第407話 燃やされた教科書
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴るまで、あと少し。
校舎の中には、午後の授業へ向かう生徒たちの足音が響いていた。食堂から戻ってくる者、友人と話しながら廊下を歩く者、次の教室へ急ぐ者。窓から差し込む午後の光が、磨かれた床に長い四角形を作っている。
エリシアはその流れに逆らわないよう、教室へ戻った。
午後の授業は歴史だった。必要な教科書は机の引き出しに入れてある。そう思いながら自分の席へ向かい、椅子を引いた。
ところが、引き出しを開けても教科書がない。
「あれ……?」
中にはノートと筆記具が入っている。教科書だけが見当たらなかった。
エリシアは引き出しの奥へ手を差し入れた。底に挟まっているのかもしれない。ノートを取り出して確かめ、筆記具を机の上へ並べてから、もう一度中を覗いた。
何もない。
机の下に落ちたのだろうか。椅子を引き、床を確かめる。隣の机との隙間にも、足元にも、教科書はなかった。
前は水で濡らされていた。その次は、教室の隅に隠されていた。
今回もまた、教室のどこかに隠されたのだろう。
エリシアはまず、自分の席の周りを探した。机の脚の陰、窓際に置かれた棚の下、教卓の脇。誰かが見えにくいところへ押し込んだのなら、授業が始まる前に見つけたい。
教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。数人は談笑を続け、別の生徒は窓辺で髪を整えている。エリシアが床に目を向けて探していても、誰も声をかけなかった。
視線を感じて顔を上げると、こちらを見ていた生徒がすぐに友人へ向き直る。笑い声が聞こえた気がしたが、何を話しているのかまでは分からなかった。
エリシアは唇を結び、棚の奥を覗き込んだ。
やはり、ない。
授業開始まで、もう時間がなかった。先生に事情を話すべきかとも思ったが、教科書がない理由をどう説明すればよいのか分からない。前に濡らされた時も、隠された時も、誰がしたのか分からなかった。先生に伝えても、証拠がないままでは、きっと困らせてしまう。
それに、また周囲の注目を集めるのは避けたかった。
エリシアは席を離れ、廊下へ出た。
教室の外は、次の授業へ向かう生徒たちで混み合っていた。階段を上がる足音や、扉の開閉する音が絶え間なく続く。エリシアは人の流れを避け、廊下の壁沿いを歩いた。
教科書を最後に使ったのは午前の歴史の授業だった。終わった後は、次の教室へ移動するため、机の引き出しにしまった。誰かが席を離れた間に持ち出したのだろうか。それとも、教室へ戻る前に別の場所へ隠されたのか。
考えても答えは出なかった。
まずはもう一度、教室の外も探してみよう。移動教室の途中で落としたのなら、廊下や階段に残っているかもしれない。
エリシアは、午前中に通った道をたどり始めた。
教室の扉を出て、廊下を右へ進む。窓辺には、鉢植えの花が並んでいた。淡い紫色の花弁が午後の光を受けて透けて見える。窓の向こうでは中庭の噴水が水を弾き、石畳の広場を歩く生徒たちの姿が見えた。
教科書が落ちていれば、誰かが拾って届けてくれているかもしれない。
そう思って廊下の端まで行ったが、落とし物はなかった。階段の踊り場も確かめた。手すりの陰にも、壁際にも、それらしいものはない。
図書室へ向かう廊下に差しかかったところで、エリシアは足を止めた。
焦げた匂いがする。
最初は、どこかで暖炉でも使っているのかと思った。けれど、学園の廊下に暖炉はない。匂いは弱いが、確かに紙が焦げるような臭気だった。
風が窓の隙間から入り、黒いものをひとつ、床の上へ運んできた。
エリシアはしゃがみ込む。
薄い紙片だった。端は縮れ、黒く炭化している。触れると崩れそうで、指を伸ばしかけて止めた。
風は校舎の裏手から吹いてくる。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
エリシアは立ち上がり、廊下の突き当たりへ向かった。そこには普段あまり使われない扉がある。扉の向こうは校舎の裏手へ続く細い通路で、備品を運ぶときや、庭師が道具を出し入れする時に使われていた。
扉を押すと、蝶番が小さく軋んだ。
裏手の通路は、表の廊下よりずっと静かだった。石造りの壁は日陰になっていて、午後になってもひんやりしている。片側には用具入れが並び、反対側には中庭を囲む植え込みが続いていた。生徒が通ることは少なく、掃除用具を持った職員が時折行き来するくらいだ。
焦げた匂いは、奥から漂っていた。
