第415話 薔薇の馬車
朝の光が、女子寮の窓から差し込んでいた。
クラリス・ローゼンベルクは寝台から起き上がり、身支度を整えた。今日は武芸大会三日目。女子剣術部門の五回戦が行われる。
髪を結い、制服の襟を整える。腰には試合用の短めのレイピアを差した。刃は落とされ、先端も丸められている。それでも、強く打ち込めば怪我を負わせることはある。油断はできなかった。
部屋を出ると、廊下の先にリゼットが立っていた。
「クラリス様、おはようございます」
「おはようございます。待っていてくださったの?」
「はい。今日はクラリス様の試合がありますもの」
リゼットの隣にはアデリーナもいた。二人はクラリスの姿を見るなり、嬉しそうに笑みを深めた。
「クラリス様、昨日の試合を拝見しましたわ。前回優勝者のデボラ・ヴァルヘイム様を破られるなんて、本当にお見事でした」
アデリーナは感激したように胸元で手を合わせた。
「デボラ様は昨年の大会を制した方です。今回も優勝候補と目されていましたのに、クラリス様は一歩も引かず、見事に勝利なさいました」
「わたくしも見ておりました。相手の剣を受け流し、間合いを詰められたところなど、素晴らしかったですわ」
リゼットも称賛を重ねる。
「クラリス様の剣術は、やはり別格です。幼い頃から鍛錬を積まれてきた成果が、あのような大舞台で発揮されるのを見られて、わたくしまで誇らしい気持ちになりました」
「少し大げさですわ。試合は相手との相性もありますもの」
「ご謙遜なさらないでください。前回優勝者に勝つことが、どれほど難しいかは皆が知っております」
アデリーナはクラリスの腰に差したレイピアへ視線を移した。
「クラリス様が魔法部門にも出場されていたら、そちらでも優勝候補でしたでしょうに」
「アレク殿下が魔法部門に出場なさるのですもの。わたくしは剣術部門に出るしかありませんわ」
「そうでしたわね。婚約者同士が同じ部門で競うのは、避けるのがマナーですもの」
リゼットが頷く。
「殿下に勝てば角が立ちますし、負けても周囲が何かと言い立てるでしょう。クラリス様のお立場を考えれば、別の部門に出られるのが自然ですわ」
「ええ。ですから、剣術部門に参加しております」
クラリスは穏やかに答えた。
アレクと同じ魔法部門に出場すれば、勝っても負けても周囲の目を避けられない。婚約者とは別の部門に出る。それが貴族社会での礼儀であり、余計な噂を立てないための配慮でもあった。
「それにしても、今日の相手はエリシアさんですわね」
リゼットが声を落とす。
「昨日、大会ベスト四に入ったマリアンナ様を破ったそうです。試合を重ねるごとに、注目が集まっていますわ」
「剣を始めて一か月ほどだと聞きましたが……」
「それでも、マリアンナ様を倒されたのですもの。侮れませんわね」
クラリスはそう答え、寮の出口へ歩き出した。
◇
寮の玄関を抜けると、朝の空気が頬を撫でた。石畳の道には学園へ向かう生徒たちの姿が見える。三人は並んで歩き始めた。
「クラリス様なら、今日もきっと勝てますわ」
「昨日のように落ち着いて戦えば問題ありません」
「ありがとうございます」
クラリスは二人に礼を返した。
その時だった。
「クラリス様」
寮の門を出たところで、侍女が声をかけた。
クラリスが振り返ると、道の奥に一台の豪華な馬車が停まっていた。黒塗りの車体には、金色の薔薇の家紋が施されている。ローゼンベルク家の馬車だった。
窓から父が顔を出す。
「クラリス。少し中に入りなさい」
「お父様……」
思いがけない呼び止めに、クラリスは足を止めた。父の表情には、いつもの穏やかさの奥に緊張が見える。
「すぐに済む」
クラリスはリゼットとアデリーナへ振り返った。
「申し訳ありません。少し父と話してまいります。先に学園へ向かっていてくださいませ」
「もちろんですわ。お待ちしております」
「どうぞごゆっくり」
二人に一言断り、クラリスは侍女の手を借りて馬車へ乗り込んだ。
扉が閉じると、外の音が遠ざかった。父は向かいの席に座っていた。侍女は外に残り、馬車の中には父とクラリスだけになる。
「朝からどうされたのですか?」
「昨夜、裏付けが取れた」
父は声を低くした。
「穏健派を攻撃し、魔導国家との一件に巻き込んだのは、王権派だ」
クラリスは息を呑んだ。
魔導国家から届いた詰問状。盗賊団の所持品から見つかった王国貴族との繋がり。そして、罪を問われ処刑された穏健派の家々。父が疑っていたことが、事実だと確かめられたのだ。
