↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
乙女ゲーの辺境伯に転生したので奴隷落ちする悪役令嬢を金貨2万枚で救おうと思います  作者: 蛙の子はお玉杓子
第10章 癒しの護り手と悪役令嬢

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

442/457

第407話 燃やされた教科書



 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴るまで、あと少し。


 校舎の中には、午後の授業へ向かう生徒たちの足音が響いていた。食堂から戻ってくる者、友人と話しながら廊下を歩く者、次の教室へ急ぐ者。窓から差し込む午後の光が、磨かれた床に長い四角形を作っている。


 エリシアはその流れに逆らわないよう、教室へ戻った。


 午後の授業は歴史だった。必要な教科書は机の引き出しに入れてある。そう思いながら自分の席へ向かい、椅子を引いた。


 ところが、引き出しを開けても教科書がない。


「あれ……?」


 中にはノートと筆記具が入っている。教科書だけが見当たらなかった。


 エリシアは引き出しの奥へ手を差し入れた。底に挟まっているのかもしれない。ノートを取り出して確かめ、筆記具を机の上へ並べてから、もう一度中を覗いた。


 何もない。


 机の下に落ちたのだろうか。椅子を引き、床を確かめる。隣の机との隙間にも、足元にも、教科書はなかった。


 前は水で濡らされていた。その次は、教室の隅に隠されていた。


 今回もまた、教室のどこかに隠されたのだろう。


 エリシアはまず、自分の席の周りを探した。机の脚の陰、窓際に置かれた棚の下、教卓の脇。誰かが見えにくいところへ押し込んだのなら、授業が始まる前に見つけたい。


 教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。数人は談笑を続け、別の生徒は窓辺で髪を整えている。エリシアが床に目を向けて探していても、誰も声をかけなかった。


 視線を感じて顔を上げると、こちらを見ていた生徒がすぐに友人へ向き直る。笑い声が聞こえた気がしたが、何を話しているのかまでは分からなかった。


 エリシアは唇を結び、棚の奥を覗き込んだ。


 やはり、ない。


 授業開始まで、もう時間がなかった。先生に事情を話すべきかとも思ったが、教科書がない理由をどう説明すればよいのか分からない。前に濡らされた時も、隠された時も、誰がしたのか分からなかった。先生に伝えても、証拠がないままでは、きっと困らせてしまう。


 それに、また周囲の注目を集めるのは避けたかった。


 エリシアは席を離れ、廊下へ出た。


 教室の外は、次の授業へ向かう生徒たちで混み合っていた。階段を上がる足音や、扉の開閉する音が絶え間なく続く。エリシアは人の流れを避け、廊下の壁沿いを歩いた。


 教科書を最後に使ったのは午前の歴史の授業だった。終わった後は、次の教室へ移動するため、机の引き出しにしまった。誰かが席を離れた間に持ち出したのだろうか。それとも、教室へ戻る前に別の場所へ隠されたのか。


 考えても答えは出なかった。


 まずはもう一度、教室の外も探してみよう。移動教室の途中で落としたのなら、廊下や階段に残っているかもしれない。


 エリシアは、午前中に通った道をたどり始めた。


 教室の扉を出て、廊下を右へ進む。窓辺には、鉢植えの花が並んでいた。淡い紫色の花弁が午後の光を受けて透けて見える。窓の向こうでは中庭の噴水が水を弾き、石畳の広場を歩く生徒たちの姿が見えた。


 教科書が落ちていれば、誰かが拾って届けてくれているかもしれない。


 そう思って廊下の端まで行ったが、落とし物はなかった。階段の踊り場も確かめた。手すりの陰にも、壁際にも、それらしいものはない。


 図書室へ向かう廊下に差しかかったところで、エリシアは足を止めた。


 焦げた匂いがする。


 最初は、どこかで暖炉でも使っているのかと思った。けれど、学園の廊下に暖炉はない。匂いは弱いが、確かに紙が焦げるような臭気だった。


 風が窓の隙間から入り、黒いものをひとつ、床の上へ運んできた。


 エリシアはしゃがみ込む。


 薄い紙片だった。端は縮れ、黒く炭化している。触れると崩れそうで、指を伸ばしかけて止めた。


 風は校舎の裏手から吹いてくる。


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 エリシアは立ち上がり、廊下の突き当たりへ向かった。そこには普段あまり使われない扉がある。扉の向こうは校舎の裏手へ続く細い通路で、備品を運ぶときや、庭師が道具を出し入れする時に使われていた。


 扉を押すと、蝶番が小さく軋んだ。


 裏手の通路は、表の廊下よりずっと静かだった。石造りの壁は日陰になっていて、午後になってもひんやりしている。片側には用具入れが並び、反対側には中庭を囲む植え込みが続いていた。生徒が通ることは少なく、掃除用具を持った職員が時折行き来するくらいだ。


