第418話 祝勝会の約束
武芸大会が終わった翌日から、王立ビスタ魔法学園には三日間の休みが設けられていた。
大会の後片付けや表彰式の準備に追われた生徒たちが身体を休めるための休暇だったが、エリシアにとっては、試合で負った怪我を治すための療養期間でもあった。
大会六日目の夕方に目を覚ましてから、彼女は医務室で治療を受けていた。三日間眠り続けるほどの怪我だったため、身体はまだ本調子とは言えない。肩や脇腹には鈍い痛みが残り、少し歩いただけでも疲れが出る。
それでも休みの初日、エリシアは医務室を出て女子寮へ戻ることになった。
朝から空には薄い雲が広がっていた。強い日差しはなく、風も穏やかだ。寮の前の植え込みでは、葉がそよ風に揺れている。
エリシアは寮の玄関脇で、二つの花束を抱えて二人を待っていた。退院した彼女を迎えに来ると、アレクとエドガーが約束してくれたのだ。
一つは、エリシアが眠っていた間にエドガーが見舞いに持ってきてくれたもの。もう一つは、今日アレクが退院祝いに用意してくれたものだった。どちらも淡い色合いの花が中心で、抱えていると花の香りがふわりと鼻先をくすぐった。
まだ少し歩くだけでも身体が重い。けれど、二人に会えると思うと胸が弾んだ。
寮へ続く道の向こうに、二人の姿が見えた。
「エリシア!」
先に気づいたエドガーが手を上げる。隣のアレクもこちらに気づくと、歩調を速めた。
「待たせてごめん」
「ううん。私も今出てきたところ」
エリシアが笑顔を見せると、アレクは手にしていた花束を差し出した。
「退院おめでとう。まだ無理はできないだろうけど、少しでも気分が明るくなればと思って」
白い小花に淡い黄色の花が添えられた、控えめで優しい色合いの花束だった。
「ありがとう、アレク。すごくきれい」
エリシアは抱えていた花束を落とさないよう気をつけながら、アレクから新しい花束を受け取った。
その表情を見たエドガーの胸が、きゅっと痛んだ。
エリシアが眠っていた間、彼も花を持って見舞いに来た。目を覚ました時に少しでも部屋が明るくなればと思い、選んだ花だった。あの時も彼女は喜んでくれた。だが、今アレクから花束を受け取った時の笑顔は、あの時とは違うように見えた。
自分の花を喜んでくれたことまで、勘違いだったと思いたくはない。それでも、彼女が誰に向ける笑顔なのかを目の前で見せられると、胸の奥が苦しくなる。
エドガーは目を伏せ、気持ちを押し込めた。
「二つとも、部屋に飾るのか?」
「うん。エドガーが見舞いに来てくれた時にくれた花も、まだきれいなの。アレクの花束と一緒に飾りたいな」
エドガーは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「そっか。大事にしてくれてたんだな」
「もちろん。部屋に戻ったら、二つとも花瓶に生けるね」
「それなら、寮の部屋も明るくなるな」
エリシアは二つの花束を胸元に抱え直した。アレクは微かに笑みを浮かべたが、彼女を見つめる眼差しには心配が残っていた。
「本当に歩いて大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。セリオス様にも、少しずつ歩くように言われたから」
「少し歩くのと、寮に帰るのは違うだろう」
「疲れたら休むよ。今日は無理しないって約束する」
エドガーが横から口を挟んだ。
「アレクが心配するのも分かるけど、エリシアが歩けると言っているんだ。様子を見ながら帰ればいいさ」
「そうだな。無理はさせない」
アレクはエリシアの歩調に合わせるよう、ゆっくりと歩き出した。
