第393話 母から子へ
診療が始まってしばらくすると、助産師がセリオスの診察室を訪れた。
「セリオス様、妊婦の方の体調について相談したいことがあります。エリシアさんにも来ていただけますか?」
「分かりました。エリシアさん、こちらの患者さんをマルタン先生にお願いします」
「はい」
エリシアは診察中の患者に一礼し、助産師の後について隣の診察室へ移った。
診察台には、一人の女性が横になっていた。腹部は大きく張り、頬は青白い。額には汗が浮かび、呼吸も浅かった。
淡いオレンジブラウンの髪が頬のそばに広がり、琥珀色の瞳には疲れがにじんでいる。腹部を締めつけないゆったりとした服には、何度も繕われた跡があった。それでもきちんと整えられている。
女性はセリオスたちに気づくと、腹部に手を添えたまま、丁寧に頭を下げた。苦しげな様子の中にも、その所作には上品さが残っていた。
「こちらはリディアさんです。出産が近く、食事もほとんど取れていないそうです」
助産師が紹介すると、女性はかすかに微笑んだ。
「リディアと申します。診ていただけますでしょうか」
「もちろんです。少し魔力の状態を確認させていただけますか?」
「はい。お願いいたします」
リディアは不安そうにしながらも、手を差し出した。
セリオスはその手首に触れて目を閉じる。指先が淡く光った。魔力の流れを探る術だった。
エリシアは診察の邪魔にならないよう、一歩下がった。セリオスの表情を見れば何か分かるかもしれない。だが、彼は静かにリディアの手を取ったまま、魔力の動きを探っていた。
しばらくして、セリオスの眉がわずかに寄った。
「リディアさん自身の魔力が、かなり減っています」
「魔力が……ですか?」
「はい。食事を取れず、体力が落ちていることも影響しているでしょう。ただ、それだけでは説明がつかないほどの消耗です」
リディアは腹部へ手を添えた。
「ここ数日、特に身体が重くて……少し歩いただけでも息が切れるようになりました」
助産師も頷いた。
「妊娠後期には疲れやすくなりますが、リディアさんの衰弱は、それだけではないように思います」
セリオスは彼女の腹部へ視線を向けた。
「胎児が母体の魔力を吸い上げている可能性があります」
エリシアは思わず息をのんだ。
「お腹の子が、お母さんの魔力を……?」
「魔力量の多い胎児の場合、母親の魔力を取り込み続けることがあります。すべての妊娠で起きるわけではありませんが、母親の魔力が減り続ければ、身体にも大きな負担がかかります」
セリオスはリディアの手をそっと離した。
「ただ、胎児の魔力量までは、私には正確に読み取れません」
「セリオス様にも分からないのですか?」
エリシアが尋ねた。
「魔力量を感知するには、相手より自分の魔力が多くなければなりません。私より胎児の魔力量が多い場合、その流れを捉えきれないのです」
セリオスは少し考え込んだ。
魔力量の多い者に確認してもらう必要がある。エリシアは、診療所の外で炊き出しを手伝っているアレクを思い出した。彼の魔力は、授業で魔石に触れた時にも感じられるほど大きかった。
「殿下なら、分かるかもしれません」
「そうですね。アレク殿下に協力をお願いしましょう」
助産師はリディアの様子をもう一度確かめてから、診察室を出た。アレクを呼びに行くのだろう。
リディアは横になったまま、腹部を撫でていた。不安そうな表情が浮かんでいる。
「お腹の子に、何か問題があるのでしょうか」
「まだ分かりません。まずは魔力の状態を確かめ、そのうえで母子にとって安全な方法を考えます」
セリオスの落ち着いた声に、リディアは小さく頷いた。
エリシアは診察台のそばへ寄り、水を差し出した。
「喉は渇いていませんか?」
「少しだけ。ありがとうございます」
リディアは器を受け取り、ゆっくりと水を飲んだ。飲み終えると、器をエリシアへ返す。
「あなたは、セリオス様の授業を受けている方なのですね」
「はい。まだ習い始めたばかりです」
「それでも、そばにいてくださると心強いです」
エリシアは返事に迷い、小さく笑った。
「できることをお手伝いします」
その時、扉がノックされた。
「失礼します」
アレクが部屋に入ってきた。室内の様子を確かめ、セリオスの前で足を止める。
「お呼びと聞きました。何をすればよろしいでしょうか?」
「リディアさんの胎児の魔力量を確認していただきたいのです。私では胎児の魔力を捉えられない可能性があります」
「分かりました。どのようにすればよろしいでしょうか?」
「リディアさんの手に触れ、魔力の流れを探ってください。無理に魔力を流す必要はありません」
アレクはリディアへ近づく前に、彼女の目を見た。
「手を取ってもよろしいでしょうか?」
「はい。お願いいたします」
アレクはリディアの手首にそっと触れ、目を閉じた。
診察室が静かになる。エリシアは、アレクの表情から何かを読み取ろうとした。すぐには変化がなかったが、しばらくすると彼の眉がわずかに寄り、指先に力が入った。
「……母親の魔力が、腹部へ流れている」
アレクは目を開き、リディアの手を離した。
