第397話 夕暮れの片付け
診療所の窓から差し込む夕日が、白い壁を赤く染めていた。
出産を終えたリディアは、助産師の付き添いで休める部屋へ移っていた。赤子も無事だった。けれど、診療所にはまだ診察を待つ患者が残っている。出産に人手が割かれていた間、順番を待ち続けていた人々だ。
廊下では医師や助手たちが忙しく行き来し、患者を呼ぶ声が途切れず聞こえてくる。診療はまだ続いていた。
リディアの休む部屋には、アレクとセリオス、そしてエリシアがいた。エリシアは椅子に腰掛け、疲れた身体を休めている。顔色はまだ青白かったが、意識ははっきりしていた。
「王都に残るのは危険だ。私の信頼する知人のもとで、侍女として働けるよう、私から頼むことができる」
アレクはリディアの様子を確かめながら話した。
「その方の領地は王都からかなり離れている。だが、王城にいるよりは、母子の存在を知られずに暮らせる可能性が高い」
リディアは、腕の中で眠る赤子へ目を落とした。布に包まれた小さな身体が、寝息に合わせてわずかに動いている。
「殿下のおそばに置いていただくことは、できないのでしょうか」
リディアはためらいながら尋ねた。
「殿下が守ってくださるのなら、この子も安全なのではありませんか」
「私が守ると約束すれば、今は安心できるかもしれない。だが、王城に置けば、王族の庇護を受けていると知られる。そうなれば、この子の魔力量に興味を持つ者も現れるだろう」
リディアの腕に力がこもった。
「王城にいることで、かえって多くの目を集める。だから、王都から離れた場所を勧めているんだ」
リディアは視線を落とした。彼女はかつて、貴族家に仕える侍女だった。妊娠を機に身を隠し、王都の北にある娼館で床前の娼婦として働いてきた。床前の娼婦は客と性交渉をせず、口や手で相手をする。だが、娼館で働いていたという過去を知られれば、侍女として迎えることをためらう者もいるかもしれない。
リディアは、膝の上で赤子を抱く手を見つめた。
「私は床前の娼婦として働いていました。そのような私でも、本当にその方の侍女として迎え入れていただけるのでしょうか?」
「はい。あの方なら、あなたと赤子を受け入れてくださると思います」
セリオスは迷いなく答えた。
「散々仕事を押し付けられたんだ。これくらい頼んでも、断ることはないだろう」
アレクが少し愚痴をこぼすと、セリオスは知人の顔を思い浮かべたように微笑んだ。
「今はかなり忙しい時期です。過労で倒れないか心配になりますね」
リディアは二人のやり取りを不思議そうに見た。相手がどのような人物なのかは分からない。それでも、二人がその知人を信頼していることは伝わってきた。
「ですが、急いで頼みを出さなければなりません。相手は王都からかなり離れた場所にいます。返事が届くまでにも時間がかかります」
アレクは急かすようで申し訳ないと前置きしてから続けた。
「今ここで決めてほしい。産後の疲れもあるだろう。医師が移動しても問題ないと判断したら、できるだけ早く向かった方がいい。馬車も旅費も私が責任を持つ。母子が無理なく過ごせるものを用意し、目的地まで安全に送り届けると誓おう」
リディアは赤子の顔を覗き込んだ。
王都に留まれば、いつ誰に見つかるか分からない。自分だけなら、どのような場所でも生きていける。けれど、この子まで危険にさらすわけにはいかなかった。
「……分かりました。お願いしてもよろしいでしょうか」
「ああ。すぐに手紙を出す」
「ありがとうございます、殿下。セリオス様も、本当にありがとうございます」
リディアは深く頭を下げた。
助産師が赤子を抱く腕を支え、横になれるよう寝台へ案内する。リディアは赤子を胸元に抱いたまま、ゆっくりと身体を横たえた。
アレクとセリオスが部屋を出る。廊下には、患者を呼ぶ声や足音が絶えず響いていた。
炊き出しに使った鍋や食器は、診療所の外にある作業場へ運ばれていた。夕日が傾いても、片付けは終わっていない。
エドガーは木椀をまとめて籠へ入れ、水桶のそばへ運んでいた。使った器は多く、鍋や布巾も洗わなければならない。診療所の中では医師たちがまだ患者を診ていた。出産対応で人手が割かれていた間に、診察を待つ人が増えていたのだ。