女子寮までは、学園の敷地内を少し進めば着く。三人は急がずに歩き、途中で何度か足を止めた。エリシアが休みたいと言う前に、アレクがベンチを見つけるたび休憩を提案した。
「少し休もう」
「うん。ありがとう」
寮の門が見えてきた頃には、エリシアの頬に疲れが出ていた。彼女はそれを隠すように笑ったが、アレクは気づいていた。
「今日はここまでだな。部屋に戻ったら、しっかり休むんだぞ」
「分かってるよ」
「本当に分かっているのか?」
「うん。約束する」
エドガーが苦笑する。
「エリシアは、約束したことは守るさ」
「そうだといいが」
寮の玄関まで送り届けると、エドガーはそこで足を止めた。
「じゃあ、俺はこれで。今日は大会の結果を家に報告しに行く。準決勝で負けたことも、直接話しておきたいからな」
「そっか。お家の人も心配しているよね」
「たぶんな。じゃあ、また学園でな。エリシア、無理するなよ」
「うん。ありがとう」
エドガーは二人に手を振り、学園の門へ向かって歩いていった。
その背中が見えなくなるまで見送ってから、エリシアはアレクへ向き直った。
「アレク、今日は付き添ってくれてありがとう」
「当然だ。部屋まで行けそうか?」
「うん。寮母さんにも手伝ってもらうね」
「そうしてくれ。花瓶に花を生けたら、今日は横になって休むんだ」
「分かった」
エリシアは寮へ入ろうとしたが、ふと足を止めた。アレクが大会で優勝したことを、まだきちんと祝えていない。大会の間はそれぞれ試合や用事があって、三人でゆっくり話す時間もなかった。
「ねえ、アレク」
「どうした?」
「武芸大会の優勝、おめでとう。ちゃんとお祝いしたいなって思ってたの」
「ありがとう。気持ちだけで十分だ」
「でも、休みの間に三人で祝勝会をしない? 今日はもう寮に戻って休むけど、最終日なら少し歩けると思うの」
アレクは一瞬、心配そうな顔をした。
「その頃までに体調が戻っていれば、だな。無理はしないと約束できるか?」
「うん。疲れたらすぐに休むよ」
「分かった。エドガーにも伝えておこう」
「待ち合わせは学園の正門前にしよう。寮の中には入れないものね」
「ああ。それなら問題ない」
「じゃあ、休みの最終日の朝、正門前で会おう」
「分かった」
エリシアは笑顔で頷き、今度こそ寮へ入っていった。アレクは彼女が玄関の中へ消えるのを見届けてから、ようやくその場を離れた。
部屋に戻ったエリシアは、寮母に花瓶を二つ用意してもらった。エドガーの花束とアレクの花束を、それぞれ丁寧に生ける。
淡い色の花が二つの花瓶に広がり、窓辺を明るく彩った。
エリシアは少し離れて、並んだ花束を眺めた。
「きれい……」
見舞いに来てくれたエドガーと、退院を迎えに来てくれたアレク。二人の気持ちが込められた花を見ていると、胸の中が温かくなった。
その日は花を眺めながら、部屋で静かに過ごした。翌日も、エリシアは無理をせずに身体を休めた。肩や脇腹の痛みは少しずつ軽くなり、部屋の中を歩くのも楽になっていった。
◇
そして休みの最終日。
エリシアは学園の正門前で、アレクとエドガーを待っていた。女子寮の門を出てからここまで歩いただけでも、以前より身体が軽くなったと感じる。まだ長時間歩くのは難しいが、セリオスからは短時間なら外出してもよいと言われていた。
しばらくすると、学園の門からアレクとエドガーが姿を見せた。
「おはよう、エリシア」
「おはよう。二人とも」
「体調はどうだ?」
「昨日よりずっといいよ。歩きすぎないようにするね」
「それならよかった」
エドガーは彼女の様子を確かめるように見てから、安心したように頷いた。
「今日はどこへ行こうか?」
アレクが二人を見た。
「南の下町に行きたいな。お母さんのお店もあるし、二人に私が育った場所を見てもらいたいの」
