第414話 譲れない一歩
お手伝いや私用、更に緊急の出動が発生したり。
ストックが無く、更新が遅れました。
すみません……。
明日から仕事なので執筆できると思います。
皆様、火事にはお気おつけ下さい。
評価、ブックマーク、リアクション、ありがとうございます。
この章はあと少しで終わりそうです。
次の章から、この話の約2年前に戻り、またレオンに戻るつもりです。
これからもよろしくお願いいたします、
王立ビスタ魔法学園の武芸大会、三日目。
この日は剣術部門の試合が行われる。魔法部門の試合はなく、闘技場の周囲には、授業や大会運営の役割を終えた生徒たちが集まっていた。
剣術部門は男女に分かれている。午前から女子剣術の試合が続き、午後には男子剣術の試合が組まれていた。
エリシアは控え場所へ向かう通路で、自分の肩をそっと押さえた。
昨日の試合で受けた打撃の跡が、まだ少し残っている。セリオスに診てもらった時には、骨にも筋にも異常はないと言われた。動かしても問題はない。そう聞いていたが、腕を大きく振ると鈍い痛みが走った。
それでも、棄権するつもりはなかった。
短剣を腰に差し、試合用の手袋を確かめる。刃は落とされ、先端も丸められている。だが、強く打ちつければ怪我はする。これまでの試合でも、打撲や擦り傷を負う選手は少なくなかった。
今日の相手は、クラリス・ローゼンベルク。
幼い頃から剣術を習ってきた公爵令嬢で、短めのレイピアを使う。対してエリシアが剣の訓練を始めたのは、ほんの一か月前だった。
控え場所の奥から、観客席の歓声が聞こえてくる。
エリシアは一度、深く息を吸った。
「エリシア」
背後から声をかけられ、振り返る。
アレクが通路の入口に立っていた。制服姿のまま、周囲の視線を気に留めず、まっすぐこちらを見ている。
「アレク様。どうしてこちらに?」
「今日は剣術部門だけだからな。試合を見に来た」
「お忙しいのではありませんか?」
「魔法部門はない。時間はある」
アレクは、エリシアの肩へ一瞬だけ視線を向けた。
「肩は大丈夫なのか?」
「はい。セリオス様にも診ていただきました。試合に出ても問題ないそうです」
「痛みは?」
「少しあります。でも、動けます」
アレクは何か言いかけて、口を閉じた。無理をするな、と言いたいのだろう。だが、彼はエリシアが出場を決めた理由を知っている。安易に止めることはしなかった。
エリシアは視線を落とした。
「みんな、子どもの頃から剣を習っているんですよね。私が一か月練習しただけで、どこまで戦えるのかな……」
剣を持つ手に力が入る。
この一か月、放課後はほとんどアレクと訓練してきた。時にはエドガーも見てくれた。エリシアには王宮貴族式の剣術が合っていたらしく、短剣の扱いも少しずつ身についてきた。
それでも、クラリスとの差は大きい。
アレクは静かに言った。
「勝負は実力差だけで決まるものじゃない。気迫も武器になる。最後まで諦めなければ、勝機はある」
エリシアは顔を上げた。
彼の言葉は、慰めだけではない。訓練の中で何度も聞いた。エリシアが打ち込まれ、床に転がり、もう無理だと思った時にも、アレクは同じことを言っていた。
「心が先に負けていたら、勝てるものも勝てなくなる。諦めなければ勝機はある」
その言葉を、エリシアは胸の内で繰り返した。
「はい。最後まで諦めません」
「それでいい」
アレクは短く頷いた。
係員が控え場所へ顔を出し、次の試合の選手を呼ぶ。
「エリシア選手、クラリス選手。準備をお願いします」
「行ってきます」
「ああ。見ている」
エリシアは通路を進み、闘技場へ出た。
午後の日差しが、砂を敷いた試合場を明るく照らしている。観客席は生徒たちで埋まり、上級生や教師、来賓の姿も見えた。
数日前までは、エリシアの試合に注目する者は少なかった。だが、三回戦でクロエに勝ち、四回戦では前回大会のベスト四で優勝候補の一人と目されていたマリアンナを破った。今では、彼女が試合場へ姿を見せただけで、あちこちからざわめきが起きる。
「特待生のエリシアだ」
「マリアンナ先輩を倒した子だろ?」
「次はクラリス様と当たるのか」
エリシアは観客席の声を聞き流し、試合場の反対側へ目を向けた。
クラリスが立っていた。