エリシアは、足音を忍ばせて進む。
植え込みの終わりを曲がると、古い焼却炉が見えた。学園では今も紙くずなどを処分するために使われているが、日常的に火が入っているわけではない。石造りの炉は壁際に据えられ、煙突の先は校舎の屋根より低い位置に伸びている。
その前の石畳に、黒く焦げたものが散らばっていた。
エリシアは息を呑んだ。
焼けた紙の端が風に揺れている。灰は石の隙間に溜まり、まだ熱の残る小さな火が、紙の切れ端を赤く照らしていた。
そのすぐそばに、表紙の一部が落ちている。
見覚えのある深い青色。表紙の右下には、名前を書いた札が貼られていた。焦げて文字の一部は読めなくなっているが、そこに記された自分の名前は分かった。
エリシアの教科書だった。
「どうして……」
声が、かすれて喉から漏れた。
近づいて拾い上げる。指先に灰がついた。表紙は半分以上黒く変色し、ページは熱で波打って固まっている。端のほうには、まだ小さな火がくすぶっていた。
エリシアは、袖で火を払い落とした。
熱はほとんど残っていなかった。けれど、紙に触れた途端、ページの端がぼろりと崩れ、灰になって足元へ落ちた。
もう読めない。
授業で何度も開いたページも、書き込みを重ねた余白も、すべて焦げていた。折り目のついた箇所も、重要なところに挟んでいた紙片も、焼け跡の中に埋もれている。
教室で探していた時には、まさかこんなことになっているとは思わなかった。
今回も、隠されているのだろう。そう思って、机の下や棚の陰を探した。だが、教科書は隠されていたのではなく、ここへ持ち出され、燃やされていた。
誰がやったのか、エリシアには分からない。
焼却炉の周りには、今は誰もいなかった。通路の先にも、人影はない。聞き耳を立てても、聞こえるのは中庭から届く話し声と、植え込みを抜ける風の音だけだった。
誰かの顔が浮かびそうになって、エリシアは目を伏せた。
自分を避ける生徒は多い。けれど、誰が教科書を燃やしたのか、確かなことは何もない。問い詰めたところで、知らないと言われれば、それまでだろう。
焦げた教科書を抱えたまま、エリシアは焼却炉の前に立ち尽くした。
昼休みの喧騒は、ここまでは届かない。校舎の裏手には、普段の学園とは別の場所のような静けさがあった。石壁の影が足元に伸び、植え込みの葉が風に擦れて乾いた音を立てている。
エリシアは本を抱きしめた。
アレクやエドガーに相談すれば、きっと力になってくれる。二人は自分を見捨てないだろう。そう分かっているからこそ、話しづらかった。
二人と親しくしていることが原因で、嫌がらせがひどくなっている。
ここで二人に助けを求めれば、さらに目立ってしまうかもしれない。自分のために、二人が誰かと争うことになるかもしれない。
これ以上、巻き込みたくなかった。
そう考えた途端、胸に押し込めていたものが、堰を切ったようにあふれた。
エリシアは焼却炉から少し離れた壁際にしゃがみ込んだ。石壁は冷たく、制服越しに背中へ伝わってくる。膝の上には、焦げた教科書があった。
声を出さないように唇を結ぶ。
それでも、涙は頬を伝った。
泣いたところで、教科書は元に戻らない。授業が始まれば、また何事もなかったように教室へ戻らなければならない。
分かっている。
それでも、涙を止めることはできなかった。
どれほどそうしていたのか、背後から車輪の音が聞こえてきた。
石畳の上を、ゆっくりと荷車が進む音だった。
エリシアは慌てて袖で目元を拭いた。校舎裏の通用門は、荷物の搬入に使われることがある。学園の備品か、厨房へ届ける食材かもしれない。
誰かに泣いているところを見られたくなかった。立ち上がろうとしたが、脚にうまく力が入らない。
車輪の音は近づいてくる。
学園の職員なら、声をかければ事情を聞いてくれるかもしれない。けれど、今は誰にも説明したくなかった。
エリシアは焦げた教科書を胸に抱え、壁際に身を寄せた。
車輪の音が、通路の角で一度止まった。
それから、再び動き始める。
やがて、荷車を引く男が植え込みの角から姿を現した。
迷彩柄のフード付きマントをまとい、フードを深く被っている。顔の上部と髪は影に隠れ、白い肌の口元だけが覗いていた。小柄で華奢な体つきだったが、エリシアには荷車を引く男に見えた。
荷車には厚手の布がかけられていて、何を積んでいるのかは分からない。車輪の軸は古びているのか、進むたびにかすかな軋みを上げた。荷台の隅から、木箱の角らしきものが布を押し上げている。
学園の納入業者なら、正門から入るはずだった。
男は通用門の方から来たのだろうか。エリシアには、門が開く音も、誰かが確認する声も聞こえなかった。
