第394話 陣痛を促す魔法陣
助産師は隣室に入ると、寝台の周囲を確かめた。出産に必要な布や湯を置く場所を整え、リディアの顔色と呼吸を見ている。
エリシアは清潔な布を手の届く位置に置き、水を用意した。セリオスは診療所の助手に頼み、マルタンへリディアの状態を伝えてもらっている。マルタンは別の診察室で患者を診ているため、すぐにこちらへ来ることはできない。必要になれば呼びに行く手筈だった。
「陣痛を促す魔法陣は、どこに使うんですか?」
エリシアが尋ねると、助産師は床の空いた場所を示した。
「寝台の周囲に描いて、魔力の流れを穏やかに整えます。強制的に出産を進めるものではありません。身体が出産を始められるよう、陣痛を促すためのものです」
「お母さんや赤ちゃんに負担はありませんか?」
「負担がないとは言えません。だからこそ、母親と胎児の状態を見ながら、使う強さを調整します」
助産師は、魔法陣を描くための道具を取り出した。床に直接線を引くのではなく、薄い板に刻まれた術式を組み合わせる方式らしい。中央には、陣痛を促すための魔石がはめ込まれていた。
エリシアは、魔法陣の形を注意深く見た。複雑な図形の中に、いくつもの円と線が重なっている。授業で見た攻撃魔法の術式とは違い、魔力を一点へ集めるのではなく、一定の範囲にゆっくり広げる構造に見えた。
「この魔法陣は、誰でも使えるのですか?」
「使うには魔力が必要です。ですが、術式が魔力の流れを調整するので、出産を扱う助産師が訓練を受ければ使用できます」
助産師は板を床へ並べながら説明した。
「魔法陣を起動した後も、陣痛の間隔や母体の状態を確かめ続けます。反応が強すぎれば、すぐに止めます」
セリオスが隣室へ入ってきた。
「マルタン先生には状況を伝えました。別の患者を診ていますが、必要であればすぐに来てくださるそうです」
「ありがとうございます」
助産師が答え、準備を続ける。
セリオスはリディアのそばへ行き、顔色を確かめた。
「リディアさん、これから陣痛を促す魔法陣を使う準備をしています。薬では効果が出るまで時間がかかる可能性があるため、魔法陣を使う方がよいと考えています」
リディアは腹部に手を添えたまま、セリオスを見た。
「魔法陣を使えば、この子は無事に生まれてこられるのでしょうか」
「必ずとは言えません。ですが、今の状態で長く待つより、母子の様子を確かめながら出産を進める方が安全だと判断しました」
「分かりました。お願いいたします」
リディアは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「この子を、無事に抱きたいのです」
「そのために、皆で準備をしています」
助産師はリディアの手を包むように握った。
「痛みが強くなった時は、我慢せずに知らせてください。呼吸も、私の声に合わせて整えましょう」
「はい」
エリシアはリディアの表情を見つめた。恐怖はあるはずなのに、彼女は落ち着いて見えるよう努めている。腹部へ添えた手は、赤子を守るようにそっと動いていた。
助産師が魔法陣の板を寝台の周囲へ並べ始めた。板の向きや間隔を何度も確かめ、中央の魔石が寝台を囲むように配置する。
「エリシアさん、こちらの水を替えてください。清潔な布は、すぐ取れるところへまとめておいてください」
「はい」
エリシアは指示された通りに動いた。水桶を新しいものに替え、清潔な布を種類ごとに分ける。使い終わった布を入れる籠も、寝台から少し離れた場所へ置いた。
助産師が魔法陣の最後の板を置き終える。
「これで準備は整いました」
セリオスが、リディアへ確認した。
「始めてもよろしいですか?」
「はい」
セリオスは助産師と目を合わせた。
「では、お願いします」
助産師は魔法陣の外側へ膝をつき、板の一つに手を置いた。魔石が淡く光る。光は隣の板へ移り、床に置かれた術式を順番になぞるように広がっていった。
明るさは強くない。寝台の周りを包む光は、静かな水面に広がる波紋のように揺れている。
「陣痛を促す術式が動き始めました。すぐに強い痛みが出るわけではありません。様子を見ながら進めます」
助産師は、リディアの呼吸と表情を確認し続けた。
エリシアは寝台の脇に立ち、彼女が求めればすぐ水や布を渡せるようにしていた。セリオスはリディアの脈を確かめ、魔力の流れに変化がないか注意を払っている。
魔法陣の光がゆっくり明滅した。
しばらくは、リディアの表情に目立った変化はなかった。彼女は助産師の声に合わせ、息を吸って吐く。その繰り返しが続く。
やがて、リディアの眉が寄った。
「痛みが来ましたか?」
助産師が尋ねる。
「はい。さっきより、少し強いです」
「分かりました。息を吐いてください。急がなくて大丈夫ですよ」
リディアは助産師の声に従い、長く息を吐いた。エリシアは彼女の手元へ器を近づけた。
「水を飲みますか?」
「少しだけ、お願いいたします」
エリシアは器を支え、リディアが飲みやすいように手伝った。
「ありがとうございます」
「無理をしないでくださいね」
リディアは小さく頷いた。
魔法陣の光は変わらず、穏やかに明滅している。助産師は痛みの間隔を記録しながら、術式を調整する板に手を添えた。セリオスもリディアの脈を確かめる。