「王権派が……」
「複数の情報が一致した。公にできる証拠はまだ揃っていないが、彼らが仕掛けた罠だった可能性は高い」
「どうして、そこまでして穏健派を……」
「王権派は王家の権限を強めたい。中立穏健派は、王家にも貴族派にも偏らず、各家の合意を重んじてきた。それが邪魔だったのだろう」
父は窓の外へ目をやった。
「ローゼンベルク家は、穏健派の中でも影響力が大きい。次に狙われる可能性がある」
クラリスは膝の上で手を組んだ。
「学園では、王権派の令嬢たちがわたくしの周囲に集まっています」
「アデリーナ嬢とリゼット嬢か」
「はい。親しく接してくださいますが、二人は王権派です」
「それが気になっていた」
父はクラリスの目を見た。
「王権派は、お前の周囲を自派の者で固めている。表向きは王太子の婚約者を支えているように見えるが、別の目的があるのかもしれない」
「わたくしの評判を落とすためでしょうか」
「その可能性はある。お前が優秀であることを人々の記憶から薄れさせ、ローゼンベルク家の権威を失墜させる。あるいは、お前に問題を起こさせ、それを理由に家の力を削ごうとしているのかもしれない」
「わたくしが何か問題を起こすよう、仕向ける……」
「あるいは、周囲の者が起こした問題を、お前の責任にする。王権派が令嬢たちをお前の周囲に集めているのは、そのためかもしれん」
クラリスは、アレクから聞いた話を思い出した。
アデリーナとリゼットが、特待生のエリシアを教室から追い出そうとしていた。アレクは彼女たちに注意を促し、クラリスにも気を配ってほしいと頼んだ。
生徒会長からは、二人の考えとクラリスの考えが違えば大変だと言われた。
それらの出来事が、頭の中で結びついていく。
「わたくしが二人を強く咎めれば、王権派との対立が表に出ます」
「そうだ。今は軽率に動くべきではない。相手の狙いを確かめる必要がある」
「では、わたくしはどうすれば……」
「周囲をよく見なさい。誰が何を言い、どう動くのか。お前自身が判断するための材料を集めるんだ」
父は言葉を切り、クラリスの手にそっと触れた。
「今日の試合も注目されている。昨日の勝利で、お前の実力は多くの者に知られた。だが、試合の結果だけでなく、その後に周囲がどう動くかも見ておきなさい」
「分かりました」
「お前を疑っているわけではない。私はお前の力を信じている。ただ、敵の狙いが分からないうちは、焦らずに進みなさい」
「はい、お父様」
馬車の扉が開いた。侍女が外で待っている。
クラリスは降りる前に、父を見た。
「お知らせくださって、ありがとうございます」
「気をつけて行きなさい」
クラリスは馬車を降りた。
リゼットとアデリーナは、少し離れた場所で待っていた。
「お待たせしました」
「お話は済みましたか?」
「ええ。学園へ参りましょう」
三人は再び歩き出した。
リゼットとアデリーナは、先ほどと変わらない様子で話しかける。昨日の試合のこと、今日の対戦相手のこと。言葉の一つ一つは親しみと称賛に満ちている。
クラリスは相槌を打ちながら、二人の表情を静かに見ていた。
彼女たちを疑いたいわけではない。だが、父の話を聞いた今、すべてを無邪気に受け取ることもできなかった。
◇
午後、クラリスは闘技場の控え場所にいた。
会場から観客の歓声が響いてくる。砂を踏む音や、審判の声が壁越しに聞こえた。
係員が入口から顔を出した。
「クラリス選手、エリシア選手。準備をお願いします」
クラリスは立ち上がり、レイピアの柄を確かめた。
向かいにいたエリシアも短剣を手にしている。肩には昨日の試合で受けた傷が残っているようだった。
「本日はよろしくお願いいたします」
エリシアが頭を下げた。
「ええ」
クラリスは返事をした。
視線は、試合場へ続く通路の先に向けたままだった。
今朝、父から聞いた話が頭から離れない。王権派は何を企んでいるのか。自分の周囲に彼女たちを集めた理由は何か。ローゼンベルク家の権威を失墜させるため、自分の評価を傷つけようとしているのか。
考えても答えは出なかった。
けれど、一つだけ確かなことがある。
この大会で勝ち続ければ、少なくとも自分の剣の腕を疑う者はいない。王権派が何を仕掛けてきても、成果を積み重ねることが自分を守る力になる。
どんなことがあっても、優勝する。
「両者、入場してください」
係員の声に促され、二人は闘技場へ進んだ。
