第417話 目覚めた後に
クラリスのレイピアが振り上げられた。
試合場の中央では、エリシアが片膝をついていた。短剣を握る手は震え、何度も打ち据えられた身体は、立ち上がることさえ難しくなっている。
それでも彼女は、床に手をついて起き上がろうとしていた。
クラリスは目を細め、エリシアを見下ろしていた。表情を強張らせ、握り直したレイピアを高く構える。
審判は動かなかった。
観客席のざわめきが遠ざかり、試合場の空気が張り詰める。誰もが次の一撃を見守っていた。
「もう勝敗は決しただろう!」
アレクの声が響いた。
次の瞬間、彼の踏み込んだ足元で石床が砕けた。
身体強化の魔法をまとったアレクは、試合場の端から一瞬で二人の間へ飛び込む。クラリスの剣が振り下ろされる、その直前だった。
アレクは素手でレイピアの剣身をつかんだ。
刃は落とされ、先端も丸められた試合用の剣だ。それでも、勢いを受け止めれば掌の皮膚は切れる。アレクの手から血が流れ、赤い筋が剣身を伝った。
闘技場の空気が揺れた。
アレクの内側から、押さえ込まれていた魔力が一気にあふれ出す。熱が広がり、会場の温度が急激に上がった。近くにいた生徒たちは肌を刺すような熱気に身をすくめ、息を呑む。
アレクはクラリスを見た。
怒りを宿した眼差しを受け、クラリスはレイピアを下ろす。
アレクは剣から手を離すと、倒れたエリシアを抱き上げた。クラリスは何も言わず、その姿を見送る。
「医務室へ運ぶ。セリオス枢機卿を呼んでくれ!」
アレクは試合場を駆け出した。
エリシアの身体は力なく、腕がアレクの肩から垂れている。顔色は青白く、額には汗が浮かんでいた。呼びかけても反応はない。
アレクがエリシアを抱えて試合場を去ったあとも、クラリスはしばらくその場に立ち尽くしていた。やがてレイピアを握り直し、誰とも目を合わせないまま、静かに会場を後にした。
◇
闘技場から医務室までは、学園の建物をいくつか抜けなければならなかった。
アレクはエリシアを揺らさないよう抱きかかえながら、それでも足を緩めずに走る。廊下にいた生徒たちは、血のついた手と意識のない少女を見て、慌てて道をあけた。
医務室の扉が開く。
「エリシアさん!」
室内で書類を整理していたセリオスが顔を上げた。寝台を示し、アレクが彼女を横たえると、すぐに状態を確かめ始める。
エリシアの制服には砂がつき、頬や腕には擦り傷があった。肩や脇腹には打撲の跡が浮かんでいる。呼吸は浅く、呼びかけても反応がない。
「これは……」
セリオスは脈を確かめ、額や手足に触れた。続いて身体へ手をかざし、淡い光を広げる。浅い傷はいくつか塞がったが、肩の腫れや脇腹の打撲はほとんど変わらなかった。
セリオスは眉を寄せ、回復魔法を重ねる。だが、光が消えても目立った変化は見られない。
「彼女の使う聖属性の魔力が、私の回復魔法を妨げているのかもしれません」
「前にも同じことがあったのですか?」
アレクはエリシアから目を離さずに尋ねた。
「ええ。まったく効かないわけではありませんが、通常より治りが遅いのです。詳しくは、意識が戻ってから状態を確かめます」
セリオスは脈を取り直し、エリシアの呼吸を確認した。
「怪我は重いですが、今のところ命に別状はありません。ただ、身体への負担が大きい。いつ意識が戻るかは分かりません。ここで経過を見守りましょう」
「お願いします」
アレクの声は硬かった。
セリオスは頷き、エリシアの治療を続けた。その間も、アレクは寝台のそばから離れなかった。
やがてセリオスが彼の掌に目を留めた。レイピアをつかんだ傷から、まだ血が滲んでいる。