「分かった。エリシアの案内で歩けるのを楽しみにしているよ」
アレクが答えると、エドガーも頷いた。
「俺も下町にはあまり行ったことがないからな。どんな場所なのか見てみたい」
三人は学園の正門を出て、南へ向かった。
王立ビスタ魔法学園は、貴族街の外周に近い場所に建っている。門を出ると、まず広い石畳の通りが続いていた。街路樹が並び、通りの両側には貴族向けの仕立屋や書店、輸入品を扱う店が軒を連ねている。
武芸大会が終わってから数日が経っていたが、王都の賑わいはまだ続いていた。
大会は王都で開かれる三大行事の一つだ。試合を見るために各地から訪れた貴族や商人、職人たちは、大会が終わってすぐに帰るわけではない。せっかく王都へ来たのだからと、買い物をしたり、知人を訪ねたりしているのだろう。宿の前には荷物を積んだ馬車が並び、通りでは大きな鞄を抱えた旅人が行き交っていた。
大会の旗は少しずつ片付けられていたものの、店先には「大会記念」と書かれた札がまだ残っている。角の露店では、観戦客向けに出された串焼きや焼き菓子が売られていた。通りを歩く人々の話題も、まだ大会の試合が中心だった。
「大会が終わったのに、まだずいぶん賑やかだね」
「各地から来た人たちは、試合が終わってもすぐには帰らないからな。王都で買い物をしたり、知り合いに会ったりするんだろう」
「お店の人たちは忙しそう。お母さんのお店も、大会の間は忙しかったのかな」
「観戦に来た人が多かったなら、きっとそうだろう」
「建国祭の時ほどじゃないけれど、大会の日もパンを買いに来る人が増えるって言ってたよ」
エリシアは通りの先を眺めた。貴族街の建物は整っていて、窓辺には花が飾られている。ところどころに大会の名残が残り、道の端では職人が看板を外していた。
「武芸大会が終わると、なんだか寂しいね」
「そうだな。準備の頃からずっと大会の話題ばかりだった」
「毎日試合があって、街も学園も賑やかだったから。終わったって聞いた時、少し胸に穴が空いたみたいだった」
「でも、もう二ヶ月もしないうちに建国祭がある」
「あ、そうだった。建国祭も王都中が賑わうものね」
「大会が終わると、今度は建国祭の準備が始まる。街の飾りつけも、露店の場所決めもあるからな」
「建国祭の時期のお店、好きなんだ。お母さんと一緒に、いつもよりたくさんパンを焼くの。朝から大忙しだけど、街の人たちが楽しそうにしているのを見ると、こっちまで嬉しくなるんだよ」
「去年も手伝ったのか?」
「うん。朝から大忙しだったけど、街の人たちが楽しそうにしているのを見ると、こっちまで嬉しくなったよ」
「建国祭の時に帰省できるといいな」
「うん。まだ予定は分からないけど、帰れたらお母さんと一緒にパンを焼きたいな」
エリシアは母と一緒にパンを焼く朝を思い浮かべた。小さな店に粉の匂いが満ち、窯から焼きたてのパンを取り出す。忙しくても、母と過ごす時間は好きだった。
その時、道端の露店から香ばしい匂いが漂ってきた。串焼きが炭火の上で焼かれ、肉汁が落ちるたびに小さく音を立てている。
「いい匂い」
「食べるか?」
「ううん。お母さんのお店に行ってからにする」
「そうか。疲れていないか?」
「まだ大丈夫だよ」
アレクは彼女の歩く様子を気にしながら、急がずに進んだ。人通りが多くなる場所では、さりげなく外側を歩き、エリシアが人とぶつからないようにしている。
貴族街の中心から離れるにつれて、通りの様子は少しずつ変わっていった。仕立屋や宝飾店が減り、旅人向けの食堂や宿屋、荷物を預かる店が目立つようになる。南門へ向かう大通りから一本外れると、道幅が狭くなり、建物同士の間隔も近づいた。