エドガーは桶の水を替えようと、両手で持ち上げた。診療所の扉が開き、アレクが姿を見せる。
エドガーはすぐに桶を置き、片膝をついて頭を下げた。
「殿下」
「顔を上げてくれ。ここでは患者や職員の邪魔にならないようにしてくれればいい」
「はい」
エドガーが立ち上がると、アレクの後ろからエリシアが出てきた。顔色はまだ青白く、足取りも重そうに見える。
「エリシア、大丈夫か?」
「少し休んだので大丈夫です。片付けを手伝いますね」
エリシアは笑顔を作ったが、頬にはあまり力が入っていなかった。
セリオスも廊下から出てくる。
「エリシアさんは、診療所ではなく炊き出しの片付けをお願いします」
「でも、まだ診てもらえていない方がいますよね。私にもできることがあれば――」
「いけません」
セリオスの声が、いつもより厳しく響いた。
エリシアは口を閉じる。
「あなたは、私が止めたにもかかわらず、リディアさんを助けようと限界まで魔法を使いました。診療所に残して、また危険な患者を見つけたら、私を無視して魔法を使うでしょう」
エリシアはすぐに答えられなかった。
リディアを助けたかった。赤子のためにも、母親を死なせたくなかった。その一心で、セリオスに止められても魔法を使い続けた。結果としてリディアは助かったが、自分の魔力は枯渇しかけていた。
「……申し訳ありません」
「謝罪より、今は指示に従ってください。診療所の患者は私や医師と助産師に任せましょう。あなたには片付けをお願いします。魔法は使わないこと。重いものも持たないでください」
「分かりました」
セリオスはアレクへ向き直った。
「殿下。エリシアさんが診療所へ戻って無理をしないよう、見ていていただけますか」
「分かりました。私が見ておきます」
アレクはエリシアへ視線を向けた。
「特待生、具合が悪くなったらすぐに言うんだぞ?」
「はい、殿下」
エリシアは炊き出しの作業場へ向かった。アレクはその後ろについていく。
エドガーは二人を見送ってから、セリオスに視線を戻した。
「殿下がエリシアの付き添いをするんですね」
「彼女が再び無理をしないよう、お願いしました」
セリオスはそう答え、診療所へ戻っていった。
作業場では、使い終えた木椀や皿が長机の上に積まれていた。エリシアは片付けを始めようとしたが、アレクが近くの椅子を引き寄せる。
「まず座れ」
「でも、片付けが残ってるよ」
「セリオス枢機卿の指示を聞いていただろう。重いものは持つなと言われた」
「木椀を拭くくらいなら大丈夫」
アレクは一度、エリシアの顔色を確かめた。
「少し休んでからだ。具合が悪くなったら、すぐ言うんだぞ」
「分かった」
エリシアは椅子に腰を下ろした。
エドガーは机の上の椀を籠へ移し、水桶のそばへ運ぶ。アレクは布巾を手に取り、机を拭き始めた。
「殿下も片付けを手伝ってくださるんですか?」
「ここまで来て、何もしないわけにもいかないだろ」
アレクは布巾を動かしながら答えた。
「それに、エリシアが無理をしないように見ていないといけない」
「見張られているみたいで、少し落ち着きません」
「無理をされるよりはいい」
エリシアは小さく笑った。作ったものではなく、少し気が緩んだような笑みだった。
エドガーはその表情を見て、成人の儀の時を思い出した。
あの時、エリシアは自分の火傷を治してくれた。平民も貴族も関係なく、目の前で苦しんでいる者を助けた。暴発を起こした自分にさえ、ためらわず手を差し伸べてくれた。
その後、学園で何度か声を掛けようと思ったことがある。だが、自分が話しかければ、エリシアに余計な視線が集まるのではないか。彼女への風当たりが強くなるのではないか。そう考えて、いつも足を止めてしまった。
今も、どんな言葉を掛ければよいのか分からない。
エドガーが迷っていると、エリシアがこちらを見た。
「エドガーさん、そちらの籠を運んでもらえますか?」
「ああ。分かった」
エドガーは籠を持ち上げた。
「エリシア、さっきのことを聞いてもいいか?」
「さっきのこと?」
「診療所でセリオス枢機卿に止められていた。かなり無理をしたんだろ」
