第390話 届かなかった手
目を覚ましたエドガーは、寝台の上でしばらく天井を見つめていた。
窓の外はまだ薄暗い。朝の鐘が鳴るまでには、時間がある。それでも、もう一度眠る気にはなれなかった。
寝台から起き上がり、椅子に掛けてあった制服を手に取る。袖を通し、襟元を整えたところで、胸に縫い付けられた家紋が目に入った。
地面に突き立てられた剣。
騎士爵家によくあるデザインだった。
父が準男爵位を授かった時も、家の紋章は変わらなかった。準男爵位は当代限りのものだ。父がさらに功績を重ねて男爵位を授かれば、エドガーも貴族の子として認められる。そう信じていた。
父は近衛兵隊長として王国に仕え、着実に功績を積み重ねてきた。周囲からは出世頭と評され、男爵位を授かる日もそう遠くないと言われていた。
エドガーも、父のように王国へ仕えるつもりだった。
いつか父が男爵になったなら、家の立場も変わる。父の背を追い、騎士として功績を重ねていけば、自分にも王国に認められる日が来る。幼い頃から、そんな未来を思い描いていた。
だが、成人の儀で起こした騒動が、その未来を変えた。
怒りに任せて魔法を暴発させ、何人もの子供を傷つけた。父は準男爵位を失い、騎士爵へ降格された。男爵位を授かる話も、当然立ち消えになった。
胸元の紋章は変わらない。
それでも剣を見るたび、父の降格と自分の過ちを思い出すようになっていた。
エドガーは制服の上着を着終えると、鞄を肩に掛けて寮を出た。
学園に入ってから、彼の周囲には誰もいなかった。
同じAクラスの貴族たちは、エドガーを見ると会話を止める。目が合っても、すぐに逸らす者が多い。時には、聞こえるように「貴族の面汚し」と囁かれた。
エドガーがAクラスにいるのは、家柄のおかげではない。火属性の適性が高く、魔力量も十分にあったからだ。入学時の選定では、その力が評価された。
それでも、周囲はその結果を素直に認めようとはしなかった。
彼らにとって、エドガーは貴族の名を汚した者だった。父親が準男爵であったことも、間もなく男爵位を得るはずだったことも、今となっては彼らの嘲笑を強める材料にしかならない。
その考え方は、かつてエドガー自身が持っていたものと、どこか似ていた。
平民は税を納め、王国を支える者だ。貴族とは違う。そう教えられてきた。
成人の儀の前まで、エドガーはそれを疑わなかった。
貴族は王国を導く立場にあり、平民はその下で働く。家で聞かされた言葉を、当たり前のこととして受け止めていた。平民の少年に身分の違いを指摘された時も、父を侮辱されたと感じて激昂した。
そして、魔法を暴発させた。
あの日、自分の火傷を治したのは、平民の少女だった。
エリシアは、誰が貴族で誰が平民かを気にしなかった。火傷に苦しむ子供たちを一人ずつ癒やし、最後には自分に傷を負わせたエドガーまで治してくれた。
彼女はエドガーを責めなかった。
自分が彼女に向けた言葉を思い返すたび、胸の奥が重くなる。だからこそ、学園で孤立しているエリシアに気づいた時、何度か声を掛けようとした。
しかし、自分が話しかければ、彼女まで「貴族の面汚しとつるんでいる」と言われるかもしれない。彼女への非難が今より強くなるかもしれない。
そう考えると、足が止まった。
結局、エドガーは何もできずにいた。
朝の廊下には、まだ人影が少なかった。教室に着いても、室内には誰もいない。エドガーは自分の席に鞄を置き、授業の準備を済ませた。
窓の外を眺めていると、廊下から小さな話し声が聞こえてきた。
近づいてくる足音は二人分だった。
扉が開き、アデリーナとリゼットが教室へ入ってくる。二人は廊下を見回してから、エリシアの席へ向かった。エドガーがいることには気づいていないようだった。
アデリーナが手をかざす。
指先から流れ出た水が、エリシアの椅子の座面を濡らしていった。水は布地に染み込み、椅子の縁から床へ滴る。
リゼットが、くすりと笑った。
「これで、今日も座れませんわね」
エドガーは席を立った。
「何をしている」
二人が振り返る。アデリーナの表情から、笑みが消えた。
アデリーナとは、幼い頃から顔を合わせてきた。家同士の付き合いがあり、子供の頃には同じ場所で遊んだこともある。エドガーにとって、彼女は遠い家の令嬢ではなかった。顔を合わせれば自然に言葉を交わす、身近な相手だった。