 焦げた匂いは、奥から漂っていた。


 エリシアは、足音を忍ばせて進む。


 植え込みの終わりを曲がると、古い焼却炉が見えた。学園では今も紙くずなどを処分するために使われているが、日常的に火が入っているわけではない。石造りの炉は壁際に据えられ、煙突の先は校舎の屋根より低い位置に伸びている。


 その前の石畳に、黒く焦げたものが散らばっていた。


 エリシアは息を呑んだ。


 焼けた紙の端が風に揺れている。灰は石の隙間に溜まり、まだ熱の残る小さな火が、紙の切れ端を赤く照らしていた。


 そのすぐそばに、表紙の一部が落ちている。


 見覚えのある深い青色。表紙の右下には、名前を書いた札が貼られていた。焦げて文字の一部は読めなくなっているが、そこに記された自分の名前は分かった。


 エリシアの教科書だった。


「どうして……」


 声が、かすれて喉から漏れた。


 近づいて拾い上げる。指先に灰がついた。表紙は半分以上黒く変色し、ページは熱で波打って固まっている。端のほうには、まだ小さな火がくすぶっていた。


 エリシアは、袖で火を払い落とした。


 熱はほとんど残っていなかった。けれど、紙に触れた途端、ページの端がぼろりと崩れ、灰になって足元へ落ちた。


 もう読めない。


 授業で何度も開いたページも、書き込みを重ねた余白も、すべて焦げていた。折り目のついた箇所も、重要なところに挟んでいた紙片も、焼け跡の中に埋もれている。


 教室で探していた時には、まさかこんなことになっているとは思わなかった。


 今回も、隠されているのだろう。そう思って、机の下や棚の陰を探した。だが、教科書は隠されていたのではなく、ここへ持ち出され、燃やされていた。


 誰がやったのか、エリシアには分からない。


 焼却炉の周りには、今は誰もいなかった。通路の先にも、人影はない。聞き耳を立てても、聞こえるのは中庭から届く話し声と、植え込みを抜ける風の音だけだった。


 誰かの顔が浮かびそうになって、エリシアは目を伏せた。


 自分を避ける生徒は多い。けれど、誰が教科書を燃やしたのか、確かなことは何もない。問い詰めたところで、知らないと言われれば、それまでだろう。


 焦げた教科書を抱えたまま、エリシアは焼却炉の前に立ち尽くした。


 昼休みの喧騒は、ここまでは届かない。校舎の裏手には、普段の学園とは別の場所のような静けさがあった。石壁の影が足元に伸び、植え込みの葉が風に擦れて乾いた音を立てている。


 エリシアは本を抱きしめた。


 アレクやエドガーに相談すれば、きっと力になってくれる。二人は自分を見捨てないだろう。そう分かっているからこそ、話しづらかった。


 二人と親しくしていることが原因で、嫌がらせがひどくなっている。


 ここで二人に助けを求めれば、さらに目立ってしまうかもしれない。自分のために、二人が誰かと争うことになるかもしれない。


 これ以上、巻き込みたくなかった。


 そう考えた途端、胸に押し込めていたものが、堰を切ったようにあふれた。


 エリシアは焼却炉から少し離れた壁際にしゃがみ込んだ。石壁は冷たく、制服越しに背中へ伝わってくる。膝の上には、焦げた教科書があった。


 声を出さないように唇を結ぶ。


 それでも、涙は頬を伝った。


 泣いたところで、教科書は元に戻らない。授業が始まれば、また何事もなかったように教室へ戻らなければならない。


 分かっている。


 それでも、涙を止めることはできなかった。


 どれほどそうしていたのか、背後から車輪の音が聞こえてきた。


 石畳の上を、ゆっくりと荷車が進む音だった。


 エリシアは慌てて袖で目元を拭いた。校舎裏の通用門は、荷物の搬入に使われることがある。学園の備品か、厨房へ届ける食材かもしれない。


 誰かに泣いているところを見られたくなかった。立ち上がろうとしたが、脚にうまく力が入らない。


 車輪の音は近づいてくる。


 学園の職員なら、声をかければ事情を聞いてくれるかもしれない。けれど、今は誰にも説明したくなかった。


 エリシアは焦げた教科書を胸に抱え、壁際に身を寄せた。


 車輪の音が、通路の角で一度止まった。


 それから、再び動き始める。


 やがて、荷車を引く男が植え込みの角から姿を現した。


 迷彩柄のフード付きマントをまとい、フードを深く被っている。顔の上部と髪は影に隠れ、白い肌の口元だけが覗いていた。小柄で華奢な体つきだったが、エリシアには荷車を引く男に見えた。


 荷車には厚手の布がかけられていて、何を積んでいるのかは分からない。車輪の軸は古びているのか、進むたびにかすかな軋みを上げた。荷台の隅から、木箱の角らしきものが布を押し上げている。


