第392話 スラム街
慈善活動の日は、朝から雲が低く垂れ込めていた。
雨が降るほどではない。それでも、湿り気を含んだ風が頬を撫で、エリシアは外套の襟を整えた。
集合場所は、王都東部の大通り沿いにある荷馬車の停留所だった。セリオスが手配した荷馬車には、炊き出し用の食材や大鍋、診療に使う道具が積まれている。活動に必要な費用はセリオスが負担し、王国からも実施の許可を得ていた。
停留所へ着くと、セリオスが荷馬車のそばに立っていた。近くでは、同行する助産師が診療道具の入った箱を確認している。
「おはようございます、セリオス枢機卿」
「おはようございます、エリシアさん。早いですね」
「遅れないようにと思って、少し早く出ました」
「その心掛けは大切です。道中も長くなりますから、疲れたら遠慮なく知らせてください」
エリシアが頷くと、セリオスは荷台を振り返った。野菜や乾燥豆、穀物の袋が積み込まれ、その隙間には診療用の布や薬瓶が、雨に濡れないよう箱に収められている。
「食材も道具も、これで揃いました。あとは皆さんが来れば出発できます」
ほどなく、馬の蹄の音が近づいてきた。
護衛を伴った馬車が停留所の前で止まり、扉が開く。先に降りてきたのはアレクだった。金色の髪を外套のフードで隠すようにしているが、澄んだ蒼い瞳と整った顔立ちは人目を引く。
アレクはセリオスに一礼した。
「おはようございます、セリオス枢機卿。本日はよろしくお願いいたします」
「おはようございます、アレク殿下。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
続いて、アレクはエリシアへ視線を向けた。
「おはよう、特待生」
「おはようございます、殿下」
その後、馬車からエドガーが降りた。彼はアレクの前で膝をつき、頭を下げる。
「おはようございます、殿下。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしく頼む。今日は同じ活動の仲間だ。あまり堅くならなくていい」
「ありがとうございます」
エドガーは立ち上がり、セリオスとエリシアにも改めて挨拶をした。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「おはようございます、エドガーさん」
短い挨拶を交わした後、エドガーは少し硬い表情で荷馬車を見た。アレクとはまだ、成人の儀での出来事以外に深く話したことはない。
「皆さんお揃いですね」
セリオスが一同を見回した。
「本日は、北の診療所で炊き出しと診療を行います。診療所には普段から医師が勤めていますので、現地ではその医師と連携します。助産師にも同行していただき、妊婦や出産に関する相談を担当してもらいます」
エリシアは頷いた。
「軽い怪我や病気、感染症の疑いがある方は診療所の医師に。妊娠や出産に関する相談は助産師にお願いします。重症の方や原因の分からない症状については、私が診察します」
「分かりました」
「患者の状態を見て判断に迷った時は、現地の医師か私に相談してください。妊婦や出産に関わることは、助産師にも知らせてください」
「はい」
「患者の事情を詮索しないこと。診療で知ったことを外で話さないことも大切です。エリシアさんは、妊娠中の方に回復魔法を使わないようにしてください」
「必ず守ります」
アレクとエドガーも頷いた。
「それでは、出発しましょう」
セリオスの合図で、荷馬車が動き始めた。
エリシアたちは荷馬車に乗り込む。窓の外には朝の王都が広がっていた。店を開ける商人、荷を運ぶ職人、仕事へ向かう人々。通りにはいつも通りの活気があり、馬車は人の流れを避けながらゆっくり進んでいく。
窓の外を眺めていたアレクが、北側へ目を向けた。
「北門へ続く道は、北方の竜への警戒で封鎖されています。今日は東側の通りを回って北部へ向かうのですね」
「はい。王国の方とも相談し、東側から回る経路を通ることになっております」
「承知しました」
エリシアは、北門へ続く道が封鎖されている理由を詳しく知らなかった。北方から竜が現れる可能性に備えている。そう聞いたことがある程度だった。
「北の診療所は、王都の中にあるんですか?」
エリシアが尋ねると、アレクが頷いた。
「王都の北部だ。北門へ続く大通りは封鎖されているが、東側を回れば中を通って行ける」
「北門へ向かう道だけが通れないのですね」
「そうだ。城壁の外へ出るわけじゃない」
アレクの説明に、エリシアは頷いた。
馬車は東側の大通りへ入った。王都の中心へ向かう道とは違い、建物は次第に低くなり、人通りも少なくなっていく。貴族街の整った石造りの建物が遠ざかり、商店や工房、狭い住居が目立ち始めた。
いくつかの区画を過ぎるうち、周囲の景色が少しずつ変わっていった。
立派な石造りの建物はほとんど見えなくなり、低い家屋や継ぎ足したような小屋が増えていく。道端には壊れた荷車が置かれ、雨水の溜まった窪みを避けて人々が歩いていた。
下町で育ったエリシアは、裕福な暮らしを知らない。母と二人でパン屋を切り盛りし、毎日の生活費を考えながら暮らしてきた。それでも、店の近所には顔なじみがいて、困った時に声を掛け合う人たちがいた。
ここを歩く人々の顔には、そうした余裕が見えなかった。
