第37話 約束の日
雪が解け始める頃、レオンは再びグランツの宿場町へ向かっていた。
クロエとは、これで四度目の取引になる。
二頭の走竜が力強く街道を駆け、その後ろを竜車が追う。
初めて取引した時には十頭分だったレッドボアの肉も、今では一度に三十頭近くを運ぶまでになっていた。
レッドボア事業は順調。
騎士団改革も順調。
領地の収支は以前より大きく改善している。
それでも、目標としている金貨二万枚には、まだ遠く及ばなかった。
◇
現在資金。
金貨六百八十枚。
◇
「全然足りないな……」
帳簿へ目を落としたレオンが呟くと、向かいに座るゼムが苦笑した。
レオンは毎月のように帳簿を確認し、そのたびに同じ言葉を口にしている。
「普通であれば、十分な資産でございますが」
「自分で決めたことだけど、目標が悪い」
レオンは即答した。
ゼムは仕方がないというように肩を竦める。
「ぼっちゃまらしいですな」
「それ、褒めてないだろ」
「褒めております」
真顔で答えるゼムの言葉は、まったく信用できなかった。
ノルディアを出発して二日後、竜車はグランツの宿場町へ到着した。
レオンがいつもの広場へ向かうと、クロエはすでに待っていた。
迷彩柄のフード付きマントから覗く灰色の髪。すっかり見慣れた姿で、レオンを見つけると嬉しそうに手を振る。
「久しぶり」
「久しぶりだな」
レオンも手を上げて応えた。
クロエはいつもより機嫌がよさそうだった。
その後の取引は、今回も順調に進んだ。
運んできた肉の量と鮮度を確認し、販売価格や新たな販路、次回の取引について話し合う。四度目ともなれば互いの進め方も分かっており、商談は滞りなく終わった。
クロエが帳簿を閉じた頃には、すでに夕方になっていた。
一仕事を終えたクロエは、どこか期待するような目でレオンを見る。
「今日は大丈夫?」
「何がだ?」
レオンがわざとらしく首を傾げると、クロエは呆れた顔をした。
「ご飯」
「ああ、そうだった。そうだった」
「絶対忘れてたでしょ」
クロエの目が細くなる。
王都で交わした食事の約束は、すでに三度も流れていた。
一度目は、走竜と竜車を購入するための商談が長引いた。
二度目は、クロエに外せない予定があった。
三度目は、父グラニウスの命日に間に合わせるため、レオンがすぐに帰らなければならなかった。
そして四度目となる今日、ようやく二人の予定が合った。
「俺も今日は大丈夫だ」
その言葉を聞いた瞬間、クロエの表情が明るくなる。
「本当に?」
「嘘をついてどうするんだ」
「レンなら、約束を忘れていそうだったから」
「酷くないか?」
「事実でしょ?」
否定できなかった。
黙り込んだレオンを見て、クロエが勝ち誇ったように笑う。
その顔が少し悔しくて、レオンは僅かに眉を寄せた。
「それじゃあ、行こう」
「ああ、そうだな」
二人は並んで宿場町を歩き始めた。
夕方の大通りは多くの旅人や商人で賑わっており、通りに並ぶ食堂からは食欲をそそる香りが漂ってくる。
どの店へ入るか話しながら歩いていた、その時だった。
「あっ」
クロエが突然足を止めた。
「どうした?」
「忘れ物」
どこか慌てた様子だった。
普段のクロエには珍しい反応に、レオンが首を傾げる。
「宿にか?」
「うん。すぐに戻るね」
「それなら、俺は先に店へ入っているぞ」
「了解!」
クロエは親指を立てた。
「十分で戻るから!」
そう告げると、宿へ向かって駆け出していく。
その背中を見送りながら、レオンは苦笑した。
「そんなに慌てることか?」
「お若いですなぁ……」
不意に背後から声が聞こえ、レオンは驚いて振り返った。
そこには、呆れたような、それでいてどこか楽しそうな顔をしたゼムが立っていた。
「いつからそこにいたんだ? というか、若いって何だよ」
「ぼっちゃまも、まだまだお若いということでございます」
ゼムは意味ありげに笑うと、それ以上何も説明せずに立ち去っていった。
「何なんだ……?」
一人残されたレオンには、ゼムの言葉の意味がまったく分からなかった。
◇
その頃、クロエは急いで宿へ戻っていた。
自室へ入って扉を閉めると、真っ先に鏡の前へ立つ。
「……汗臭くないよね?」
自分の服へ顔を近づけながら、不安そうに呟いた。
今日は朝から荷物と商品の確認を行い、帳簿を整理し、竜車の荷下ろしにも立ち会った。
取引が終わるまで、ほとんど休むことなく動き続けている。
そしてこれから、レンと二人で食事へ行くのだ。
クロエは鏡を見ながら灰色の髪を整え、服についた埃を手で払った。
水で顔を洗い、荷物の中から取り出した香草水をほんの少しだけ使う。
「僕、何をやっているんだろう……」
鏡に映る自分を見つめながら、クロエは小さく呟いた。
なぜか頬が熱い。
その理由を考えそうになり、慌てて首を横へ振る。
今は、深く考えない方がよい気がした。
「よし、準備完了!」
まだ十分も経っていない。
「急がないと、レンを待たせちゃう」
クロエは部屋を飛び出し、人目の少ない宿の裏口へ回った。
その瞬間だった。
背筋を冷たいものが走る。
長い間、追っ手から逃げ続けてきたクロエの勘が、危険を告げていた。
誰かに見られている。
そう気づいた直後、背後から低い男の声が響いた。
「いたぞ!」
クロエの動きが止まる。
ゆっくりと振り返ると、見覚えのない三人の男が立っていた。
「だ、誰……?」
男達は答えない。
ただクロエを逃がさないように広がりながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
先ほどまで浮かんでいたクロエの笑みが消えた。
同じ頃、宿場町の食堂では、レオンが一人で席に着いていた。
十分で戻ると言ったクロエは、まだ現れない。
やがて二十分が経ち、さらに三十分が過ぎた。
「遅いな……」
レオンの表情から、次第に余裕が消えていく。
クロエは商人だ。
時間には人一倍正確で、約束も必ず守る。遅れるのであれば、何らかの方法で連絡を寄越すはずだった。
それなのに、何の知らせもない。
遅れている理由が思いつかなかった。
「……まさか」
胸の奥を、嫌な予感がよぎる。
レオンは勢いよく席を立つと、クロエが滞在している宿へ向かって駆け出した。