エリシアは手元の布巾を見つめた。
「妊婦の患者さんが危険な状態だったので。助けたくて、つい……」
「また同じことをするつもりか?」
責めるつもりはなかった。だが、思ったよりも強い声になっていた。
エリシアは少しだけ目を伏せる。
「分かりません。目の前で苦しんでいる人がいたら、何もしないではいられないと思います」
エドガーは、成人の儀の光景を思い返した。傷ついた子どもたちへ駆け寄り、次々と治療を続けた姿。最後には、魔法を暴発させた自分まで跡ひとつ残さず治した。
「助けたいと思うのは分かる。でも、エリシアが倒れたら、助けられる人も助けられなくなる」
「はい。セリオス様にも言われました」
「なら、今日はちゃんと言うことを聞いた方がいい」
「今日は片付けだけにします」
エリシアは小さく頷いた。
アレクが机を拭き終え、エドガーに声を掛ける。
「エドガー、その籠を入口の横へ運んでくれ」
「承知しました」
エドガーは籠を持ち上げた。アレクが近くにいたので、片膝をつこうとする。だが、アレクは手で制した。
「今は片付けの最中だ。立ったままでいい」
「しかし……」
「ここでは、手を貸してくれている一人として頼んでいる」
エドガーは一瞬、返事に迷った。
「分かりました」
籠を運び終えて戻ると、エリシアは椅子に座ったまま木椀を布で拭いていた。重いものには触れず、セリオスの指示を守っている。
診療所の中から患者を呼ぶ声が聞こえた。医師や助産師たちは出産対応の後も診療を続けている。診察を待つ人々も、順番に中へ案内されていた。
外では、三人が残った道具を片付けていく。
日が沈むにつれ、炊き出し場の人影は少しずつ減っていった。使った器も、鍋も、布巾も、片付けの終わりが見えてくる。
エリシアは何度か診療所の扉へ目を向けた。そのたびにアレクが気づき、彼女の様子を確かめる。エリシアは視線を戻し、椅子に座り直した。
やがて片付けが終わった。辺りはすっかり暗くなり、診療所の中ではまだ最後の患者たちの診察が続いている。
アレクが手配した馬車が、診療所の前へ到着した。
「エリシアとエドガーは、一緒に馬車で送ろう。もう夜も遅い」
「大分良くなりましたので、歩いて帰れます」
エリシアが言うと、アレクは首を横に振った。
「特待生、王都とはいえ夜道は危険だ。それに、セリオス枢機卿にも君を頼まれている」
「ですが……」
「恐れ多いです、殿下。私は歩いて帰りますので」
エドガーも辞退した。
行きは馬車を頼んでいた。貴族の子として、人前で徒歩で現れるのは避けたかったからだ。けれど、支払えたのは片道分の運賃だけだった。エドガーは帰りを歩くつもりでいた。
「エドガーも遠慮する必要はない。二人とも馬車に乗ってくれ」
「しかし、殿下の馬車に同乗するなど……」
「今日は一緒に手伝ってくれた仲間だ。身分を気にすることはない」
エリシアもエドガーへ顔を向けた。
「一緒に帰りましょう。私も乗せてもらいますので」
断る理由を探すように、エドガーは一瞬だけ視線を泳がせた。
「……では、お言葉に甘えます。ありがとうございます、殿下」
三人は馬車に乗り込んだ。
走り出した馬車の窓から、炊き出しに並んでいた人々が見えた。食事を受け取った者たちは、それぞれの家路についている。幼い子どもの手を引いて歩く人も、薄暗い路地へ消えていく人もいた。
アレクは窓の外を見つめていた。
「私は、この王都のことを分かったつもりでいたのだな」
エリシアも窓の外へ目を向けた。
「私も、王都の北門の近くまで来たのは初めてでした。あのような場所があることは聞いていましたが、実際に見るのは初めてです」
「王城から報告を受けていても、実際に見るのとは違う。今日見たことを忘れないようにしなければな」
アレクの声には、率直な思いがにじんでいた。
しばらくして、アレクはエドガーへ視線を向けた。
「エドガー、今日はありがとう。炊き出しの準備から片付けまで、かなり助かったと皆が言っていたぞ」
「もったいないお言葉です、殿下」
「今日はゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます」
エドガーは頭を下げた。