道端に座り込んだ老人の横を、何人もの人が黙って通り過ぎていく。助ける余裕がないのか、関わることを恐れているのか。エリシアには分からなかった。
「……あの方は、具合が悪いのでしょうか」
窓の外を指すと、アレクもそちらを見た。
老人は壁にもたれ、目を閉じている。近くには痩せた犬が一匹、身を丸めていた。
「今は馬車を止められない。到着したら診療所の人に伝えよう」
アレクが言った。
「緊急の患者であれば、現地の医師にすぐ対応してもらいます」
セリオスが静かに続ける。
エリシアは頷いた。それでも、老人の姿はしばらく目に焼きついていた。
馬車は王都の東側を抜け、北へ向かう道へ入った。遠くに、北門へ続く道を塞ぐ柵が見える。その前には衛兵が立ち、封鎖された先を通れないよう見張っていた。
馬車は柵の手前で北門への道を外れ、東側の通りを進んでいく。道が北へ折れると、城壁の内側に沿って続く家並みが見え始めた。
「北門へ続く道が使えないと、この辺りの人たちは不便でしょうね」
エリシアが呟くと、アレクは柵の向こうへ目を向けた。
「そうだな。防衛上の理由があるとはいえ、門を使えないことで暮らしに影響が出ている人もいるだろう」
彼の声には、考え込むような響きがあった。
城壁の内側に沿って進むにつれ、小屋や簡素な家が増えていく。窓のない建物もあれば、壁に板を打ち付けただけの家もあった。道には水路がなく、雨水と生活排水が混ざった泥が溜まっている。
エリシアは、セリオスの授業を思い出した。
汚れた水や食べ物から病気になること。人が密集して暮らす場所では、一人の病気が周囲に広がりやすいこと。
ここでは、病気を防ぐための清潔な水を得るだけでも難しいのかもしれない。
馬車の向こうに、煙突の並ぶ一角が見えた。さらにその先には、看板を掲げた建物が何軒も続いている。外壁は傷み、色あせた布や灯りが扉の脇に飾られていた。
「この先に娼館が並ぶ通りがあります」
セリオスが説明した。
「診療所は、その通りから少し離れた場所です。患者の中には、娼館で働く方もいるでしょう。職業や事情で態度を変えず、必要な診療を行ってください」
「はい」
エリシアは頷いた。
アレクは窓の外を黙って眺めていた。王子として王都の暮らしを知っているつもりだったのだろう。けれど、こうして北部まで来たことはなかったのかもしれない。
馬車は、やがて古い石造りの建物の前で止まった。
扉の上には診療所を示す小さな看板が掲げられている。建物は古びているが、入口の周りは掃き清められていた。扉のそばには、診察を待つ人々がすでに集まっている。
中から一人の男性が出てきた。袖をまくった簡素な服を着ているが、落ち着いた様子でセリオスに会釈する。
「お待ちしておりました。診療所の医師をしております、マルタンです」
「本日はよろしくお願いいたします」
セリオスが応じた。
「炊き出しの場所は建物の裏手に確保しました。診療を希望する方も、すでに何人か待っています」
「ありがとうございます。準備を始めましょう」
マルタンは一同にも挨拶し、診療所の中へ案内した。
建物の中には複数の診察室があり、それぞれに診察台や机、薬棚が備えられていた。広くはないものの、普段から診療を行っている場所らしく、必要な道具が使いやすい位置に整えられている。
「いつもは私と助手で診療しています。今日は皆さんが手伝ってくださるので、患者を分けて診られそうです」
マルタンが言った。
セリオスは診察室を見回し、各自の担当を確認した。軽い怪我や病気の患者はマルタンが診る。妊娠や出産に関する相談は助産師が受け、重症の患者や原因の分からない症状はセリオスが診察することになった。
「エリシアさんは、私の診察を手伝ってください。診察の補助や道具の準備をお願いします。判断に迷った時は、一人で決めず、必ず私かマルタン先生に相談してください」
「はい」
外では、炊き出し用の火が起こされている。エドガーが火魔法を使い、薪へ慎重に火を移した。炎は小さく安定し、鍋の底を温め始める。
彼は時折、火の勢いを確かめていた。周囲に人がいることを意識し、必要以上に魔力を注がないよう注意しているのが伝わってくる。
「火加減は大丈夫そうです」
エドガーがセリオスに報告した。
「ありがとう。鍋が温まったら、火を弱めてください」
「はい」
アレクは炊き出しの列ができる場所を確認していた。診療所の外には、すでに人が集まり始めている。子どもを連れた女性や杖をつく老人、仕事着のままの男性もいた。
マルタンと助産師はそれぞれの診察室へ向かい、セリオスも重症患者や原因不明の症状を診る部屋へ入った。
エリシアはセリオスの診察室に入り、清潔な布と水を手の届く場所へ置いた。使い終わった道具を分ける箱も準備する。
「診察の前後には手を洗います。布や器具は患者ごとに分けます」
「はい。授業で習いました」
「見た目に汚れがなくても、使い回さないようにしましょう。ここでは多くの方を診ます。基本を徹底することが、患者を守ることにつながります」
エリシアは頷いた。
診療所の外では、炊き出しを待つ人々の列が伸びている。診察を希望する人たちも、案内を受けて順番を待っていた。
やがて、マルタンの助手が最初の患者を診察室へ案内してきた。
エリシアは一度深呼吸をし、セリオスの隣に立った。授業で学んだことを思い出しながら、目の前の人に何が必要なのかを確かめていく。
北の診療所での診療が、始まろうとしていた。