「殿下、その手も診せてください」
「これはいいです。それより、エリシアをお願いします」
アレクは血の滲む掌を隠すように握り、寝台のエリシアから目を離さなかった。
「分かりました。ですが、後で必ず手当てを受けてください」
セリオスはそう告げ、エリシアの治療を続けた。
しばらくして、彼は彼女の呼吸と脈が安定していることを確かめた。
「今はできる限りの処置をしました。意識が戻るまでは、ここで経過を見守ります。目が覚めても身体に痛みや違和感が残っているはずです。無理に起き上がらせないでください」
「分かりました」
セリオスは医務室の奥へ戻り、必要な道具を整え始めた。アレクは寝台のそばに残り、眠るエリシアを見つめていた。
◇
大会四日目、五日目と、エリシアは目を覚まさなかった。
セリオスは定期的に容態を確かめ、必要な治療を続けた。傷は少しずつ落ち着いてきている。しかし、エリシアの身体は深く消耗しており、聖属性の魔力が回復魔法に干渉するため、治療は通常のようには進まなかった。
アレクは大会の合間に医務室を訪れた。寝台のそばでエリシアに声を掛けることもあったが、返事はない。セリオスに様子を尋ね、変化がないと聞くたび、アレクの表情は硬くなった。
◇
大会六日目。
午前中には女子剣術部門の決勝が行われた。クラリスは対戦相手の剣を受け流し、最後まで崩れることなく勝利を収めた。前回優勝者を破り、今回も頂点に立った彼女へ、観客席から大きな拍手が送られた。
午後には男子剣術部門の決勝が行われた。
エドガーを破ったのは、三年生のガルド・ヴァレン。ヴァレン男爵家の子息で、学園でも剣術の腕を知られた生徒だった。
ガルドは決勝でも落ち着いた剣さばきを見せた。相手の攻撃を受け止め、隙を見逃さずに勝負を決める。審判が勝者として彼の名を告げると、会場から歓声が上がった。
剣術部門の表彰式は、両部門の決勝が終わった後に行われた。
エドガーは観客席から、ガルドが表彰を受ける姿を見届けた。準決勝で自分を破った相手が、そのまま決勝でも勝ち抜いた。悔しさが消えたわけではない。それでも、敗れた相手が優勝したことには、納得できるだけの強さがあった。
表彰式が終わると、エドガーは医務室へ向かった。
扉を開けると、セリオスがエリシアの状態を確認していた。
「エリシアは……?」
「まだ眠っています。容態に大きな変化はありません」
「そうか」
エドガーは寝台のそばへ行き、眠るエリシアの顔を見つめた。ベッド脇には花瓶が置かれ、淡い色の花が飾られている。
「今日、男子剣術部門の決勝があったんだ」
返事はない。それでもエドガーは、彼女に話しかけるように続けた。
「俺を破ったガルド・ヴァレン先輩が勝った。三年生で、ヴァレン男爵家の子息だ。準決勝でも強かったけど、決勝でも最後まで冷静だったよ」
エドガーは椅子を寝台のそばへ寄せ、腰を下ろした。
「俺は準決勝で負けたけど、エリシアは五回戦まで進んだんだ。剣を始めて一か月で、前回大会のベスト四だったマリアンナ先輩にも勝った。十分すごい結果だよ」
エドガーは、眠ったままのエリシアの顔を眺めていた。
呼びかけても返事はない。それでも、彼女が目を覚ました時に伝えたいことを考えながら、エドガーはしばらく寝台のそばにいた。
その日の夕方。
閉じていたエリシアのまぶたが、かすかに動いた。
ゆっくりと目を開ける。白い天井がぼんやりと視界に入った。薬草の匂いが鼻をかすめ、身体のあちこちに鈍い痛みが残っている。
「……ここは……?」
寝台のそばにいたエドガーが、すぐに身を乗り出した。
「エリシア! 目が覚めたのか」
「エドガー……?」
