第36話 家族は大事だ
前回の取引から、三ヶ月が経とうとしていた。
季節は秋から冬へ移り変わり、ノルディア領では雪が降り始めている。
ノルディア邸の外には白銀の景色が広がり、屋根や庭木、訓練場までもが白い雪に覆われていた。
そのような中、レオンは暖炉の火が燃える執務室で、今日も机へ向かっていた。
正式にノルディア辺境伯となってから、すでに半年以上が過ぎている。
しかし、仕事の量は減るどころか増え続けていた。
コンコン。
書類へ目を通していると、執務室の扉が叩かれた。
「入ってくれ」
「失礼いたします、ぼっちゃま」
入ってきたのは、いつものように落ち着いた表情を浮かべたゼムだった。
レオンは書類から顔を上げると、呆れたような目を向ける。
「ゼム」
「何でしょう?」
「もう正式な辺境伯になったんだから、その呼び方をやめないか?」
ゼムは、僅かに考える素振りすら見せなかった。
「嫌でございます」
「即答かよ」
「まだ十四歳ですので」
「年齢は関係あるか?」
「ございます」
ゼムは真顔だった。
レオンは、以前にも同じような会話をしたことを思い出した。
「前は、辺境伯代行だから『ぼっちゃま』だと言っていたよな?」
「私にとっては、いつまでも旦那様のご子息でございます。ですので、何歳になろうと、ぼっちゃまはぼっちゃまです」
ゼムには、呼び方を変えるつもりなど最初からないらしい。
レオンは深いため息を吐いた。
「理不尽だな……」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてないぞ」
何を言っても話にならない。
父のグラニウスでさえ、ゼムのこうした態度を変えさせることはできなかった。
レオンが説得できるはずもない。
諦めて帳簿へ視線を戻すと、ゼムは満足そうに頷いた。
「それで、何かあったのか?」
「商業ギルドから、手紙が届いております」
「商業ギルド?」
レオンは不思議そうに首を傾げた。
普段、商業ギルドから届くのは、領内の物流や商人の出入りに関する報告くらいだった。
レオン個人へ手紙が送られてくるのは、これが初めてである。
ゼムは懐から一通の手紙を取り出した。
「勝手ながら、商業ギルドへ『レン』という名前で登録しておきました。ですので、こちらはクロエ様からの手紙かと存じます」
悪びれる様子もなく、ゼムは静かに頭を下げた。
本人の知らないところで勝手に偽名を登録されていたことになる。
しかし、ゼムが勝手に話を進めるのは、いつものことだった。
レオンは怒る気力すら湧かず、ため息を吐く。
「それで、手紙って事は何かあったんだな……」
「レッドボアの肉の販売先を新しく開拓するため、次回の取引を二十日ほど遅らせてほしいとのことです」
レオンは顔を上げた。
「勝手に読んだのかよ!」
思わず目頭を押さえるが、ゼムは少しも動じない。
「ぼっちゃまの執事でございますので、仕方のないことかと」
「仕方なくないだろ……」
この老人には勝てない。
レオンは再びため息を吐き、諦めて話を進めることにした。
「分かった。もういい……他には何かあるのか?」
「はい。今回の収支報告をお持ちしました」
ゼムは手にしていた帳簿を、机の上へ差し出した。
レオンはそれを受け取り、内容へ目を通していく。
騎士団改革によって削減された経費は、年間で金貨百二十枚。
魔獣討伐における死者は、今もほぼゼロを維持している。後方から戦場を経験させてきた新人兵達も、少しずつ中衛へ加わるようになり、順調に成長していた。
「上手くいっているな」
「騎士団の者達も、皆ぼっちゃまに感謝しております」
ゼムが穏やかに答えた。
続いて、レッドボアの肉を扱う事業の記録へ目を移す。
クロエとの最初の取引では、十頭分の肉を運んだ。その量は二十四頭分へ増え、現在では販売先も安定し始めている。
レオンは帳簿の最後のページを開いた。
そこには、クラリスを救うために設定した目標と、現在までに確保できた金額が記されていた。
◇
目標 金貨二万枚。
現在 金貨三百二十枚。
◇
目標としている金貨二万枚には、まだ遠く及ばない。
それでも、最初の金貨六十五枚からは大きく増えていた。
「少しずつだな」
焦る必要はない。
一度に全てを集めることなど、最初からできるとは思っていなかった。
今のように、小さな利益を積み重ねていけばよい。
残された時間は六年。