金色の髪を整え、姿勢を崩さず、短めのレイピアを片手に持っている。細身の剣身は、両手剣や騎士の剣よりもずっと軽く、衣服の下へ隠すために作られた貴族式の武器だった。
クラリスはエリシアを見ていなかった。
観客席の方へ顔を向け、試合場の様子を確かめている。エリシアが近づいても、視線は一度もこちらへ向かなかった。
洗濯場でのことが、エリシアの頭をよぎる。
あの時、クラリスは扇子で口元を隠しながら、冷たい声で言った。
『立場を弁えなさい』
自分が平民だから、Aクラスにふさわしくないと言われたのだと、エリシアは受け取っていた。
それ以来、クラリスとはまともに話していない。
エリシアは短剣を持つ手を握り直し、クラリスへ向かって頭を下げた。
「本日はよろしくお願いいたします」
「ええ」
クラリスは短く返事をした。
視線は試合場に向けたままだ。エリシアの顔を見ることもなく、それ以上の言葉を続ける様子もなかった。
やはり、嫌われているのだろう。
エリシアはそう思い、胸の内に小さな痛みを覚えた。だが、すぐに気持ちを切り替える。ここは試合場だ。相手の表情を気にしていても、勝てるわけではない。
審判が二人の間に立った。
大会の剣術試合では、属性付与も身体強化も禁止されている。魔法を使えば、その場で失格となる。相手を戦闘不能にするか、降参を宣言させれば勝敗が決まる。学生同士の試合であるため、危険な状態になれば審判が止めることになっていた。
ただし、この試合では、審判は開始位置から一歩も動かなかった。
「両者、構えて」
エリシアは短剣を抜いた。
刃は鈍く、先端も丸い。それでも、振るえば相手を打つ武器になる。左足を前に出し、右手の短剣を胸の前へ構える。アレクに教わった姿勢を思い出し、腰を落とした。
クラリスはレイピアを軽く構えた。剣先がエリシアへ向く。肩も腕も、ほとんど力んでいない。
「始め!」
審判の声と同時に、クラリスの姿が動いた。
速い。
エリシアは反射的に短剣を振り上げた。レイピアが短剣の脇をすり抜け、胸元を狙ってくる。
エリシアは身体をひねってかわそうとした。だが、剣先は肩口をかすめ、鈍い衝撃を残した。
「っ!」
エリシアの身体が後ろへよろめく。
間を置かず、クラリスは踏み込んだ。今度は剣先が脇腹へ向かう。エリシアは短剣を横に出して受けたが、細い剣身は刃の側面を滑り、手首を打った。
痺れが走る。
短剣を落としそうになり、エリシアは歯を食いしばった。
クラリスは大きく剣を振らない。小さな踏み込みと、わずかな手首の動きだけで、正確に急所を狙ってくる。王宮貴族式の剣術は力で押すのではなく、相手の動きをいなし、開いた場所を突くものだ。
訓練では、アレクの大きな動きに合わせて剣を受けることが多かった。エドガーの剣も、力強く振り下ろされる。相手の攻撃を見てから受ける練習はしてきた。
だが、クラリスの突きは小さく、鋭い。動きを見極めた時には、もう剣先が届いている。
「そこ!」
エリシアは、クラリスが一度引いた剣に反応して踏み込んだ。短剣を横から振り、相手の手元を狙う。
しかし、クラリスは半歩だけ身を引いた。短剣は空を切る。レイピアの柄がエリシアの胸当てを強く打った。
息が詰まった。
エリシアの身体が後方へ弾かれ、砂の上に背中から倒れ込む。
観客席から、どよめきが上がった。
肺の中の空気が押し出され、エリシアは一瞬、呼吸の仕方を忘れた。背中に砂が食い込み、胸が焼けるように痛む。
クラリスは追撃してこなかった。一定の距離を保ち、レイピアの先をこちらへ向けている。
審判は試合場の端に立ったままだった。
エリシアは腕をついて身体を起こす。胸の痛みをこらえ、片膝を立てて立ち上がった。
クラリスは何も言わない。
エリシアは短剣を構え直した。
再び踏み込む。今度は正面からではなく、少し外側へ回り込む。相手のレイピアの軌道をずらし、懐へ入り込むつもりだった。
クラリスの剣が閃く。
エリシアは短剣で受けた。金属がぶつかる乾いた音が響く。手首に衝撃が走り、短剣が外側へ押し流された。
空いた脇腹へ、レイピアの柄が打ち込まれる。
衝撃でエリシアの身体が折れた。続けて肩を打たれ、足がもつれる。クラリスは体勢を崩したエリシアの胸へ剣を突き出した。
