第416話 勝者の胸に残るもの
アレクがエリシアを抱きかかえ、闘技場を去っていった。
その背中が通路の向こうへ消えても、クラリスはその場に立ち尽くしていた。
審判が勝者を告げた。けれど、歓声は上がらない。観客席にはざわめきが広がり、生徒たちは互いの顔色をうかがいながら、小声で何かを話している。
試合場の砂には、エリシアが何度も倒れた跡が残っていた。
クラリスの手には、まだレイピアの感触が残っている。
最後に振り下ろそうとした剣を、アレクは素手で止めた。掌から血を流しながら、彼はクラリスを見た。
あの瞳に宿っていたのは、明らかな怒りだった。
「クラリス様!」
リゼットとアデリーナが、足早に近づいてきた。
「先ほどの試合、見事な勝利でしたわ。大会ベスト四に入ったマリアンナ様を破ったエリシアさんを相手に、あれほど圧倒されるとは」
「さすがでございます。前回優勝者に続き、今回も見事な勝ち上がりですわ」
二人は誇らしげにクラリスを称えた。
彼女たちにとっては、今日の試合はクラリスの完勝だったのだろう。剣を始めて間もない特待生を、長年鍛錬を積んできた公爵令嬢が打ち負かした。それは貴族として当然の結果だと考えているのかもしれない。
けれど、クラリスの胸に称賛は届かなかった。
アレクの怒りに満ちた眼差しが、何度も脳裏によみがえる。
彼は普段、ほとんど感情を表に出さない。
幼い頃から王族として振る舞い、何を言われても表情を崩さず、求められる役目を淡々と果たしてきた。周囲からは「操り人形のようだ」と評されたことさえある。
クラリスも、その言葉を耳にしたことがあった。
アレクは反論しなかった。怒りも悲しみも表に出さず、ただ王太子として求められる姿を保っていた。
そのアレクが、今日、感情を露わにした。
エリシアを抱き上げた時の焦り。クラリスを見た時の怒り。レイピアを素手で受け止めた、迷いのない動き。
彼にあれほどの感情を引き出す相手がいる。
「クラリス様?」
アデリーナの声に、クラリスは我に返った。
「申し訳ありません。少し考え事をしておりました」
「無理もありませんわ。あのような試合の後ですもの」
リゼットが柔らかく微笑んだ。
その時、闘技場の入口から、生徒会長のロザリアと副会長のミレイユが近づいてきた。
「クラリス様。先ほどの完勝、実にお見事でした」
ロザリアは落ち着いた声で称えた。
「貴族としての責務を果たされたと、私たちは受け取りました」
ミレイユも続けた。
クラリスは、わずかに表情をこわばらせた。
「どういう意味でしょう?」
「エリシアさんが、王国貴族式の剣術を使っていたことです」
ロザリアは、試合場の砂へ目を向けた。
「あの短剣の扱い方、相手の力をいなして間合いを詰める動き。王国貴族式の剣術に見えました」
「ですが、彼女は平民です。どこで、誰から学んだのでしょうね」
ミレイユの口調には、驚きよりも疑いが滲んでいた。
「限られた貴族家で受け継がれてきた剣技ですもの。平民の特待生が何の断りもなく使うことを、問題にする方もいるでしょう」
アデリーナが同調する。
「クラリス様が勝たれたことで、あの剣技が軽々しく扱われずに済みました。私たちは、そう受け取りました」
クラリスは、すぐには答えなかった。
エリシアの短剣の構えには、確かに王国貴族式の特徴があった。相手の力を受け流し、空いた場所を狙う技術。だが、彼女が使っていたのは、まだ習い始めて間もない者の動きだった。
誰かに教わったのだろう。少なくとも、貴族の剣技を盗んだと決めつける根拠はない。
それなのに、ロザリアたちは彼女の身分を理由に疑いを向けている。
「エリシアさんがどこで剣術を学んだか、わたくしは存じません」
「そうでしょうね。ですが、あの剣技を使う以上、説明を求められることもあるでしょう」
ロザリアは穏やかに言った。
「クラリス様は、正々堂々と勝たれた。それは貴族として立派なことです」
その言葉の裏側に、クラリスは意図を感じた。
自分の勝利を称えるふりをして、エリシアが貴族の剣術を使ったことを問題にしようとしている。審判が試合を止めなかったことも、エリシアの怪我も、二人は話題にしない。
彼女たちは、試合を派閥争いの材料に変えようとしているのではないか。
「先ほどの審判の方も、意地が悪いですね」
アデリーナが試合場の端へ目を向けた。
「ええ。あれほどの状態なら、普通は止めるはずです」
リゼットも眉を寄せた。
「彼もわたくしたちと同じ派閥ですから、わたくしたちから抗議した方が角が立ちませんね」
二人はそう言って、クラリスへ視線を向けた。
その目が何を求めているのか、クラリスには分かった。