エリシアは警戒して半歩後ずさった。
男は荷車を止めると、口元だけをこちらへ向けた。
「どうしたんだい?」
エリシアは、腕の中の焦げた教科書を抱え直した。
「いえ……何でもないです」
「そんな焼けた教科書持っていて、何でもないは無いかなー」
男の声は、どこか気の抜けた調子だった。問い詰めるというより、見たままを口にしたような響きがある。
エリシアは返事に迷った。
焼けた本を見られている。隠すことはできない。それでも、事情を話す気にはなれなかった。
「これは……」
言葉がそこで途切れる。
男は荷車の柄から手を離し、エリシアの腕に抱かれた教科書を見た。フードの影から目元は見えない。口元も、笑っているのかどうか判然としなかった。
「僕は“怪しい商人”。旅をしながら商品を扱っている商人さ」
「商人さん……? なんですか?」
「いや、別に。ここを通りかかっただけだよ」
男はそう言いながら、荷車の布を手で押さえた。隙間からは、木箱や布包みがいくつか見える。何を売っているのかは分からない。商人を名乗ってはいるが、学園の裏手を荷車で通りかかる理由も、エリシアには思い当たらなかった。
男は、焦げた本をもう一度見た。
「そうだ。ここで会ったのも何かの縁だし、これをあげるよ」
そう言って、怪しい商人は荷車の布をめくった。
荷台には、古い本や小さな箱、用途の分からない金属部品が雑然と積まれていた。男はその中から一冊を選び、埃を払ってエリシアへ差し出した。
使い古された教科書だった。
表紙は擦り切れ、角も丸くなっている。背表紙には細かなひびが入り、ページの端も少し黄ばんでいた。何度も誰かの手に渡り、読み返されてきたのだろう。
けれど、ページはきれいに揃っている。大きな破れも、焦げ跡もなかった。
エリシアは、男と本を交互に見た。
「これを……いただいてもいいんですか?」
「うん。僕にはもう必要ないからね」
「でも、どうして……」
「ここで会ったのも何かの縁だよ。商人は縁を大事にしないと」
男は教科書を差し出したまま、エリシアの返事を待っていた。
エリシアは、焦げた本へ目を落とした。
これがなければ、午後の授業に教科書を持っていけない。先生に事情を話すにしても、代わりがなければ授業にも支障が出るだろう。
差し出された本は使い古されているが、授業で使うには十分に見えた。
エリシアは、そっと手を伸ばした。
「ありがとうございます……」
教科書を受け取る。表紙は少しざらついていたが、手の中に確かな重みがあった。
男は満足そうに頷いた。
「どういたしまして」
エリシアはもう一度、本の表紙を確かめた。題名は、学園で使っている教科書と同じだった。版は少し古いようだが、内容が大きく違うとは思えない。
「商人さん、本当に助かります」
「お礼はいいよ。それより、まだ授業があるんじゃないのかい?」
「あっ……そうでした」
遠くから、授業開始を告げる鐘の音が聞こえてきた。
校舎の表側では、廊下を急ぐ生徒たちの足音が重なっている。裏手にまで、教師が生徒を呼ぶ声がかすかに届いた。
エリシアは焦げた教科書を腕に抱え直し、新しくもらった本を大切に持った。
「これ、あとで返した方がいいでしょうか?」
「返さなくていいよ。僕にはもう必要ないものだから」
「でも……」
「気にしない、気にしない」
男は荷車の柄を握り直した。
「じゃあ、僕はこれで」
エリシアが礼を言う前に、男は荷車を引いて歩き出した。車輪が石畳の上で軋み、迷彩柄のマントが小道の先へ遠ざかっていく。
エリシアは、その背中をしばらく見送った。
小柄な男の姿は、植え込みの向こうで木々の影に溶けて見えなくなった。荷車の音も、少しずつ遠のいていく。
不思議な商人だった。
学園の裏手に現れたことも、古い教科書を持っていたことも、なぜ自分にそれを渡してくれたのかも、分からない。
けれど、手渡された教科書の重みが、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
エリシアは頬に残った涙を拭った。
焦げた教科書を先生に見せれば、誰がやったのか調べることになるかもしれない。けれど、相手が同じクラスなら貴族だ。問題が広がれば自分だけでは済む話ではない。
寮にいる自分には手を出せなくても、学園の外にいる母へ危害が及ぶ可能性はある。
それだけは、避けなければならなかった。
エリシアは焦げた教科書を抱え直し、新しくもらった本を胸元へ寄せた。誰にも話さず、何もなかったように教室へ戻ろう。
そう決めて、校舎の扉へ向かって歩き出した。