それまでに、必ず金貨二万枚を集める。
レオンは改めて決意し、帳簿を閉じた。
それから二十日後。
レオンは、三度目の取引を行うため、再びグランツの宿場町へ向かっていた。
冬の街道には雪が積もっていたが、二頭の走竜は足を取られることなく、力強く竜車を引いて進んでいく。
ノルディアを出発して二日後、レオン達は無事にグランツの宿場町へ到着した。
いつもの中央広場へ向かうと、すでにクロエが待っていた。
迷彩柄のフード付きマントから覗く灰色の髪。
何度か取引を重ねたことで、すっかり見慣れた姿になっていた。
レオンに気づいたクロエが、嬉しそうに片手を上げる。
「久しぶり」
「久しぶりだな」
レオンも手を上げて応えた。
挨拶を終えたクロエは、すぐに竜車の荷台へ視線を向けた。
そして、前回よりも多く積まれた荷物を見て、驚いたように指を差す。
「これ、また増えてない?」
「今回は二十八頭分だ」
「また増えたの!?」
クロエは、予想していなかったように目を見開いた。
「走竜のおかげだな」
竜車を導入したことで、輸送できる量は着実に増えている。
さらに、移動にかかる日数が短くなったことで、レッドボアの肉をよりよい状態でクロエへ引き渡せるようになった。
今回の取引も、順調に進んだ。
肉の量と状態を確認し、販売価格を決める。
新しく開拓した販路についてクロエから説明を受け、今後の取引量や予定を話し合う。
特に問題が起きることもなく、全ての話がまとまった。
気づけば、窓の外は夕方になっていた。
最後の数字を書き終えたクロエが帳簿を閉じる。
そして、少しだけ期待するような目でレオンを見た。
レオンも、その視線の意味には気づいていた。
食事の約束。
王都で初めて出会った時に交わし、最初の取引では商談が長引いたために流れてしまった。
次の取引ではクロエに予定があり、また延期になった。
だから、今度こそ一緒に食事へ行ける。
クロエは、そう思っているのだろう。
しかし、レオンは少し困ったような表情を浮かべた。
「悪い」
クロエの動きが止まった。
「え?」
「今日は、すぐに帰らないといけないんだ」
クロエは不思議そうに首を傾げた。
「仕事?」
レオンは少しだけ考えた。
しかし、隠さなければならないことでもない。
「家族に会う予定があるんだ」
クロエは何も言わなかった。
"家族"
その言葉が、胸の奥へ深く突き刺さる。
クロエには、もう会える家族がいない。
四年前に失ったもの。
どれほど願っても、二度と取り戻せないものだった。
家族へ会うために帰ると言えるレオンを、少しだけ羨ましいと思った。
しかし、その感情を表へ出すことはなく、すぐに笑顔を作る。
「そうなんだ」
「悪いな」
レオンは申し訳なさそうに頭を掻いた。
クロエは首を横へ振る。
「別に、気にしなくていいよ」
そして、少しだけ寂しそうに続けた。
「家族は大事だからね」
レオンは、クロエの言葉へ静かに頷いた。
「ああ、そうだな」
短い返事だった。
しかし、その声は普段よりも少しだけ優しかった。
「それなら、また次だな」
「うん」
クロエも頷く。
「次こそ、絶対に行こうね」
「ああ。約束だ」
これで、食事の約束が延期されるのは三度目だった。
それでも、二人とも笑っていた。
別れ際、クロエは走り去っていく竜車を、宿場町の入口から見送った。
『家族は大事だからね』
自分で口にした言葉が、今になって胸を締めつける。
遠ざかっていくレンの姿が、少しだけ羨ましかった。
レンには、帰る場所がある。
会いたい家族がいる。
それが、クロエには少しだけ眩しく見えた。
その頃、ノルディアへ続く雪道を進む竜車の中で、レオンは窓の外を眺めていた。
灰色の空から、白い雪が静かに降り続いている。
「急がないとな」
間に合わなければ意味がない。
レオンが向かっているのは、ノルディア領。
そして、グラニウス・ノルディアが眠る墓所だった。
父の命日。
一年に一度、何があっても必ず墓前へ行くと決めている日だった。
レオンは、クロエへ告げた言葉を思い出し、小さく笑った。
「父上……」
会いたい家族がいる。
その言葉に、嘘はなかった。
ただ、その家族とは、もう二度と生きて言葉を交わすことができないだけだ。
竜車は白く染まった街道を、ノルディアへ向かって走り続ける。
その上へ、雪が静かに降り積もっていく。
それは、亡き父へ会いに行くための帰り道だった。