木造の家々の軒先には洗濯物が干され、窓から煮込み料理の匂いが漂ってくる。鍛冶場からは槌の音が響き、店先では店主が客へ声をかけていた。荷車が通るたび、車輪が石畳を軋ませる。
下町に入ったのだ。
貴族街の静けさは薄れ、通りには人々の暮らしの音が満ちていた。大会を見に来た客を目当てにした屋台もまだいくつか残っている。串焼きや温かい飲み物を売る声が、行き交う人の話し声に混じっていた。
「この辺りから、もう少し先だよ」
「分かった。歩く速さは大丈夫か?」
「大丈夫。痛みもひどくなっていないよ」
「少しでもつらくなったら、すぐに言うんだぞ」
「うん」
道の先で、少し開けた場所が見えてきた。小さな広場の中央には、石造りの噴水がある。水盤の縁は長年使われて滑らかになり、噴き上がった水が静かな音を立てて流れ落ちていた。広場の端には花を植えた鉢が並び、近所の人たちが腰掛けて休んでいる。
広場に面して、一軒のパン屋があった。
木の看板には、丸いパンと麦穂が描かれている。店の窓には籠に入ったパンが並び、入口の隙間から焼きたての香りが流れてきた。大会中に使ったらしい木箱や籠が店先の脇にまとめられている。
「ここが、お母さんのお店」
「いい匂いだな」
「うん。朝に焼いたパンが、まだ残っているかも」
エリシアが店へ近づくと、店内でパンを並べていたエミリアが顔を上げた。
「エリシア!」
母は驚きと喜びを浮かべ、カウンターの向こうから出てきた。
「お母さん、久しぶり」
「本当に。顔を見せてくれて嬉しいわ」
エミリアは娘を抱きしめようとしたが、肩や脇腹にまだ怪我が残っていることに気づき、途中で腕を止めた。代わりに、そっと頬へ手を添える。
「無理をしていない?」
「大丈夫。もう歩けるよ」
「そう。それならよかった」
安堵の息をついたエミリアは、そこで初めてエリシアの隣にいるアレクを見た。
母の顔から、ふっと笑みが消える。
次の瞬間、エミリアは店の床に片膝をつき、深く頭を下げた。
「申し訳ございません、王太子殿下。このような無礼を……」
「お母さん?」
エリシアは驚いて母を見た。アレクも困ったように目を伏せる。
「顔を上げてください」
「ですが……」
「今日はエリシアの友人として来ています。どうか、かしこまらないでください」
アレクの声は穏やかだった。エミリアはしばらく頭を下げたままだったが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……恐れ入ります。殿下のお言葉に甘えさせていただきます」
「ありがとう」
エミリアは立ち上がると、すぐに娘を心配そうに見つめた。
「エリシア、この子が何か粗相をしていないかしら。学園で殿下にご迷惑をかけたりしていない?」
「お母さん、アレクは友達だよ」
「友達でも礼儀は大切でしょう」
「私は大丈夫です」
アレクが笑みを浮かべて答えた。
「逆に、いつもエリシアに助けてもらっています」
「そんなことないよ」
「コラ、エリシア!」
エミリアの声が店内に響く。エリシアは肩をすくめ、アレクは小さく笑った。
「お母さん、そんなに怒らなくても……」
「あなたはすぐに自分のことを後回しにするんだから。殿下が助けてもらっているとおっしゃっているのよ」
「でも、本当に大したことしてないよ」
「そういうところよ」
エミリアは呆れたように息をついたが、目元には笑みが戻っていた。
「せっかく来てくれたんだから、中へ入って。今朝焼いたパンなら、まだいくつか残っているわ」
「ありがとう、お母さん」
「お邪魔します」
アレクも丁寧に頭を下げた。
店内は広くない。入口から入ってすぐ右手に木のカウンターがあり、その向こうにはパンを並べた棚が続いている。丸パン、細長いパン、甘い菓子パン。それぞれ籠に分けられ、どれも焼き色がきれいについていた。