観客席の視線が集まる。エリシアが姿を見せると、ざわめきが広がった。昨日、大会ベスト四のマリアンナを破った特待生。今日の相手は、前回優勝者デボラ・ヴァルヘイムを破ったクラリス。
二人の名が呼ばれる。
審判が中央に立ち、試合の開始を告げた。
クラリスはレイピアを構えた。エリシアも短剣を前へ出す。
開始の合図が響いた。
クラリスの身体は、考えるより早く動いていた。小さな踏み込みから繰り出した突きが、エリシアの肩を打つ。彼女の身体が揺れた。
その後もクラリスは間合いを支配した。短剣の届かない距離を保ち、エリシアが踏み込むたびに剣先を走らせる。胸当てを打ち、手首を打ち、脇腹を狙う。
エリシアは倒れた。
それでも立ち上がった。
また打たれ、砂の上へ吹き飛ばされる。肩から転がり、短剣を手放しかけながらも、彼女は武器を握り直す。
審判は一度も動かなかった。
試合を止めることも、勝敗を告げることもない。
エリシアは何度倒されても立ち上がろうとした。ふらつき、膝をつき、短剣を杖のようにして身体を起こす。
クラリスには、彼女がなぜそこまで立ち上がるのか分からなかった。
(立ち上がらないで……)
心の中で願う。
(あなたには、家の面目も、貴族として背負うものもない。頑張らなくてもいいのに。どうして、何度も立ち上がるの……)
エリシアが再び立ち上がる。顔には痛みが浮かび、呼吸は乱れていた。それでも短剣を構えた。
クラリスは、審判へ目を向けた。
試合場の端に立った審判は、エリシアが倒れた時も、立ち上がった時も、動かなかった。勝敗を宣言することも、試合を止めることもない。
その無反応を見た瞬間、クラリスは悟った。
これは王権派の策略だ。
父の話が脳裏によみがえる。ローゼンベルク家の権威を失墜させるため、優秀な自分の評価をかき消す。あるいは、自分に問題を起こさせるために、周囲を固めている。
エリシアを相手に手を抜けば、どうなるだろう。
平民の特待生に勝ちを譲った。王太子の友人だから見逃した。王権派の令嬢たちと考えが違うのを示すため、わざと負けた――そんな噂を立てられるかもしれない。
手を抜けば、王権派とは考え方が違うと、周囲に示すことにもなる。
それこそ、彼らの望む問題なのではないか。
だが、エリシアを打ち続けることも、クラリスの望みではなかった。
「力量の差がありすぎますわ。降参なさってはいかがですか?」
せめて、ここで降参してほしい。そうすれば、もう傷つかずに済む。
「降参は、しません」
エリシアは首を横に振った。
クラリスの胸に、苛立ちに似た感情が芽生える。
どうして、そこまで続けるのか。これ以上傷つけば、後に残るかもしれない。審判は止めない。なら、自分が加減するしかないのか。
だが、エリシアは再び構えた。
何度打ち倒しても、彼女は立つ。
クラリスはレイピアを握りしめた。父の言葉も、王権派の思惑も、エリシアの意地も、すべてが頭の中で絡み合う。
倒れたエリシアが、片膝を立てた。
短剣を握ったまま、もう一度立とうとする。
クラリスの表情が強張った。
目を細め、エリシアを睨みつける。
なぜ、まだ立つのか。
レイピアを握り直し、振りかぶった。
その瞬間、闘技場の空気が変わった。
アレクが観客席から踏み込む。床が衝撃に耐えきれず陥没し、砂が弾けた。
身体強化の魔法で脚力を高めた彼は、一瞬で試合場まで駆け抜けた。クラリスのレイピアが振り下ろされる軌道へ割り込むように、二人の間に姿を現す。
クラリスの剣が迫る。
アレクは避けず、片手を伸ばして剣身を素手でつかんだ。
鈍い刃でも、勢いのついた剣を受け止めれば皮膚は裂ける。アレクの掌から血が流れた。
それでも、レイピアは止まっていた。
遅れて、押さえ込まれていた魔力があふれ出す。熱が広がり、闘技場の空気が揺れた。近くにいた生徒たちは息を呑み、肌を刺すような圧力に身をすくめた。
「もう勝敗は決しただろう」
アレクの声が闘技場に響いた。
クラリスは剣を握ったまま、動けなかった。
審判は、ようやく口を開いた。
「しょ、勝者……クラリス・ローゼンベルク!」
アレクは剣から手を離し、倒れたエリシアを抱き上げる。彼はクラリスを一度も見ず、そのまま闘技場を去っていった。
観客席は静まり返っていた。
クラリスは何も言わなかった。
リゼットもアデリーナも、すぐには近づいてこない。審判は視線を逸らし、観客たちは互いに小声で話し始めている。
クラリスはレイピアを下ろした。
勝者と告げられたはずなのに、勝ったという実感はなかった。
彼女は顔を上げず、誰にも声をかけないまま、闘技場を降りた。