 学園の納入業者なら、正門から入るはずだった。


 男は通用門の方から来たのだろうか。エリシアには、門が開く音も、誰かが確認する声も聞こえなかった。


 エリシアは警戒して半歩後ずさった。


 男は荷車を止めると、口元だけをこちらへ向けた。


「どうしたんだい?」


 エリシアは、腕の中の焦げた教科書を抱え直した。


「いえ……何でもないです」


「そんな焼けた教科書持っていて、何でもないは無いかなー」


 男の声は、どこか気の抜けた調子だった。問い詰めるというより、見たままを口にしたような響きがある。


 エリシアは返事に迷った。


 焼けた本を見られている。隠すことはできない。それでも、事情を話す気にはなれなかった。


「これは……」


 言葉がそこで途切れる。


 男は荷車の柄から手を離し、エリシアの腕に抱かれた教科書を見た。フードの影から目元は見えない。口元も、笑っているのかどうか判然としなかった。


「僕は“怪しい商人”。旅をしながら商品を扱っている商人さ」


「商人さん……? なんですか?」


「いや、別に。ここを通りかかっただけだよ」


 男はそう言いながら、荷車の布を手で押さえた。隙間からは、木箱や布包みがいくつか見える。何を売っているのかは分からない。商人を名乗ってはいるが、学園の裏手を荷車で通りかかる理由も、エリシアには思い当たらなかった。


 男は、焦げた本をもう一度見た。


「そうだ。ここで会ったのも何かの縁だし、これをあげるよ」


 そう言って、怪しい商人は荷車の布をめくった。


 荷台には、古い本や小さな箱、用途の分からない金属部品が雑然と積まれていた。男はその中から一冊を選び、埃を払ってエリシアへ差し出した。


 使い古された教科書だった。


 表紙は擦り切れ、角も丸くなっている。背表紙には細かなひびが入り、ページの端も少し黄ばんでいた。何度も誰かの手に渡り、読み返されてきたのだろう。


 けれど、ページはきれいに揃っている。大きな破れも、焦げ跡もなかった。


 エリシアは、男と本を交互に見た。


「これを……いただいてもいいんですか?」


「うん。僕にはもう必要ないからね」


「でも、どうして……」


「ここで会ったのも何かの縁だよ。商人は縁を大事にしないと」


 男は教科書を差し出したまま、エリシアの返事を待っていた。


 エリシアは、焦げた本へ目を落とした。


 これがなければ、午後の授業に教科書を持っていけない。先生に事情を話すにしても、代わりがなければ授業にも支障が出るだろう。


 差し出された本は使い古されているが、授業で使うには十分に見えた。


 エリシアは、そっと手を伸ばした。


「ありがとうございます……」


 教科書を受け取る。表紙は少しざらついていたが、手の中に確かな重みがあった。


 男は満足そうに頷いた。


「どういたしまして」


 エリシアはもう一度、本の表紙を確かめた。題名は、学園で使っている教科書と同じだった。版は少し古いようだが、内容が大きく違うとは思えない。


「商人さん、本当に助かります」


「お礼はいいよ。それより、まだ授業があるんじゃないのかい?」


「あっ……そうでした」


 遠くから、授業開始を告げる鐘の音が聞こえてきた。


 校舎の表側では、廊下を急ぐ生徒たちの足音が重なっている。裏手にまで、教師が生徒を呼ぶ声がかすかに届いた。


 エリシアは焦げた教科書を腕に抱え直し、新しくもらった本を大切に持った。


「これ、あとで返した方がいいでしょうか?」


「返さなくていいよ。僕にはもう必要ないものだから」


「でも……」


「気にしない、気にしない」


 男は荷車の柄を握り直した。


「じゃあ、僕はこれで」


 エリシアが礼を言う前に、男は荷車を引いて歩き出した。車輪が石畳の上で軋み、迷彩柄のマントが小道の先へ遠ざかっていく。


 エリシアは、その背中をしばらく見送った。


 小柄な男の姿は、植え込みの向こうで木々の影に溶けて見えなくなった。荷車の音も、少しずつ遠のいていく。


 不思議な商人だった。


 学園の裏手に現れたことも、古い教科書を持っていたことも、なぜ自分にそれを渡してくれたのかも、分からない。


 けれど、手渡された教科書の重みが、少しだけ心を落ち着かせてくれた。

 エリシアは頬に残った涙を拭った。


 焦げた教科書を先生に見せれば、誰がやったのか調べることになるかもしれない。けれど、相手が同じクラスなら貴族だ。問題が広がれば自分だけでは済む話ではない。

 寮にいる自分には手を出せなくても、学園の外にいる母へ危害が及ぶ可能性はある。

 それだけは、避けなければならなかった。


 エリシアは焦げた教科書を抱え直し、新しくもらった本を胸元へ寄せた。誰にも話さず、何もなかったように教室へ戻ろう。

 そう決めて、校舎の扉へ向かって歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。