幼い頃のアデリーナは、気に入らないことがあれば顔に出す子だった。勝負に負ければ悔しがり、次は負けないと食い下がる。エドガーが失敗すれば、遠慮なく笑うこともあった。
それでも、彼女が今のように冷たい言葉を投げつける姿は知らなかった。
成人の儀で再会した時も、以前のように話せると思っていた。
だが、あの日を境に彼女の態度は変わった。
「エリシアの椅子に水をかけるのはやめろ」
「何のことですの?」
「今、自分でやっていただろう」
アデリーナは濡れた椅子へ目を向け、それからエドガーを見た。
「魔術の練習をしていただけですわ。誰かのように、魔法を暴発させてはいけませんもの」
エドガーは息を呑んだ。
成人の儀で自分が起こした失敗を、アデリーナは笑顔のまま持ち出した。皮肉だと分かっていても、すぐに返す言葉が出てこなかった。
「人の椅子に向けて練習するな」
「椅子が濡れただけですわ。誰かを怪我させたわけでもありませんのに」
アデリーナは涼しい顔で言い返した。
「貴族もどきのあなたが、わたくしに何の用ですこと?」
その言葉が胸に刺さった。
貴族もどき。
エドガー自身は爵位を持たない。父の準男爵位も失われた。その事実を、アデリーナはよく知っている。
「昔からの知り合いだろう」
「昔の話を持ち出されても困りますわ」
アデリーナの声は冷たかった。
リゼットが二人の間に口を挟む。
「せっかくお父上が近衛兵隊長になられ、男爵位も授かるはずでしたのに。あなたの愚行のせいで、お父上は降格された。準男爵位を失って騎士爵になったというのに、よくものうのうとAクラスにいられますわね」
エドガーは拳を握った。
父のことを持ち出されれば、何も言い返せない。父が降格されたのは、自分の行動が原因だった。成人の儀で魔法を暴発させ、怪我人を出した。家の名を汚したと言われても、否定できない。
それでも、エリシアの椅子を濡らす理由にはならなかった。
「……だからといって、エリシアに当たる理由にはならない」
やっとのことで、それだけを口にした。
「エリシアさんに当たってなどいませんわ」
アデリーナは表情を変えずに答える。
「水がかかった程度で、そんなに目くじらを立てることかしら」
二人は踵を返した。
「行きましょう、リゼット」
「ええ」
リゼットは教室の扉まで歩き、そこで一度、エドガーを振り返った。
「ちっぽけな正義感で余計なことに関われば、お父上から騎士爵まで取り上げられますわよ」
エドガーの喉が詰まった。
リゼットは、彼が反論しないのを確かめるように目を細めると、アデリーナの後を追って教室を出ていった。
扉が閉まる。
エドガーは、すぐには動けなかった。
父の騎士爵まで取り上げられる。
そんなことが本当に起きるのかは分からない。リゼットがどこまで本気で言ったのかも分からなかった。それでも、今の父には以前のような後ろ盾がない。近衛兵隊長としての地位も、準男爵の位も失っている。王権派の貴族たちが父をどう見るかは、エドガーにも想像できた。
自分が誰かに告げれば、アデリーナとリゼットは否定するだろう。証拠もない。エドガーが口を挟んだことだけが問題にされるかもしれない。
そして、父が再び爵位を失えば、今度こそ立ち直れない。
エドガーは濡れた椅子を見た。座面には水滴が残り、床にも小さな水たまりができている。
止めることはできなかった。
声を掛けた。だが、リゼットの言葉を聞いた後は、二人を追いかけることも、教師に報告することもできなかった。
正義感だけでは、父も家も守れない。
そう思ってしまった自分が、ひどく情けなかった。
やがて、生徒たちが登校してきた。
貴族の子供たちは、友人同士で挨拶を交わし、席の周りに集まって話している。エドガーの近くを通る者はいても、声を掛けてくる者はいなかった。
エリシアが教室へ入ってきた。
彼女は自分の席へ向かい、濡れた椅子に気づいて足を止めた。周囲を見回すことはせず、鞄から布を取り出して座面を拭き始める。
誰かに尋ねることも、教師へ訴えることもしなかった。
椅子が乾くと、エリシアは布をしまい、教科書を取り出して授業の準備を始めた。何事もなかったようにノートを開く。
エドガーは、さっき見たことを伝えるべきだと思った。