「魔力の減り方に変化はありますか?」
助産師が尋ねた。
「今のところ、急激な変化はありません。ただ、魔力はかなり少ない状態です」
「陣痛が強まるにつれて、母体の負担も増えます。注意して見ていきましょう」
「はい」
エリシアは、魔法陣の光を見つめた。
この術式は、母親の魔力を吸い上げるものではない。魔石に蓄えられた魔力を使い、出産を促しているのだと助産師は説明していた。それでも、リディアの身体に負担がかかることに変わりはない。
「セリオス様」
エリシアは声を落として尋ねた。
「リディアさんの魔力は、出産まで持つのでしょうか」
「断言はできません。だからこそ、助産師と一緒に状態を確かめています。痛みが強くなりすぎたり、呼吸や脈に異常が出たりしたら、すぐに魔法陣を止めます」
セリオスの声は穏やかだったが、慎重さがうかがえた。
「エリシアさんは、回復魔法を使わないでください。胎児への影響が分からない以上、今は使うべきではありません」
「はい。分かっています」
エリシアは頷いた。自分の魔法なら、リディアを助けられるかもしれない。そう思ってしまうたび、セリオスの言葉を思い出す。胎児にどのような影響が出るか分からない。助けたい気持ちだけで使ってはいけないのだ。
隣室の扉が開き、アレクが入ってきた。外では炊き出しを続けているはずだが、助産師から状況を聞き、様子を見に来たのだろう。
「特待生、母子の様子はどうだ?」
「今は、魔法陣を使って陣痛を促しています。少し痛みが強くなってきたそうです」
「そうか」
アレクは寝台のリディアへ視線を向けた。助産師が陣痛の間隔を確認し、セリオスが脈を見ている。リディアは痛みに耐えながら、助産師の呼吸の指示に従っていた。
「こちらは任せておいてください。炊き出しの方も、エドガーさんが火を見てくれています」
セリオスがアレクに告げた。
「ありがとうございます。外の様子を見て、必要なものがあれば運びます」
アレクは丁寧に答えた。
「助かります。変化があれば、すぐにお知らせします」
アレクが部屋を出ると、エリシアは再びリディアのそばへ戻った。
痛みは、少しずつ強くなっているようだった。リディアの手が寝台の布を握りしめる。助産師は彼女の呼吸に合わせて声をかけ、痛みが引くまでそばを離れなかった。
「痛みが来たら、息を止めずに吐いてください。そうです。そのまま、ゆっくり」
「はい……」
リディアは苦しそうにしながらも、助産師の声に従っていた。
エリシアは、リディアの額に浮いた汗を清潔な布でそっと拭った。
「ありがとうございます」
「大丈夫ですか?」
「ええ。まだ、大丈夫です」
その言葉は、エリシアを安心させるためのようにも聞こえた。リディア自身も不安なのだ。それでも彼女は、何度も腹部を撫でていた。
「この子は、きっと大丈夫です」
リディアが小さくつぶやいた。
誰かに聞かせるというより、自分自身に言い聞かせているようだった。
エリシアはその言葉に頷いた。
「はい。皆で一緒に見守っています」
助産師が魔法陣の光を確認し、セリオスへ目を向けた。
「陣痛の間隔が短くなっています。術式をこのまま保ちますか?」
「リディアさんの脈と呼吸はどうですか?」
「まだ安定しています。ただ、かなり疲れています」
セリオスはリディアの状態を確かめ、少し考えてから答えた。
「魔法陣は維持してください。次の痛みの後に、もう一度脈を確認しましょう」
「分かりました」
助産師は魔法陣に手を添え、光の強さを保った。
次の陣痛が来る。リディアは助産師の手を握り、息を吐きながら耐えた。痛みが引くと、肩から力が抜ける。
セリオスが脈を取り、助産師が腹部の張りを確かめる。二人は短く言葉を交わした。
「少しずつ進んでいます」
助産師が告げた。
「このまま様子を見ましょう」
セリオスも頷く。
エリシアは、診療所の外から聞こえる声に耳を澄ませた。炊き出しを受け取る人々の声や、鍋を混ぜる音。いつも通りに続いている活動の気配が、ここでは遠く感じられる。
リディアの陣痛は、確実に強くなっていた。
そのたびに、エリシアは清潔な布を渡し、水を差し出し、助産師の指示に従って動く。魔法を使うことはできなくても、手伝えることがあった。
陣痛が収まった時、リディアは荒い呼吸を整えながら、エリシアを見た。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「エリシアです」
「エリシアさん。そばにいてくださって、ありがとうございます」
「いえ。私はここにいます」
エリシアは彼女の手を両手で包んだ。
リディアの指先は冷たかった。出産の負担と魔力の消耗で、身体は限界に近づいている。セリオスは表情を引き締め、助産師と何度も状態を確認していた。
「次の痛みが来たら、魔法陣の力を少しだけ調整します」
助産師がセリオスへ伝える。
「分かりました。変化があればすぐ止めてください」
「はい」
エリシアは、魔法陣の光がごくわずかに強まるのを見た。
リディアが目を閉じる。次の痛みが近づいていた。
エリシアは、彼女の手を握り返した。
この子を無事に抱きたい。その願いを、リディアは何度も口にしていた。
陣痛を促す魔法陣は静かに光り続け、出産への時間を少しずつ進めていた。