エリシアは横へ飛び退こうとしたが、肩の痛みで反応が遅れた。レイピアが胸当てを強く打ち、エリシアは再び後ろへ吹き飛ばされた。
地面を肩から転がる。
短剣を握る手が砂を擦り、肘に痛みが走った。観客席から、再びざわめきが広がる。
それでも、エリシアは手を離さなかった。
審判は動かない。
クラリスは剣先を下げず、倒れたエリシアを見つめていた。
エリシアは、震える腕で身体を支えた。膝をつき、片足を前へ出す。立ち上がるまでに、少し時間がかかった。
その間にも、審判は何も言わなかった。
ようやく立ったエリシアは、息を整えようとした。胸が痛く、肩も熱を持っている。だが、剣を構える。
クラリスはわずかに目を伏せた。
「力量の差がありすぎますわ。降参なさってはいかがですか?」
その言葉が、エリシアの胸に刺さった。
心配してくれているのかもしれない。けれど、今のエリシアには、見下されたように聞こえた。平民の自分が、貴族の剣術に敵うはずがない。ここまでにしておけ。そう言われた気がした。
「降参は、しません」
声は掠れていた。それでも、言い切った。
クラリスの表情は変わらない。
次の攻撃が来る。
エリシアは、今度はクラリスの剣先をよく見ることにした。剣先そのものではなく、肩と肘の動き。アレクから何度も教わったことを思い出す。
クラリスが踏み込む。
エリシアは短剣を上げず、身体を半歩だけずらした。レイピアが胸の横を通り過ぎる。かわせた。だが、クラリスの手首が返り、剣の柄がエリシアの腕を打った。
痺れた腕が下がる。
その隙に、レイピアが太腿を強打した。
エリシアの膝が崩れ、片足をつく。クラリスはすぐに剣を引き、胸元へ突きを放った。
エリシアは短剣を斜めに差し入れた。完全には受けきれず、衝撃が腕から肩へ抜ける。身体が横へ流れ、砂の上に倒れた。
頬が地面に触れた。口の中に砂の味が広がる。
エリシアは、すぐには起き上がれなかった。
何度も打たれた箇所が痛み、腕に力が入らない。観客席からの声が遠くなる。目の前の砂が、ぼやけて見えた。
それでも、頭の中にはアレクの言葉が残っていた。
『心が先に負けていたら、勝てるものも勝てなくなる』
エリシアは短剣を握り直す。
手が震えていた。
膝を立てる。身体を起こす。足を踏ん張る。
どうにか立ち上がると、観客席の一角にアレクが見えた。彼は席から身を乗り出し、試合場を見つめていた。怒りを押し殺しているような顔だった。
エリシアは彼に小さく頷き、再びクラリスと向き合った。
クラリスは、レイピアを構えたままだった。
剣先が揺れる。
エリシアはわずかに身を沈め、クラリスの踏み込みを待った。相手が動いた瞬間、横へ逃げずに前へ出る。距離を詰めれば、レイピアの長さを生かしにくくなる。訓練でアレクに教わった対処法の一つだった。
クラリスの剣が伸びる。
エリシアは短剣を外へ払った。剣先が頬をかすめ、熱い線を残す。エリシアはさらに踏み込み、短剣を振るった。
クラリスは身体をひねってかわした。
エリシアの一撃は、クラリスの制服の袖をかすめるだけに終わった。
だが、初めて相手の間合いへ入り込めた。
観客席から、短い歓声が上がった。
クラリスの目が、エリシアへ向く。
今度は、確かにこちらを見た。
その視線に一瞬、迷いのようなものがよぎった。しかし、すぐに消える。クラリスは足を引き、レイピアを構え直した。
エリシアは追いすがる。
短剣を横に振り、次に手首を狙う。クラリスはどちらも細かく受け流した。エリシアの攻撃は力任せになり、剣先がぶれる。クラリスのレイピアが短剣を弾き、柄で肩を打った。
傷めていた肩に衝撃が走る。
エリシアの身体が再び後ろへ飛ばされた。
今度は背中から砂へ落ち、弾むように一度跳ねてから転がった。短剣が手から離れかける。エリシアは砂を握りしめるようにして、どうにか武器をつかみ留めた。
息がうまく吸えない。
遠くで、誰かが何かを叫んでいる。観客席のざわめきは膨らんでいた。審判はその場から動かなかった。
クラリスも、すぐには近づかない。
試合を止める合図はない。
エリシアは砂の上で身体を丸め、痛む肩をかばった。視界が揺れる。意識が遠のきそうになる。
それでも、彼女は短剣を握りしめた。
まだ終わっていない。
自分から降参していない。
なら、立たなくては。
