第35話 約束と嘘
最初の取引から三ヶ月が経ち、レオンは再びグランツの宿場町へ向かっていた。
ただし、今回乗っているのは以前まで使っていた馬車ではない。
グランツ商会から購入した二頭の走竜と、それらが引く竜車だった。
二頭の走竜が、力強く街道を駆け抜けていく。
普通の馬車であれば、ノルディアからグランツの宿場町までは六日かかる。しかし、走竜が引く竜車ならば、僅か二日で到着できる。
購入する時には高いと感じたが、実際に使ってみると、その価値がよく分かった。
「よい買い物でしたね」
向かいに座っていたゼムが、満足そうに言った。
レオンは窓の外を流れていく景色を眺めながら、少し苦笑する。
「金貨二百五十枚は痛かったけどな」
「ですが、時間は買えました」
「ああ、そうだな」
それは間違いなかった。
商売をする上で、移動にかかる時間は重要だ。
特に、レッドボアの肉のような、足の早い生鮮品を扱うのであれば、輸送時間が短くなるほど、鮮度の高い状態で商品を届けることができる。
ノルディアから宿場町まで六日かかっていた時間が、僅か二日になる。
高い買い物ではあったが、将来的に得られる利益まで考えれば、決して無駄ではなかった。
レオンは膝の上に置いていた帳簿を開いた。
そこには、ノルディア領で進めてきた騎士団改革やレッドボアの肉を扱う事業、領地全体の収支など、様々な数字が記されている。
◇
騎士団改革による年間経費削減。
金貨百二十枚。
◇
以前のノルディア騎士団では、魔獣討伐を行うたびに多くの負傷者が出ていた。
新人兵が命を落とすことも珍しくない。
戦死者の遺族へ支払う補償金。
失った兵士を補うための新たな人員の募集と育成。
戦闘で破損した武器や防具の買い直し。
その全てが、領地の財政にとって大きな負担となっていた。
しかし、今は違う。
新人兵は後方に配置し、弓や罠、回復薬の運搬などを担当させる。
中堅兵には槍を持たせ、前衛の後ろから攻撃と牽制を行わせる。
そして、最も経験を積んだベテラン兵を前衛と盾役に配置する。
さらに、最前列の兵士達には、帝国製の大盾と重鎧を与えた。
その結果、魔獣討伐における死者は、ほぼゼロにまで減っている。
兵士達の命を守れただけではない。
遺族への補償や新兵の募集、装備の買い直しに必要だった費用も大きく減少した。
騎士団改革は、確かな成果を上げ始めていた。
そして、レッドボアの肉を扱う新たな事業も、順調に進んでいる。
クロエとの初めての取引で運んだのは、レッドボア十頭分の肉だった。
それが王都で金貨四十枚で売れたという。
今回は、二十四頭分。
前回の倍以上の量を竜車へ積んでいる。
「順調ですな」
帳簿を見ていたゼムが言うと、レオンも頷いた。
「ああ。まだ小さな商売だけどな」
それでも、確実に前へ進んでいる。
何もしなければ、得られなかった金だ。
レオンは帳簿の最後のページを開いた。
そこには、クラリスを救うために必要な資金と、現在
までに確保できた金額が記されている。
◇
目標 金貨二万枚。
現在 金貨六十五枚。
◇
「先は長いな……」
レオンが思わず呟くと、ゼムが帳簿へ目を向けた。
「金貨二万枚ですか。途方もない金額ですな」
「まだ、全然足りない」
レオンは苦笑した。
現在の金額は、目標のほんの一部に過ぎない。
「何にお使いになるおつもりで?」
ゼムが尋ねる。
レオンはすぐには答えず、僅かに考えた。
クラリスが奴隷オークションへ出品される未来。
その少女を確実に救うため、どれほど値段がつり上がっても競り落とせるだけの資金を用意しようとしている。
しかし、そのことを今のゼムへ説明することはできない。
「将来、必要になる」
レオンは、それだけ答えた。
ゼムは呆れたように首を横へ振る。
「相変わらず、秘密主義ですな」
「そのうち話すさ」
本当の理由は、まだ話せない。
それでも、六年後までには必ず金貨二万枚を集める。
レオンは帳簿に記された数字を見つめながら、改めて決意を固めた。
ノルディアを出発して二日後、竜車はグランツの宿場町へ到着した。
レオンが待ち合わせ場所である中央広場へ向かうと、クロエはすでに到着していた。
迷彩柄のフード付きマントから覗く灰色の髪。
三ヶ月ぶりに見る、すっかり見慣れた姿だった。
レオンに気づいたクロエが、片手を上げる。
「久しぶり」
「久しぶりだな」
レオンも片手を上げて応えた。
挨拶を終えると、クロエの視線はすぐに竜車の荷台へ向かった。
前回よりも明らかに大きな荷台を見て、少し驚いた表情を浮かべる。
「増えてる」
「前に、倍以上でも売れると言っただろ?」
