第395話 母と娘
助産師はリディアの様子を確かめると、床に描かれた魔法陣へ視線を向けた。
「陣痛が十分に進みました。魔法陣を止めます」
セリオスが頷き、助産師は魔法陣へ手をかざした。淡く光っていた線が、一つずつ静かに消えていく。
陣痛を促す魔法は、そこで終わった。
しかし、リディアの身体には、すでに本格的な陣痛が始まっている。助産師は寝台のそばへ戻り、彼女の呼吸と出産の進み具合を確かめた。
「ここからは、身体の力に任せて進めます。痛みが来たら、私の声に合わせてください」
「はい……」
リディアはかすかに頷いた。額には汗が浮かび、淡いオレンジブラウンの髪が頬に張りついている。
エリシアは、彼女の手を握っていた。
陣痛が来るたびに、リディアの指がエリシアの手を強く握る。エリシアはその手を握り返し、彼女が呼吸を整えられるよう声を掛けた。
「ゆっくり息を吐いてください。助産師さんがそばにいます」
リディアは返事をする余裕もなく、目を閉じて息を吐いた。
助産師は出産の進み具合を見ながら、必要な指示を出している。セリオスはリディアの脈や呼吸を確かめ、顔色の変化に注意を払っていた。
エリシアには、彼らのように診断する知識はない。
それでも、リディアの手から力が失われていくのを感じていた。彼女の身体は、出産を迎える前から限界に近い。お腹の子に魔力を吸い上げられ続けたため、体力も魔力もほとんど残っていなかった。
助けたい。
そう思うたびに、セリオスの忠告が頭をよぎる。
妊婦には、エリシアの回復魔法を使わないこと。自分の魔法が胎児にどのような影響を及ぼすか、分からないからだ。
今は待つしかない。
「次の痛みが来ます。息を整えてください」
助産師が告げる。
リディアは息を吸った。次の瞬間、痛みが走り、彼女の身体が強張る。
「そうです。ゆっくり吐いて。無理に力を入れないでください」
助産師の声に合わせ、リディアは呼吸を続けた。エリシアは手を握り、何度も「大丈夫です」と声を掛ける。
どれほど時間が経ったのか、エリシアには分からなかった。
陣痛の間隔は少しずつ短くなり、痛みは強くなっていく。そのたびにリディアの顔から血の気が引き、呼吸が乱れた。助産師は冷静に指示を続けていたが、その額にも緊張がにじんでいた。
やがて、助産師がリディアの様子を確かめ、顔を上げた。
「赤ちゃんの頭が見えています。もう少しです」
リディアは、かすかに頷いた。
「痛みが来たら、私の声に合わせて力を入れてください。大丈夫です。赤ちゃんはすぐそこまで来ています」
エリシアはリディアの手を両手で包み込んだ。
「もう少しです。赤ちゃんに会えますよ」
リディアは、苦しげに息を吸った。
「この子は……無事に生まれてこられますか?」
その声はかすれていた。痛みに耐えながらも、リディアが気に掛けているのは自分ではなく、お腹の子だった。
助産師が、彼女の手をそっと握る。
「赤ちゃんは、もうすぐです。私がここにいますから、安心してください」
リディアの目に涙が浮かんだ。
次の陣痛が来る。
「今です。息を吐いて、それから力を入れてください」
助産師の指示に合わせ、リディアは残された力を振り絞った。
部屋に、赤子の産声が響いた。
エリシアは息を呑んだ。
「生まれました。女の子ですよ」
助産師が赤子を受け止め、すぐに状態を確かめる。小さな手足が動き、力強い泣き声が続いた。
「呼吸もしっかりしています。元気な赤ちゃんです」
その言葉に、リディアの頬を涙が伝った。
「よかった……」
助産師は赤子を清潔な布で包み、母親から離れた台へ運んだ。身体を拭いて温め、呼吸や手足の動きを確かめる。へその緒の処置も済ませ、赤子がリディアの身体から完全に離れたことを確認した。
リディアは、力を使い果たしたように目を閉じていた。
呼吸が浅い。唇から血の気が引き、顔色も急速に悪くなっている。
助産師が出血の状態を確かめ、セリオスがリディアの手首に触れた。
「出血は抑えられています。ですが、脈が弱くなっています」
助産師の声が強張る。
セリオスはリディアに治癒魔法を施した。淡い光が彼女を包み込む。弱った身体を支え、残された魔力や生命力を高めるための魔法だった。
けれど、光が消えてもリディアの顔色は戻らなかった。
セリオスはもう一度、彼女の脈を確かめる。
「魔力の枯渇が深すぎます。このままでは、危険です」
リディアの胸が浅く上下する。握っていた手から、温もりが消えていくようだった。
「リディアさん……」
エリシアが呼びかけても、返事はなかった。
生まれたばかりの赤子は、助産師に抱かれている。母親とはすでに離れ、処置も終わっていた。
エリシアはセリオスを見た。
「もう大丈夫ですよね?」
何が、とは尋ねなかった。セリオスには分かったようだった。