「そうだ。医務室だ。身体を動かすなよ」
エリシアは起き上がろうとした。身体を少し動かしただけで痛みが走り、眉をひそめる。
「ほら、無理するな。三日も眠ってたんだぞ」
「三日も……?」
エリシアは、ぼんやりと天井を見つめた。
「試合のことは覚えてるか?」
「少しだけ……。クラリス様と試合をして、何度も倒れて……その後は、よく覚えてないの」
「試合はクラリス様の勝ちになった。最後に剣を振り下ろそうとしたところで、アレクが止めたんだ」
「アレクが……?」
「ああ。お前を抱えて、ここまで運んできた。手も怪我してたよ」
エリシアは目を見開いた。
「アレクの手、大丈夫なの?」
「俺が見た時は血が出てた。でも、セリオス様が手当てしてくれたはずだ」
「そう……」
ほっとしたように息をつく。けれど、試合の記憶が戻るにつれて、エリシアの表情には悔しさが滲んだ。
「私、負けたんだね」
「ああ。でも、剣を始めて一か月で五回戦まで進んだんだ。前回大会でベスト四に入ったマリアンナ先輩にも勝った。十分すごいよ」
「そうかな……」
「そうだよ。俺なんて準決勝で負けたんだからな」
「エドガーも準決勝まで行ったの?」
「ああ。三年生のガルド・ヴァレン先輩に負けた。ヴァレン男爵家の人で、剣の腕はかなりのものだったよ」
「その人はどうなったの?」
「今日の決勝で勝って、男子剣術部門の優勝者になった」
「エドガーに勝った人が優勝したんだね」
「悔しいけど、納得できる試合だった」
「決勝も見たの?」
「見た。剣術部門の表彰式が終わってから、ここに来たんだ」
「そうだったんだ。来てくれてありがとう」
「目が覚めてよかった」
エドガーは彼女の顔を眺めていた。試合場で何度倒されても立ち上がろうとしていた姿が、今も目に焼きついている。
ベッド脇には花瓶が置かれ、淡い色の花が飾られていた。
「その花、エドガーが持ってきてくれたの?」
「ああ。眠ってる間も、少しは明るい方がいいと思って」
「きれいだね。ありがとう」
「気に入ったならよかった」
エリシアは花を見つめ、静かに息を吐いた。
「明日は大会最終日だ。魔法部門の決勝と表彰式がある。アレクが決勝に出るんだ」
「アレクも決勝まで進んだんだね」
「ああ。明日は試合があるから、今日はまだ来られないだろうな」
「そうだよね」
エリシアは目を閉じた。身体はまだ重く、話を続けるだけでも疲れが出てくる。
「今日はもう休め。無理するなよ」
「うん」
エドガーは寝台のそばにとどまり、エリシアが休めるよう静かにしていた。
◇
大会最終日。
午後、魔法部門の決勝が行われた。
アレクは相手の魔法を見極め、最後まで集中を切らすことなく戦い抜いた。勝負が決まると、審判が彼の名を告げる。アレクは魔法部門の優勝者となった。
その後、最終日の表彰式が行われ、大会の全日程が終わった。
表彰式を終えたアレクは、会場を出るとすぐに医務室へ向かった。右手にはまだ包帯が巻かれていたが、足取りに迷いはない。
医務室にはエリシアだけがいた。
寝台で休んでいた彼女は、アレクの気配に気づいて目を開けた。
「エリシア」
「アレク。来てくれたんだね」
「ああ。昨日、目が覚めたと聞いた」
アレクは寝台のそばに椅子を寄せて座った。エリシアは彼の手に巻かれた包帯を見つめる。
「手はまだ痛む?」
「もう問題ない。傷も塞がってきている」
「よかった。私を助けてくれてありがとう」
アレクは、わずかに目を見開いた。
「……どうして知っているんだ?」
「目が覚めた時、エドガーがいて教えてくれたの。私が三日間眠っていたことも、アレクが試合を止めてくれたことも。それから、私が負けたことも」
