第398話 新しい名前
出産から二週間が過ぎた。
リディアは、王都北部の診療所にある病室で、腕の中の赤子を見つめていた。
あの日、出産を終えたリディアは意識を失いかけていた。顔色は悪く、呼吸も浅かった。エリシアが回復魔法を使ったことで、リディアの顔には多少血の気が戻り、呼吸も落ち着いた。それでも危険な状態は続き、医師と助産師の看護を受けるため、そのまま診療所に留まることになった。
診察や薬、食事など、母子の療養にかかる費用はすべてアレクが負担した。二週間の看護を経て、リディアの体調は順調に回復していた。赤子もよく乳を飲み、穏やかに眠っている。
その朝、医師が助産師とともに病室を訪れた。リディアの脈や顔色を確認し、赤子の呼吸や肌の色も丁寧に診ていく。
「母子ともに状態は安定しています。出産時の危険な状態からは回復しました」
医師の言葉に、リディアは安堵の息をついた。
「ありがとうございます」
「ただ、産後の身体への負担を考えれば、本来はもう少しここで休んでいただきたいところです。体力が完全に戻ったわけではありませんし、長旅で疲労が出る可能性もあります」
リディアは赤子を抱き直した。
「それでも、王都を離れなければならない事情がございます」
「伺っています。ここに留まることが安全とは限らないのであれば、移動を止め続けることもできません」
医師は助産師と目を交わしてから、慎重に続けた。
「馬車の揺れを抑え、途中で十分に休憩を取ること。体調に変化があれば、予定を変えてでも近くの診療所で診察を受けること。それを守れるなら、明朝の出発を認めます」
「分かりました。必ず守ります」
「到着後も、しばらくは安静にしてください。赤子の世話以外で無理に動く必要はありません」
「はい。ありがとうございます」
医師は、出発を許可したからといって、旅に危険がないわけではないと念を押した。リディアはその言葉を受け止め、深く頭を下げる。
診察を終えた医師は、診療所の事務室からセリオスへ連絡を入れた。母子の状態と、翌朝の出発を認めたこと、道中で注意すべき点を伝えるためだった。
セリオスは連絡を受けると、王城へ使いを出し、アレクへ知らせた。
アレクは王城で、父である国王に冒険者登録をしたいと申し出るため、時間を取っていた。セリオスからの報告を受けると、書類から顔を上げる。
「母子の状態は安定しています。ただ、産後の負担を考えれば、医師としてはもう少し休ませたいとのことでした。事情を踏まえ、道中で十分に休むことを条件に、明朝の出発を認めたそうです」
「分かった。馬車と護衛の手配は済んでいる。医師からの注意事項を同行者にも伝えておこう」
「途中の宿にも、休める部屋を用意してあります」
「食事と薬も確認してくれ。予定どおり進めることより、母子の体調を優先する」
「承知しました」
アレクは馬車の責任者へ出発時刻と休憩場所を再確認させた。揺れの少ない馬車を使い、リディアが横になれる場所を確保する。道中で体調が悪くなった場合には、予定を変えて休ませるよう指示した。
旅の支度は、その日のうちに整えられた。
赤子の肌着や布、リディアの着替え、薬と水。必要なものはアレクが手配し、途中の宿にも母子が休める部屋を確保した。
リディアは、眠る赤子を見つめながら荷物が整うのを待った。
王都に来た時、彼女は身重の身体で逃げるように歩いていた。頼れる人もなく、明日をどう過ごすかさえ分からなかった。
今は腕の中に赤子がいる。そして、二人を受け入れてくれるという人のもとへ向かう準備が進んでいた。
「これから、どんな暮らしになるのかしらね」
リディアは赤子の頬をそっと撫でる。
「大丈夫よ。あなたのことは、私が守るから」
赤子は眠ったまま、小さな口を動かした。
翌朝、空が白み始めた頃、馬車は診療所の裏手へ到着した。
人目につきにくいよう、出発は早朝に決められていた。診療所の正面では、すでに患者が訪れ始めている。裏口にいるのは、旅の支度を整える従者と護衛、それにセリオスだけだった。