セリオスは静かに頷く。
「胎児が母体から魔力を吸い上げているようですね」
アレクはリディアの顔を見た。彼女は腹部に手を添えたまま、二人の話を待っている。
「この子は……無事に生まれてこられるでしょうか」
リディアが尋ねた。
エリシアは、彼女がまずお腹の子を案じていることに気づいた。リディアは自分の苦しさを訴えるより先に、子どもの無事を尋ねたのだ。
「母子ともに無事に出産を終えられるよう、できる限りの準備をします」
戻ってきた助産師が、リディアのそばで答えた。
「今はまだ、これから必要な処置を決めるところです。痛みの間隔や体調を確認しながら進めますので、心配なことは何でもおっしゃってください」
「お願いいたします。この子を、どうか……」
「はい。私たちに任せてください」
助産師はリディアの手を取り、落ち着かせるように握った。
リディアの呼吸が少し整ったのを見届けると、助産師はエリシアに手伝いを頼み、出産の準備をする隣室へ移すことにした。エリシアはリディアの肩を支え、助産師は反対側から身体を支えた。
隣室の寝台に横になったリディアへ、助産師は「痛みが強くなったらすぐに知らせてください」と伝えた。彼女は頷き、目を閉じた。
セリオスは診察室に残り、アレクとエリシアに向き直った。扉が閉まると、隣室のリディアには会話が届かなくなった。
「魔力量の多い子どもを産んだ母親は、ほとんど助からない」
アレクの声は静かだった。
エリシアは息をのんだ。
四大国の中でも、エルグランド王国は貴族の魔力量が最も多いとされている。王族は、その中でもひときわ高い魔力を受け継ぐ。
その事実が、エリシアの中で一つのことと結びついた。
この国には、王妃がいない。
「じゃあ……」
言いかけた声が、そこで止まった。
アレクは何も答えず、視線を伏せている。セリオスも口を挟まない。エリシアは、それ以上尋ねることができなかった。
診察室の外から、患者を案内する声が聞こえる。マルタンは別の部屋で、軽い病気や怪我を抱えた患者を診続けている。炊き出しの鍋も、エドガーが火を見ながら準備しているはずだった。
だが、エリシアの意識は隣室にいるリディアへ向いていた。
彼女は自分の命を心配するより先に、子どもの無事を尋ねていた。もし、このまま出産に耐えられなかったら。あの子を残して命を落とすことになったら。
エリシアは、自分の手を見つめた。
妊娠中の女性に回復魔法を使うことはできない。胎児にどんな影響が出るか分からないからだ。セリオスからそう教わっている。それでも、リディアを助ける方法がないか考えずにはいられなかった。
隣室から、助産師の声が聞こえた。
「痛みの間隔が短くなっています。出産が近づいているようです」
セリオスはすぐに顔を上げた。
「今の状態では、自然に陣痛が強くなるのを長く待つのは危険かもしれません」
アレクが言った。
「母体の消耗が進んでいます。陣痛を促す薬では、効果が出るまで時間がかかります」
セリオスは助産師に確認した。
「診療所に、陣痛を促す魔法陣があると聞きました」
「はい。出産を急ぐためのものではありませんが、母体の状態を見ながら使うことができます」
「マルタン先生にも状況を伝えましょう。出産後の診療に備えていただく必要があります」
セリオスは助産師に頼んだ。助産師は頷き、診療所の助手に伝言を頼みに行った。
「エリシアさんは、清潔な布と水の用意をお願いします。必要なことは私か助産師に相談してください」
「はい」
エリシアはすぐに動いた。
回復魔法を使うことはできない。胎児への影響が分からない以上、セリオスの指示を守らなければならない。
それでも、何もできないわけではなかった。必要なものを用意し、助産師の指示を受け、リディアが少しでも安心できるようそばにいることはできる。
エリシアは清潔な布を揃え、水を用意して隣室へ運んだ。
リディアは目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。助産師がそばに座り、痛みの間隔を記録していた。
「布をこちらに置きます」
「ありがとうございます」
助産師は布を受け取り、手の届く場所へ置いた。
「リディアさん。これから陣痛を促す魔法陣を使う準備をします。母子の状態を確認しながら進めますので、痛みや苦しさが強くなったら、すぐに知らせてください」
「分かりました」
リディアは腹部に手を添えた。
「この子を、どうかお願いします」
「はい。できる限りのことをします」
エリシアは水を寝台のそばへ置いた。リディアは彼女を見て、小さく微笑む。
「あなたにも、よろしくお願いいたします」
「はい。そばにいます」
エリシアは寝台の横に立ち、リディアの手が伸びれば届く場所にいた。
診療所の外では、炊き出しの列が進み、鍋から湯気が上がっている。別の診察室ではマルタンが患者の話を聞き、セリオスは出産の準備を整えていた。
エリシアは、できることを一つずつ確かめた。間もなく、陣痛を促す魔法陣が使われる。
母親と子どもの両方を守るための時間が、始まろうとしていた。