「赤ちゃんは母体から離れています。処置も済んでいます」
エリシアは頷き、リディアの手を両手で包む。
傷を治す時のように、治った姿を思い描いた。弱った身体に力が戻り、もう一度目を開ける姿を。
「どうか……力を戻してください」
エリシアの手から、柔らかな光が広がった。
光はリディアの腕を包み、身体の奥へ染み込んでいく。冷たかった指先に温もりが戻り、白かった頬にわずかな血色が差した。
「反応があります」
助産師が声を上げる。
だが、リディアの意識は戻らない。呼吸もまだ浅かった。
エリシアは、さらに魔力を注いだ。
身体から急速に力が抜けていく。視界が揺れ、足元が遠のいた。それでも、彼女は手を離せなかった。
リディアの胸が、先ほどより深く上下する。頬にも少しずつ血の気が戻り始めていた。
「エリシアさん、もう十分です。止めてください」
セリオスが告げる。
エリシアは聞こえているはずなのに、魔法を止められなかった。リディアの力が戻りかけている。ここでやめれば、また消えてしまうような気がした。
「もう少しだけ……」
「エリシアさん、止めなさい!」
セリオスの大声が、部屋に響いた。
いつもの穏やかさを失った声に、助産師が振り返る。
「あなたの魔力が急激に減っています! このままでは、あなたまで倒れます!」
エリシアの顔は青白くなっていた。唇から血の気が失せ、身体が震えている。それでも、両手はリディアから離れなかった。
リディアの顔には、反対に血色が戻りつつある。弱々しかった呼吸も、少しずつ安定してきていた。
廊下の向こうで足音が駆けてくる。
「セリオス枢機卿、何があったのですか!」
アレクの声が近づいた。
「殿下、こちらへ来てはいけません!」
誰かが止めようとする声が聞こえた。だが、セリオスの切迫した叫びを聞いたアレクは足を止めなかった。
彼は診察室へ駆け込み、目の前の光景に息を呑んだ。
エリシアは、今にも倒れそうなほど青白い顔で、リディアの手を握り続けている。その向かいで、死にかけていたリディアの頬には血の気が戻っていた。
「特待生!」
アレクが声を上げた。
「殿下、近づかないでください。魔法の流れを乱すおそれがあります!」
セリオスが制止する。
アレクは踏み出しかけた足を止めた。エリシアの身体は大きく揺れている。彼女が魔力を使い果たしかけているのは、目に見えて分かった。
「特待生、もう止めろ!」
エリシアは答えなかった。
光は弱まっている。それでも消えずに、リディアを包み続けていた。
その時、リディアの指が動いた。
エリシアの手を、かすかに握り返す。
「リディアさん!」
助産師が呼びかけた。
リディアの瞼が震え、ゆっくりと開く。
「……赤ちゃんは?」
「元気な女の子ですよ。無事に生まれました」
助産師の言葉を聞き、リディアの目から涙がこぼれた。
「よかった……」
それを聞いたエリシアは、ようやく魔法を解いた。
手から光が消える。
支えを失ったように、エリシアの身体が傾いた。セリオスがすぐに肩を支える。
「エリシアさん、聞こえますか?」
「はい……聞こえています」
声はかすれ、顔色はひどく悪かった。それでも、エリシアは助産師が抱いている赤子へ目を向ける。
「元気な女の子ですよ」
リディアを安心させるように、エリシアは笑顔を浮かべた。
「赤ちゃんを……こちらへ」
リディアが弱々しく腕を伸ばす。
「はい」
エリシアは助産師の元へ歩いた。一歩ごとに身体が揺れたが、赤子のそばまでたどり着く。助産師は彼女が椅子に腰を下ろすのを見届けてから、赤子を腕へ渡した。
エリシアは小さな頭を支え、両腕で赤子を抱いた。
淡いオレンジブラウンの髪は、リディアによく似ている。赤子は目を閉じ、小さな息を繰り返していた。
エリシアは、疲れ切った顔にもう一度笑みを浮かべる。
「リディアさん、連れていきますね」
セリオスが支えようとしたが、エリシアは小さく首を振った。
「大丈夫です。ゆっくり行きます」
彼女は赤子を落とさないように抱き、寝台のそばまで歩いた。リディアの腕へ、そっと娘を渡す。
「元気な女の子ですよ」
リディアは赤子を抱きしめた。娘が身じろぎし、瞼を開く。血のように紅い瞳が一瞬だけ覗いた。
リディアは息を呑み、娘の頬へ頬を寄せた。
「会いたかった……」
助産師は母子の様子を確かめ、セリオスは再びリディアの脈を診た。彼女の呼吸は安定し、顔色にも生気が戻っている。
エリシアは椅子へ座り込んだ。肩で息をしながら、それでも母子から目を離さなかった。
アレクは、彼女を見つめていた。
魔力を使い果たしかけ、今にも倒れそうになりながら、エリシアは赤子を抱いて母親のもとへ運んだ。疲労で顔は青白い。それでも、リディアを安心させる笑顔を浮かべていた。
アレクの胸に、温かな感情が広がる。
その笑顔から、目を離すことができなかった。