奥には作業台と石窯がある。窯の周りには小麦粉の袋や木の道具が整然と置かれ、焼きたての香りが残っていた。
エリシアは店内を懐かしそうに見回した。母が毎日立つ場所。粉をこね、パンを成形し、焼き上がりを確かめる場所。寮に入ってからは、こうして眺める機会が減っていた。
「懐かしいな」
「そんなに時間は経っていないでしょう?」
「でも、寮に入ってからは毎日ここにいたのが当たり前じゃなくなったから」
「そうね。あなたがいないと、お店が少し広く感じるわ」
エミリアはパンを籠へ移しながら、娘に微笑んだ。
「大会の間は、観戦に来た人たちがたくさん寄ってくれたの。あなたがいたら、きっと手伝ってもらっていたわね」
「忙しかったんだね」
「ええ。でも、こうして大会が終わってからも人通りがあるから、助かっているわ」
エミリアは棚の奥から、丸みのあるパンをいくつか取り出した。
「そうだ。せっかく来てくれたんだから、あのパンを持っていきなさい」
「あのパン?」
「あなたが考えた、肉と野菜を挟んだパンよ。今朝焼いた分が少し残っているの」
エリシアは嬉しそうに頷いた。
「みんなで食べよう。二人にも食べてもらいたいの」
アレクの指先が、わずかに止まった。
エミリアはパンに切れ目を入れ、焼いた肉と野菜を挟んでいく。肉の香りと焼きたてのパンの匂いが店内に広がった。三つのパンを包み紙に並べ、エリシアへ差し出す。
「ほら。冷めないうちに食べてね」
「ありがとう、お母さん」
エリシアは包みを受け取り、アレクとエドガーと一緒に店の外へ出た。
噴水の縁には、買い物帰りの人や観戦客が腰掛けて休んでいた。三人は空いている場所を見つけ、並んで座る。水音が近くで聞こえ、広場の賑わいを柔らかく包んでいた。
「ここで食べるの、久しぶり」
「よく来ていたのか?」
「うん。お店が忙しい時は、ここでお昼を食べることがあったの。お母さんがパンを持たせてくれて」
「そうか」
エリシアは包み紙を開いた。中には、切れ目を入れた丸いパンに、焼いた肉と野菜を挟んだものが三つ並んでいる。
「これが、私の考えたパン。今では下町の名物になってるんだよ」
そう言って、エリシアは一つをアレクへ差し出した。
「はい。どうぞ」
アレクは受け取り、包み紙を開いた。
中を見た瞬間、彼の手が止まった。
パンの間に挟まれた焼いた肉と野菜。肉汁を吸ったパンの端。七年前、建国祭の串焼きの屋台で出会った少女。彼女に自分が話した料理のアイデアと同じだった。
串焼きを奢ってもらったお礼に、アレクは少女へ、パンに焼いた肉と野菜を挟む料理があると教えた。少女は目を輝かせ、自分の家のパン屋で試してみると言っていた。
その少女が作ったパンが、今では下町の名物になっている。
そして、その少女は目の前にいる。
明るい茶色の髪。大きな瞳。パンを考えた時に見せた、あの時と同じ嬉しそうな笑顔。
アレクは息を呑んだ。遠い日の記憶が、目の前のエリシアの姿と重なっていく。
「どうしたの?」
エリシアが不思議そうに尋ねた。
「いや……美味しそうだなと思って」
アレクは言葉を濁した。七年前の出会いを思い出したことも、自分があのパンのアイデアを伝えたことも、口にはしなかった。
アレクには婚約者がいる。今ここで過去の出会いを話せば、エリシアを戸惑わせてしまうだろう。胸に蘇った懐かしさを、彼はそっと心の奥にしまい込んだ。
「お母さんと何度も試して、今の形になったんだ。最初はお肉の味付けが難しくてね。野菜も、どれを挟んだら食べやすいか試したの」
「そうだったのか」
「うん。お客さんが買ってくれて、おいしかったって言ってくれた時は、本当に嬉しかったよ」