アレクは、その様子を見てから尋ねる。
「エドガー、そんなに生活に困るほどなのか?」
エドガーは一瞬、言葉に詰まった。
「先ほど、帰りは歩いて帰ると言っていた。馬車を断る理由が、用事だけではないように見えた」
エドガーは窓の外へ目を向けた。話すべきか迷う。だが、アレクは問い詰めるような顔をしていなかった。ただ事情を知ろうとしているようだった。
「……父は、準男爵から男爵に上がる予定でした。近衛騎士隊長への昇進も決まるはずだったんです」
エドガーは膝の上で手を組んだ。
「その見込みで私はAクラスに入りました。授業料も男爵家としての額を納めることになっています」
アレクは黙って耳を傾けていた。
「ですが、私が起こした問題のせいで父は降格されました。家は準男爵ではなく騎士爵となり、当然、給金も下がっています。授業料を払うのも、これからは簡単ではありません」
「自分のせいだと思っているのか?」
「事実です。あの時、私が魔法を暴発させなければ、父が責任を問われることもありませんでした」
エドガーの声が少し沈む。
「だから、短期間でも冒険者として稼ごうと思っています。授業のない日や放課後に依頼を受ければ、少しは家計の足しになるはずです」
エリシアが、はっとしたように顔を上げた。
「冒険者として働くんですか?」
「ああ。危険な依頼は受けないつもりだ。薬草採取や荷物運びなら、今の俺でもできる」
エリシアは考え込むように視線を落とした。
実技の授業で攻撃魔法を使えず、冒険者として活動するにも自分に何ができるのか分からない。けれど、治癒魔法なら使える。怪我をした人を治すこともできる。
「私も、冒険者の仕事について知りたいです。治癒魔法以外にできることがないか探してて。冒険者の依頼の中には、私にもできるものがあるかもしれない」
「エリシアも冒険者に興味があるのか?」
「はい。まだ、何ができるか分からないけど」
アレクは二人を順に見た。
「それなら、俺もその話に乗る」
「殿下もですか?」
エドガーが驚いて尋ねた。
「ああ。今日、王都のことを分かったつもりでいたと気づいた。炊き出しに参加しただけでは、まだ見えていないものがある。冒険者として街の人たちと関われば、別のことも分かるかもしれない」
「ですが、殿下が冒険者になるのは……」
「すぐに何をするか決めるわけじゃない。まずは、どんな仕事があるのか調べよう。登録や活動の方法も確認する必要がある」
アレクは窓の外へ目を戻した。
「二人だけで無理をするつもりなら止める。俺も一緒に動くなら、できることがあるはずだ」
エリシアは、思いがけない申し出に目を瞬かせた。
「殿下と一緒に冒険者の仕事を調べられるの?」
「俺も話に乗ると言っただろう」
エリシアの表情に、少しずつ明るさが戻っていく。
エドガーは、アレクの申し出に戸惑いながらも、胸の奥に心強さを感じていた。自分一人で稼ぐつもりだった。そこに王子と特待生が加わるとは思ってもみなかった。
馬車は学園の寮へ向かって走り続けた。
馬車が寮の前で止まり、エリシアとエドガーが降りた。アレクは御者へ城へ向かうよう伝えた後、二人へ声を掛ける。
「エドガー、寮母に伝えておいてくれ。急用ができたので一度城へ戻る。明日の朝には戻るとな」
「承知しました、殿下」
その言葉を聞いて、エリシアはアレクを見た。
「リディアさんの件ですか?」
「ああ。手紙を出さなければならないし、馬車や宿泊場所の手配もしなくてはならない」
「もう、そこまで準備を進めるんですね」
「約束したからな。母子を安全に送り届けるところまで、私の責任だ」
アレクはそう答えて馬車へ乗り込んだ。
「二人とも、今日はゆっくり休んでくれ」
「殿下もお気をつけて」
エリシアが頭を下げる。エドガーもそれに続いた。
馬車は寮の前を離れ、城へ向かっていく。エリシアとエドガーは、その姿が暗がりに消えるまで見送った。
エドガーは、次の休みから冒険者として働くことになるのかもしれないと思った。生活のために考えたことだったが、エリシアやアレクも一緒に動くことになりそうだ。
そして明日こそは、学園でエリシアに自分から話しかけようと決めた。