「そうか……エドガーが」
アレクは包帯を巻いた手に視線を落とした。
「俺は、もっと早く止めるべきだった。君があんな怪我をする前に……」
エリシアは、彼の言葉を聞きながら、少しだけ笑顔を作った。
「大丈夫だよ。アレクが助けてくれたから」
その笑顔は、どこかぎこちなかった。
「でも、俺は君が大怪我をするまで止められなかった」
アレクの表情には悔いが残っていた。試合を止めるのが遅れたことを、今も自分の責任だと思っているのだろう。
「今回は本当にすまなかった」
「え?」
「クラリスは俺の婚約者なんだ……。彼女が君に大怪我をさせてしまった」
エリシアは、すぐには返事ができなかった。
クラリスがアレクの婚約者――。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。どうしてそんな気持ちになるのか、自分でも分からない。
けれど、ふと今までのことが頭をよぎった。
クラリスは、エリシアにどこか冷たい態度を取っていた。
(だから、クラリス様は私に冷たいんだ……)
そう考えると、胸の痛みが少しだけ形を持った気がした。
エリシアは、その感情を隠すように笑顔を作った。
「大丈夫だよ。アレクが助けてくれたから」
アレクは気まずそうに目を伏せた。
「それでも、止めるのが遅かった。君をあんな目に遭わせたことを、簡単に許してもらえるとは思っていない」
自分を責めるように、アレクは包帯を巻いた手を見つめていた。
その手が、試合場でクラリスのレイピアを止めたのだ。
「アレク。少し手を貸して」
「え?」
エリシアはそっと手を伸ばし、彼の手を取った。まだ力の入らない指で、包帯の端に触れる。
「これは、あの時の傷?」
「ああ。でも大した傷じゃない」
「私を助けるために負った傷だよ」
エリシアは彼の掌を包むように握った。
指先から淡い光がこぼれる。光は包帯の隙間へ染み込み、掌の傷を優しく覆っていった。血の跡が薄れ、開いていた傷口がゆっくりと塞がっていく。
アレクは目を見開いた。
「エリシア……」
「動かさないでね」
エリシアは小さく息を吐きながら、治療を続けた。やがて光が消えると、彼の掌は綺麗に治っていた。
「これで大丈夫だと思う」
「ありがとう」
「ううん。助けてもらったお礼」
エリシアは微笑んだ。胸に生まれた痛みは、まだ消えていない。それでも、目の前にいるアレクの傷を治せたことが、少しだけ嬉しかった。
アレクは治った手を見つめたあと、エリシアへ視線を戻した。
「……ありがとう」
エリシアは、小さく笑った。
大会は終わった。クラリスは女子剣術部門で優勝し、ガルド・ヴァレンは男子剣術部門を制した。そして、アレクは魔法部門で優勝した。
自分は五回戦で敗れ、三日間眠り続けた。
悔しさも、試合の記憶も消えてはいない。けれど、剣を始めて一か月でここまで来られたことも、何度倒れても立とうとしたことも、確かな自分の経験だった。
身体が治ったら、また訓練を始めよう。
次にクラリスと向き合う時には、今より少しでも強くなっていたい。
エリシアは花瓶の花を眺めながら、静かに目を閉じた。
更新が遅れました。
すいません。
417話にしてエリシアがアレクの婚約者がクラリスだと
知っているor知っていない
を考えたら沼りました。笑
プロットで、完全にエリシアの感情を置き去りにしていました。
乙女ゲームだから感情なく進めれるのでその辺の違和感が残り、考えたらかなり時間がかかりました。
次の更新は明日の0時に予定しています。
どうぞ暖かい目で読んで下さい。