自分から抗議すれば、王権派との対立になる。だから二人が代わりに動く。そう告げているのだろう。だが同時に、自分はこの件に関わるなと釘を刺されているようにも感じた。
「審判への抗議は、生徒会長と副会長にお任せしますわ」
クラリスは穏やかに答えた。
ロザリアとミレイユは満足したように頷き、審判の方へ歩いていった。
クラリスは二人の背中を見送った。
審判が試合を止めなかったことは、単なる判断の遅れではない。王権派の策略だと考えるのが自然だろう。
では、何のためにエリシアをあそこまで追い詰めたのか。
平民が特待生としてAクラスにいるからか。彼女が優秀だからか。建国神話に登場する「癒しの守り手」と同じような回復魔法を使うからか。
あるいは、彼女が貴族式の剣術を使ったことを問題にして、学園から追い出す口実を作るためか。
いくつも理由は浮かぶ。けれど、どれも確証はない。
違う可能性もある。
エリシアを傷つければ、アレクは必ず動く。王太子が特待生を庇えば、婚約者であるクラリスとの関係が疑われる。二人の間に不和が生まれれば、ローゼンベルク家の立場にも影響が及ぶ。
王権派の狙いは、家の権威を失墜させることだけではないのかもしれない。
試合前、父は言った。
周囲をよく見て、誰が何を言い、どう動くのか確かめなさい、と。
クラリスは、エリシアが運ばれていった通路へ目を向けた。
彼女の姿は、もう見えない。
きっと医務室へ運ばれたのだろう。どれほどの怪我を負ったのか、意識は戻ったのか。確かめたい気持ちはあった。けれど、今すぐ追いかけることはできなかった。
自分が試合を続けたことを、エリシアはどう思っているだろう。
審判が止めない以上、試合を続ければ王権派の思惑に乗るかもしれない。そう考えながらも、自分は剣を振り続けた。エリシアを心配する気持ちと、周囲に利用されることへの恐れ。そのどちらにも決めきれず、結果として彼女を傷つけた。
アレクの怒りは当然なのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が重くなった。
ロザリアとミレイユが戻ってきた。二人は、審判と短く話したようだったが、何を告げたのかまでは分からない。
「クラリス様。先ほどの完勝、改めてお見事でした」
ロザリアが言った。
「貴族としての責務を果たされたと、私たちは受け取りました」
ミレイユも微笑む。
「お二人も、魔法部門で勝ち進んでいらっしゃるのでしょう?」
クラリスが尋ねると、ミレイユは頷いた。
「ええ。もしクラリス様も魔法部門に出場されていたら、私たちと対戦する機会もあったかもしれませんのに……残念です」
称賛の形をした言葉に、別の意味が含まれているように思えた。
クラリスは、闘技場の端に立つ審判を見た。ロザリアたちは抗議をすると言ったものの、審判はすでに次の試合の準備を始めている。誰も彼に責任を問う様子はなかった。
この二人も王権派だ。
彼女たちは審判へ抗議するつもりなのか。それとも、形だけの言葉で済ませるつもりなのか。
クラリスにはまだ分からなかった。
だが、アレクの姿を思い出すたび、胸が痛んだ。
彼は、普段なら感情を表に出さない。操り人形のようだと言われるほど、怒りも喜びも隠してきた。その彼が、エリシアのために怒りをあらわにした。
クラリスは、アレクとの関係をこのままにしてはいけないと思った。
自分たちの間には、すでに溝がある。彼がエリシアを大切な友人として見ていることも、クラリス自身が彼の言葉を正しく受け止められなかったことも、今日の試合で改めて突きつけられた。
どうすれば、関係を修復できるのか。
すぐには答えが出ない。
まずは父に、今日の試合で起きたことを話さなくてはならない。審判のこと。生徒会長たちの言葉。王権派がエリシアを利用したのではないかという疑念。そして、アレクの怒り。
クラリスは、二人の称賛に形だけの礼を返した。
「ありがとうございます。ですが、わたくしは少し考えたいことがありますので、失礼いたします」
ロザリアとミレイユは、穏やかな笑みを保ったまま頷いた。
クラリスは二人から離れ、闘技場を後にした。
背後では、次の試合を告げる声が上がる。大会は何事もなかったかのように続いていく。
けれど、クラリスの胸には、勝者としての誇りよりも、アレクの怒りに満ちた瞳が深く残っていた。
あの眼差しから逃げることはできない。
いずれ、アレクと話さなければならない。
その時、何を伝えるべきなのか。どうすれば、二人の間にできてしまった溝を埋められるのか。
クラリスは答えの見つからない問いを胸に抱えたまま、午後の光が差す廊下を歩いていった。