「十頭分から、随分増やしたね」
「今回は二十四頭分だ」
クロエは、感心したように頷いた。
「すごいね」
「走竜のおかげだな」
走竜を使ったことで、輸送できる量が増えただけではなく、到着までにかかる時間も六日から二日に短縮された。
高い買い物ではあったが、ブロドとの商談で購入した判断は間違っていなかった。
「それじゃあ、僕も頑張らないとね」
クロエは竜車に積まれた肉を見ながら笑った。
「全部、売るんだから」
今回の取引も順調に進んだ。
前回よりも早く引き渡すことができたため、肉の鮮度を長く保つことができる。
その上、取引量が二十四頭分へ増えたことで、王都以外の販売先も探す必要が出てきた。
どの町へ、どれだけの量を送るのか。
販売価格をどの程度に設定するのか。
一度に全てを市場へ出すのか、それとも少しずつ流通させて希少価値を保つのか。
二人で話し合う内容は、前回よりも遥かに増えていた。
クロエが各地の需要や販売先について説明し、レオンが輸送費や利益を計算する。
話し合いを続けているうちに、いつの間にか夕方になっていた。
クロエが帳簿を閉じたことで、今回の取引も無事に終了した。
一通りの話を終えた後、二人の間に短い沈黙が流れる。
やがて、レオンが何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば」
「ん?」
クロエが顔を上げる。
「今日は、空いているか?」
その言葉を聞いた瞬間、クロエの動きが止まった。
王都で交わした食事の約束。
前回グランツの宿場町で再会した時は、商談が予想以上に長引いたため、食事へ行くことができなかった。
レオンは今日なら行けるだろうと考えていた。
クロエも、この日が来ることを楽しみにしていた。
しかし、クロエは僅かに視線を落とした。
「……ごめん」
レオンが不思議そうに首を傾げる。
「仕事か?」
クロエは答えるまでに少しだけ迷った。
「うん。少し予定があるんだ」
レオンは、それ以上理由を聞かなかった。
「そうか。それなら仕方ないな」
クロエは申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね」
「気にするな。商人は忙しいからな」
レオンも普段と変わらない笑顔を返した。
その様子を見て、クロエは僅かに安堵する。
「そういうこと」
だが、本当は仕事ではなかった。
それでも、今のクロエには本当の理由を話すことができなかった。
「じゃあ、次だな」
レオンが言う。
「うん」
クロエも頷いた。
「次は絶対に行くよ」
「ああ、約束だ」
二人は改めて食事へ行く約束を交わすと、取引を終えて別れた。
その日の夜、クロエは一人でグランツの宿場町から竜車で南西に在る、街の外れを歩いていた。
向かっている場所に、今は何もない。
正確には、クロエが訪れたいと思っている場所は、もう存在していなかった。
四年前、大切な家族を失った場所。
今では整備され、何の変哲もない小さな広場になっていた。
人々が当たり前のように行き交い、昼間になれば子供達が楽しそうに遊んでいる。
この場所で過去に何があったのか、気に留める者は誰もいない。
だが、クロエだけが覚えていた。
広場の一角まで歩いたクロエは、静かにしゃがみ込み、持ってきた花束を置いた。
「ただいま」
返事はない。
墓はない。
石碑もない。
家族が生きていた証しとなる名前すら、どこにも残されていない。
それでもクロエは、四年間、毎年同じ日にこの場所を訪れていた。
「お母さん。レンに食事へ誘われたんだ」
クロエは、少しだけ笑った。
「レンって、変な人でさ」
夜風が吹き、広場へ供えた花を揺らす。
しかし、誰も答えてはくれない。
クロエの脳裏に、レンと名乗った少年の顔が浮かんだ。
「今日は断っちゃった……ごめんね」
そこで言葉を止め、しばらく俯く。
本当は、一緒に食事へ行きたかった。
前回約束が流れてから、今日こそは行けるかもしれないと、密かに楽しみにしていた。
それでも、この日だけは、ここへ来なければならなかった。
しばらく沈黙した後、クロエは夜空を見上げた。
「でも――」
誰にも聞かれないような、小さな声で続ける。
「次は、ちゃんと行くから」
その言葉を口にするのは、少しだけ恥ずかしかった。
だからこそ、誰もいないこの場所でしか言えなかった。
クロエはそのまま、しばらく花束の前へ座り続けた。
四年前に失った家族を想いながら。
そして、この時のクロエはまだ知らなかった。
次に約束した日には、今度はレオンが食事を断ることになるのだと。




