い影を落としていた。
クラリスは壁際に立ち止まり、目を閉じた。
何をすればいいのだろう。
王権派が本当にエリシアを利用しているのなら、彼女を守らなければならない。だが、確かな証拠はない。中立穏健派は弱り、革新派のフローラも動けない。ノルディア家の助力を得るには対価が必要だとクラリスは考えているが、それを用意できない。
そして、アレクとの関係は悪くなる一方だった。
試合場で彼が向けた怒りを思い出す。自分が試合を止めなかったことは、彼にとって許せないことだったのだろう。クラリス自身も、あの時の判断が正しかったとは思えない。
彼と話さなければならない。
しかし、何を言えばいいのか分からなかった。謝れば済む問題ではない。試合を続けた理由を説明すれば、言い訳に聞こえるかもしれない。黙っていれば、彼との溝はさらに深くなる。
「わたくしは……」
声に出しかけて、クラリスは口を閉じた。
考えがまとまらない。
エリシアを守る方法も、アレクとの関係を修復する方法も、穏健派を支える方法も、今のクラリスには見つけられなかった。
茶会を開けば何かが変わると思っていた。だが、実際には何も決まらなかった。むしろ、自分が何もできないことを思い知らされただけだった。
絶望が、ゆっくりと胸を満たしていく。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
王権派が何を企んでいるのか、まだ分からない。エリシアがどう思っているのかも、アレクが自分をどう見ているのかも分からない。分からないことばかりだからこそ、まずは確かめなければならない。
クラリスは目を開いた。
次に何をするべきか、答えはまだ見えない。
父に相談するべきか。アレクへ手紙を書くべきか。エリシアのもとへ行き、直接謝るべきか。寮にいる王権派の令嬢たちを観察し、彼女たちの言動を確かめるべきか。
いくつもの考えが浮かび、どれも決め手にはならなかった。
クラリスは、廊下の窓から夕暮れの空を見上げた。
休みは今日で終わる。明日からは再び学園での生活が始まる。王権派の令嬢たちと顔を合わせ、アレクと同じ場所で過ごし、エリシアの姿を目にすることもあるだろう。
何も変わらないまま、日々だけが進んでいくのかもしれない。
それでも、クラリスは考え続けた。
自分にできることは何か。誰を頼るべきなのか。どのようにすれば、エリシアを守り、アレクとの関係をこれ以上壊さずに済むのか。
答えは出ない。
クラリスは胸の中に絶望を抱えたまま、静かな廊下を自室へ向かって歩き始めた。