アデリーナとリゼットが水をかけていた。そう話せば、エリシアは理由を知ることができる。
だが、告げた後はどうなるだろう。
二人は否定するだろう。エドガーの証言だけでは、彼女たちを責めることはできないかもしれない。むしろ、エドガーが二人を陥れようとしたと噂される可能性もある。
そして、リゼットの言葉が頭をよぎった。
『ちっぽけな正義感で余計なことに関われば、お父上から騎士爵まで取り上げられますわ』
父の顔が浮かぶ。
エドガーが騒ぎを起こしたせいで、父はすでに大切なものを失っている。これ以上、父に迷惑を掛けるわけにはいかない。
エドガーは席を立ちかけ、動きを止めた。
あの日、彼女はエドガーの火傷を治した。
自分が彼女にしたことを、彼女は責めなかった。
それなのに今、自分は彼女に声を掛けることさえできない。
エドガーは強く拳を握った。
教室の扉が開き、アデリーナとリゼットが戻ってきた。二人は何事もなかったように席へ着く。
エリシアはノートを開き、授業が始まるのを待っていた。
エドガーは、結局何も言えなかった。
鐘が鳴り、教師が教室へ入ってくる。生徒たちは席に着き、授業が始まった。
教師の声を聞きながらも、エドガーの意識は濡れた椅子から離れなかった。
自分が黙っていたせいで、エリシアは誰が椅子を濡らしたのか知らないままだ。
その事実が、胸の奥に重く沈んでいった。
授業が進むにつれ、エドガーは何度かエリシアの方を見た。
彼女は教師の説明を聞きながら、ノートに丁寧に書き込んでいる。質問をされれば、落ち着いて答えていた。平民だからといって、授業についていけないわけではない。むしろ、教えられたことを逃すまいとするように、真剣に学んでいた。
休み時間になると、周囲の生徒たちは友人同士で集まった。授業の内容や家の話、休日の予定を話している。エリシアは席を立たず、次の授業の教科書を開いていた。
誰かが彼女に話しかけることはなかった。
エドガーは、何度も声を掛ける機会を探した。
「さっきはすまなかった」と言うべきだろうか。椅子を濡らしたのがアデリーナたちだと教えるべきだろうか。
だが、話しかければ、周囲の生徒たちが気づく。アデリーナたちも気づくだろう。彼女が自分と話したことで、また何か言われるかもしれない。
考えているうちに、休み時間は終わった。
昼休みも同じだった。
昼休みになると、生徒たちは食堂へ向かう者と、教室に残って友人と食事をする者に分かれていった。
エリシアは鞄を持って席を立つ。昼食は、いつも魔法具研究部の部室で取っていた。以前、教室で食べていた時に「食事の匂いがする」とアデリーナたちに言われて以来、教室を避けるようになったのだ。
エドガーも鞄から食事を取り出しかけたが、手を止めた。
どこかで一人で食べよう。そう思って席を立ちかけた時、エリシアが教室を出ていくのが見えた。
声を掛けるなら、今かもしれない。
けれど、結局エドガーは動けなかった。彼女の姿が廊下の向こうへ消えてから、ようやく鞄から食事を取り出す。
食べる気は起きなかった
成人の儀の後、エリシアに謝った時、彼女は『目の前で苦しんでいる人を助けたかっただけです』と答えた。
その言葉が何度も思い返される。
彼女にとっては、助けた相手が誰かなど関係なかったのだろう。貴族でも平民でも、傷ついている人を治した。それだけだった。
自分は、彼女から何を受け取ったのだろう。
感謝を伝えただけで、何かを返したつもりになっていたのではないか。
エドガーは食事を一口だけ口に運んだ。味がしなかった。
その後の授業でも、彼はエリシアに声を掛けられなかった。
授業が終わる頃には、朝から何もできなかったという思いが、重く積み重なっていた。
その日の授業がすべて終わると、エドガーは教科書を鞄にしまった。
教室では、何人かの生徒が連れ立って帰り支度をしている。アデリーナとリゼットも、ほかの令嬢たちと話しながら廊下へ出ていった。
エドガーは二人の姿を目で追わなかった。
追えば、今朝のことを思い出す。思い出せば、何もできなかった自分をまた責めることになる。
教室を出て、男子寮へ戻った。部屋に鞄を置き、制服の上着を脱ぐと、胸元の剣の紋章が目に入った。
アデリーナの言葉が、また頭の中で響く。
『誰かさんのように、魔法を暴発させてはいけませんもの』
続いて、リゼットの声が蘇る。