アレクは王城に残っていた。国王に冒険者登録の希望を伝えるため、朝から謁見の時間を取っていたのだ。診療所へ見送りに来ることはできなかったが、馬車や護衛、道中の宿の手配を済ませ、医師の注意事項も同行者に伝えてあった。
リディアは赤子を抱き、助産師に支えられながら病室を出た。長旅でも身体を締めつけない服を身につけ、茶色の髪は後ろで簡単にまとめている。顔色は出産直後に比べれば戻っていたが、歩みは慎重だった。
「少しでも具合が悪くなったら、すぐに休んでください」
セリオスが念を押す。
「はい。医師にも同じことを言われました」
「薬は付き添いの方にも説明してあります。何かあれば、遠慮なく申し出てください」
「本当にありがとうございました。皆様のおかげで、この子と一緒にここを出られます」
「無事に目的地へ着くことが何よりです。到着後も、どうか身体をいたわってください」
リディアは深く頭を下げた。
助産師と付き添いの女性に支えられ、赤子を抱いたまま馬車へ乗り込む。座席には厚い敷物が敷かれ、横になれるよう広く整えられていた。赤子を寝かせる籠も、すぐ手の届く場所に固定されている。
「道中は急がず進んでください。予定より遅れても構いません」
セリオスが御者へ伝えた。
「承知いたしました」
馬車の扉が閉じられる前、リディアは診療所の人々へもう一度頭を下げた。
「お世話になりました。皆様のご厚意を忘れません」
「どうかお大事に」
助産師が答える。
扉が閉じ、御者が手綱を握り直した。馬車は静かに動き出す。
窓の外には、まだ目覚めきらない王都の街並みが広がっていた。店の戸は閉じられ、人通りも少ない。見慣れた建物が、少しずつ後ろへ流れていく。
リディアは赤子を腕の中に抱き直した。
王都へ来た時、彼女は逃げることだけを考えていた。妊娠が分かった頃から、中立派の穏健派に属する家々の立場は不安定になり、周囲にも不穏な話が広がり始めていた。子どもを守るため、リディアは侍女として仕えていた家を離れた。
生計を立てるため、娼館で床前の娼婦として働いた。客と性交渉をするのではなく、口や手で客をもてなす仕事だった。けれど、妊娠が分かってからは続けられなくなり、やがて北のスラム街で出産の日を迎えた。
あの日、自分を救ってくれた少女の顔が浮かぶ。
エリシアは、魔力が尽きかけていることも顧みず、リディアを治療し続けた。顔色は青白く、今にも倒れそうだった。それでも赤子が生まれると、笑顔で抱き上げ、リディアのもとへ連れてきてくれた。
馬車は東門を通り抜け、王都の外へ出た。
街並みが少しずつ遠ざかる。屋根が見えなくなり、城壁も後ろへ流れていった。やがて王都の景色は、窓から見えなくなる。
その頃、東の空が明るくなり始めていた。
雲の端が淡い橙色に染まり、朝日が地平線から姿を現す。柔らかな光が馬車の窓から差し込み、リディアの腕の中にいる赤子を照らした。
赤子が、ゆっくりと目を開けた。
その瞳は、血のように鮮やかな紅色だった。
リディアは思わず息を止めた。朝焼けを映した紅い瞳が、彼女を見つめている。小さな手が動き、リディアの服を握った。
「まあ……」
リディアの頬に、笑みが浮かんだ。
赤子の髪は、リディアと同じ茶色をしている。その顔を見つめていると、出産の日に自分へ手を伸ばした少女の姿が、改めて胸によみがえった。
平民や爵位の低い貴族の間には、尊敬する人や恩人の名を子どもへ贈る風習がある。名をもらった子が、その人のように誰かを助け、まっすぐに生きてほしいという願いを込めるのだ。
リディアは赤子の頬を撫でた。
「あなたの名前は、エリシア」
赤子は応えるように、小さな声を上げた。
「あなたを助けてくれた人の名前よ。いつか大きくなったら、その人のことを話してあげるわ」
朝日が馬車の中を満たしていく。
王都の街並みは、もう見えない。
リディアは赤子を胸元へ抱き寄せ、名をもう一度呼んだ。
「エリシア」
馬車は朝焼けの道を、北へ向けて進んでいった。