「エリシアが考えたものを、街の人たちが気に入ってくれたんだな」
「そう。だから、名物って呼ばれるようになったのも嬉しいけど、今でもお客さんが『あのパンをください』って言ってくれるのが一番嬉しいかな」
エリシアは自分のパンを手に取り、ひと口食べた。
「うん。今日も美味しい」
その笑顔を見て、アレクもパンを口へ運んだ。
柔らかな生地。肉の香ばしさ。野菜のみずみずしさ。肉汁を吸ったパンが、具材の味を受け止めている。
彼はゆっくりと噛みしめた。
「どう?」
「美味しい。肉と野菜がよく合っている」
「よかった。二人に食べてもらえて嬉しい」
アレクはもう一口食べた。味を確かめながら、胸の奥に蘇る七年前の記憶を静かに受け止める。
あの日、自分は名前も知らない少女に、初めて給金をもらった大切なお金で串焼きを奢ってもらった。お礼に伝えた料理のアイデアを、少女は本当にパン屋で形にしたのだ。
それがエリシアだった。
彼はそのことを、まだ誰にも話さない。もちろん、エリシアにも。
「アレク、どうかした?」
「いや。懐かしい味だと思っただけだ」
「初めて食べるのに?」
「そうだな。変な言い方だった」
アレクは少しだけ笑って、残りを食べた。
エリシアは不思議そうに首を傾げたものの、それ以上は尋ねなかった。三人はパンを食べながら、学園の話や店の話をした。大会の話題も出たが、エリシアが疲れた様子を見せると、アレクはすぐに話を切り上げ、休む時間を作った。
彼女にとって、こうして二人と過ごすひとときは、学園生活の中で数少ない心安らぐ時間だった。身分を意識せず、無理に笑顔を作らず、ただ他愛のない話ができる。その安心感が、どれだけ自分を支えてくれているか、エリシアはよく分かっていた。
しばらくして、エドガーが懐中時計に目を落とした。
「悪い。俺、そろそろ行くよ」
「もう帰るの?」
エリシアが尋ねると、エドガーは少し申し訳なさそうに笑った。
「ああ。急用ができて、実家に顔を出せていなかったんだ。今日はこのあと寄ってくる」
「そうだったんだ。ご家族も心配しているよね」
「たぶんな。大会の結果も、ちゃんと話しておきたいしな」
エドガーは立ち上がり、アレクへ視線を向けた。
「祝勝会の途中で悪いな」
「気にするな。来てくれてありがとう」
「エリシアも、今日は無理するなよ」
「うん。今日は本当に楽しかった。ありがとう、エドガー」
「それならよかった」
エドガーは笑顔を向けると、二人に手を振り、広場を後にした。
彼が人混みに紛れるのを見送ったあと、アレクはエリシアへ視線を戻した。
「疲れていないか?」
「少しだけ。でも、まだ大丈夫だよ」
「そろそろ寮へ戻ろう。帰りもゆっくり歩こう」
「うん」
二人は噴水の縁から立ち上がった。
噴水の向こうでは、大会の話をする人々の声がまだ続いていた。試合の熱気は少しずつ薄れていく。それでも王都の賑わいは残り、もう二ヶ月もしないうちに、今度は建国祭の準備が始まる。
「建国祭の時期のお店、好きなんだ。去年もお母さんと一緒に、いつもよりたくさんパンを焼いたの。朝から大忙しだったけど、街の人たちが楽しそうにしているのを見ると、こっちまで嬉しくなるんだよ」
「そうだったのか」
「またお母さんとパンを焼きたいな」
「建国祭は帰れるといいな」
「うん」
エリシアはパン屋の窓を振り返った。店の中では、エミリアがこちらに気づき、手を振っている。エリシアも笑顔で手を振り返した。
その隣で、アレクは静かに噴水の水音を聞いていた。
七年前の建国祭に出会った少女は、今、隣を歩いている。彼女が考えたパンを食べ、同じ時間を過ごした。
その事実を胸に秘めたまま、アレクはエリシアの歩調に合わせて、寮への道をゆっくりと進んでいった。