『お父上から騎士爵まで取り上げられますわよ』
エドガーは椅子に腰を下ろし、両手を組んだ。
扉を叩く音がした。
「入ってもいいか?」
聞き覚えのある声に、エドガーはすぐに立ち上がった。
「アレク殿下……!」
扉を開けると、アレクが立っていた。
エドガーはその場で片膝をつき、顔を伏せた。王族を前にした時の礼を取る。
「楽にしてくれ。話があって来た」
「はっ。失礼いたしました。どうぞお入りください」
エドガーは立ち上がり、一歩下がってアレクを部屋へ招き入れた。アレクは勧められた椅子に腰を下ろす。エドガーも向かいの席に座ったが、背筋を伸ばし、姿勢を崩さなかった。
王子と、爵位を持たない騎士爵家の子。二人の間にある身分の差は、部屋に入ってきた時から明らかだった。
「君の属性は、確か火だったな?」
「はい。火属性でございます」
「魔力量も十分にあると聞いている」
エドガーは、なぜそれを尋ねられたのか分からず、返事を待った。
「セリオス枢機卿が、王都の北にあるスラム街で慈善活動を行うそうだ。炊き出しをして、体調を崩した人や怪我人の診療もするらしい」
「慈善活動でございますか」
「ああ。セリオス枢機卿は、活動を行う許可を王国から得ているそうだ。費用も枢機卿自身が負担するらしい」
アレクは少し言葉を区切った。
「俺も同行できないか、枢機卿にお願いするつもりでいる。よければ、君も一緒にどうかと思ってな」
エドガーは顔を上げかけ、すぐに思い直して視線を戻した。
「私に、でございますか?」
「ああ。火属性の魔法が使えるなら、炊き出しの準備で手を貸せるかもしれない。それに、君は実技の授業でも魔法の制御を学び直していると聞いた」
エドガーは返事に迷った。
アレクがなぜ自分を誘うのか、すぐには理解できなかった。王子の周りには、同行者の候補などいくらでもいるはずだ。わざわざ孤立している自分に声を掛ける理由が分からなかった。
「恐れながら、なぜ私をお誘いくださったのでしょうか」
「君がAクラスで孤立していることは知っている」
アレクは率直に答えた。
「だが、同情で誘っているわけではない。君の火属性と魔力量は授業で確認されている。それを活動に役立てられると思った。もちろん、君が望まないなら断って構わない」
エドガーは言葉を失った。
成人の儀での失敗を知っているアレクが、それでも自分の力を役立てられると言った。嘲るでもなく、過去の失敗だけで判断するでもない。
アレクは返事を急かさず、静かに待っていた。
「どうだ? 一緒に来ないか?」
エドガーは、朝の教室を思い出した。
濡れた椅子を拭くエリシア。誰にも尋ねず、何事もなかったように授業の準備をする姿。
声を掛けたかったのに、何も言えなかった自分。
誰かを傷つけた自分が、人の役に立てるのかは分からない。それでも、誘いを断って寮にこもれば、また何も変わらないままだ。
今度は、自分の力を誰かの役に立てるために使いたかった。
「……参加を希望いたします」
エドガーは頭を下げた。
「セリオス枢機卿がお認めになるのであれば、私も同行させてください」
「分かった。君の希望は俺から枢機卿に伝えておこう。最終的な判断は枢機卿に任せる」
「ありがとうございます、殿下」
「礼を言うのは、参加が決まってからでいい」
アレクは立ち上がった。エドガーもすぐに立ち、扉まで見送る。
「エドガー」
扉の前で、アレクが振り返った。
「現地では、身分や立場より、目の前の人に何が必要かを考えてほしい」
その言葉に、エドガーは成人の儀での自分を思い出した。
「はい。肝に銘じます」
アレクが部屋を出ていった。
扉が閉まった後も、エドガーはしばらくその場に立っていた。
朝、アデリーナたちがエリシアの椅子を濡らしているのを見た時、彼は止めようとした。だが、最後まで言い切れなかった。
慈善活動への参加が認められたとしても、そこで何ができるかは分からない。セリオス枢機卿が自分を受け入れるかどうかも、まだこれからだ。
それでも、今度は逃げたくなかった。
エドガーは胸元の家紋へ目を落とした。地面に突き立てられた剣は、何も語らない。
父の爵位も、失った将来も、元には戻らない。
それでも、これから自分が何をするかは選べる。
エドガーは、固く握っていた手をゆっくりと開いた。