エリシアは片膝をつき、ゆっくりと上体を起こした。足がふらつき、何度も膝が崩れそうになる。短剣を杖のように地面へつき、息を整えながら立ち上がった。
クラリスは、わずかに眉を寄せた。
「もう十分です。これ以上は……」
「まだ、立てます」
エリシアは言葉を絞り出した。
クラリスの表情が強張った。
レイピアを握る手に力が入る。彼女は一度だけ審判の方を見た。審判は開始位置に立ったまま、何も告げない。試合を止める気配も、勝敗を宣言する様子もなかった。
クラリスは視線を戻した。
エリシアは短剣を構えようとした。腕が上がりきらず、切っ先が少し下がる。それでも、彼女は一歩前へ出た。
クラリスは細かい突きを続けた。
胸、肩、脇腹。エリシアは受けきれず、打たれるたびに後ろへ押し戻された。胸当てに衝撃が響き、肩が揺れ、足元が崩れる。
一撃目で後ろへよろめき、二撃目で膝をつく。立ち上がろうとしたところへ三撃目が肩を打ち、エリシアは砂の上へ横倒しになった。
それでも、短剣を離さない。
エリシアは床を転がり、肘をついて身体を起こす。痛みで顔が歪む。息は荒く、髪も乱れていた。それでも、彼女はまた立った。
観客席の声が、さらに大きくなる。
「もう立たなくていい!」
「審判、止めろ!」
誰かが叫んだ。
審判は動かない。
アレクは席から立ち上がっていた。両手を強く握りしめ、試合場から目を離さない。
エリシアは、もう一度クラリスへ向かう。
クラリスは突きを放った。エリシアは短剣で受けようとするが、腕に力が入らず、剣が弾かれる。レイピアの柄が脇腹を打ち、彼女の身体が横へ飛んだ。
砂の上に落ち、肩から転がる。
短剣が手から離れた。
エリシアは動かなかった。
観客席が静まり返る。
クラリスはレイピアを下げず、倒れたエリシアを見つめていた。審判はなおも動かない。勝敗を宣言しようともしなかった。
やがて、エリシアの指が動く。
短剣へ手を伸ばし、柄をつかむ。彼女は身体を引き寄せるようにして、片膝を立てた。
立ち上がろうとしている。
クラリスの表情が強張った。
エリシアは片膝を立てた。短剣を握ったまま、もう一度立とうとする。
クラリスは目を細め、倒れたエリシアを睨みつけた。
レイピアを握り直し、振りかぶる。
その瞬間、アレクの表情から怒りが消えた。
次の瞬間、アレクの足元で砂が弾けた。
踏み込んだ床が、重い衝撃に耐えきれず陥没する。ひび割れた石の縁から砂が吹き上がり、近くにいた生徒たちは思わず身を引いた。
身体強化の魔法で脚力を高めたアレクは、観客席から試合場まで一気に駆け抜けた。目で追う間もない。クラリスがレイピアを振り下ろす、その軌道へ割り込むように、アレクの姿が二人の間に現れた。
クラリスの剣が迫る。
アレクは避けなかった。片手を伸ばし、刃の落とされた剣身を素手でつかむ。
金属が掌に食い込む。鈍い刃でも、勢いのついた剣を受け止めれば皮膚は裂ける。アレクの手から血が滴った。
それでも、レイピアは止まっていた。
遅れて、押さえ込まれていたアレクの魔力が一気にあふれ出す。
闘技場の空気が揺れ、熱が会場全体へ広がった。近くの生徒たちは息を呑み、肌を刺すような圧力に身をすくめた。
「もう勝敗は決しただろう」
彼の声が、闘技場に響く。
クラリスはレイピアを握ったまま、動きを止めていた。アレクは剣を押さえ、倒れたエリシアを背にかばう。
審判はようやく口を開いた。だが、声は震えていた。
「しょ、勝者……クラリス・ローゼンベルク!」
勝敗が告げられても、観客席から歓声は上がらなかった。
アレクはレイピアから手を離し、血のにじむ掌を気にも留めず、エリシアのそばへ膝をついた。
「エリシア!」
返事はない。
彼女は意識を失っていた。短剣を握る手から力が抜け、砂の上へ落ちる。
アレクはエリシアを慎重に抱き上げた。
試合場を去る前に、彼はクラリスへ一度だけ目を向けた。何も言わなかった。その目には、抑えきれない怒りが宿っていた。
クラリスも何も言わず、レイピアを下ろした。
アレクはエリシアを抱え、医務室へ向かった。
セリオスが待つ重症の医務室へ運び込まれた彼女の身体には、打撲と切り傷がいくつも残っていた。
闘技場には、倒れた時に飛び散った血と、誰も拾わない短剣だけが残された。




