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乙女ゲーの辺境伯に転生したので奴隷落ちする悪役令嬢を金貨2万枚で救おうと思います  作者: 蛙の子はお玉杓子
第10章 癒しの護り手と悪役令嬢

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第389話 診療の前に

 朝、教室へ入ったエリシアは、自分の机の前で足を止めた。


 天板が濡れている。


 水は机の端から垂れ、床にも小さな水たまりができていた。


 以前、濡れていたのは椅子だけだった。誰かが水をこぼしたのだろうと思い、その時は深く考えなかった。けれど今日は、机まで濡れている。


 偶然なのだろうか。


 エリシアは教室を見回した。すでに何人かの生徒が登校していたが、誰もこちらを見ていない。聞いてみても、心当たりがあると答える者はいないだろう。


 濡れたままでは、授業の準備ができない。


 エリシアは鞄から布を取り出し、机を拭き始めた。布が水を吸い、天板に残っていた水滴が消えていく。何度か布を絞り、床に垂れた水も拭き取った。


 机が乾いたのを確かめてから、鞄を開ける。教科書とノートを取り出し、いつものように授業の準備を始めた。


 何事もなかったように。


「どうした?」


 声を掛けられ、エリシアは顔を上げた。


 アレクがすぐそばに立っていた。手には教科書を持っている。登校してきたところらしい。彼は机の表面と、エリシアが手にしている布を見比べた。


「水をこぼしてしまいました。もう拭いたので、大丈夫です」


 エリシアは笑顔を作った。


 嘘をつくのは得意ではない。口元が少しこわばったのを、自分でも感じた。それでも、誰かにされたことだとは言いたくなかった。


「そうか。教科書やノートは濡れなかったか?」


「はい。鞄に入れていたので、平気でした」


「ならいいが……本当に大丈夫なのか?」


「はい。お気遣いありがとうございます」


 エリシアはもう一度笑った。今度は自然に見えるよう、口元に力を入れる。


 アレクは、濡れていた机を見てからエリシアの顔へ視線を戻した。何か聞きたそうな様子だったが、教室にはほかの生徒たちもいる。問いただせば、周囲の注目を集めることになる。


 アレクはそれ以上尋ねなかった。


「昨日の件なんだが」


 彼は、声の調子を少し落とした。


「俺に加えて、もう一人も同行させてもらえないか、セリオス枢機卿に聞いてくれないか?」


 エリシアは、昨日の放課後に交わした会話を思い出した。セリオスの慈善活動について話した時、アレクは自分も同行したいと言っていた。今日の相談は、それにもう一人を加えられないかということらしい。


「分かりました。今日の授業で、セリオス様にお伝えします」


「頼む。参加する者を決めるのはセリオス枢機卿だ。俺が勝手に決めていいことではないからな」


「はい。希望をお伝えします」


 アレクは頷き、自分の席へ向かった。


 そのやり取りを、教室にいた何人かの生徒が見ていた。


 エリシアが机を拭いていたことに気づいていたのか、アレクが心配して声を掛けたことに注目したのかは分からない。けれど、彼が席に着くと、生徒たちは小声で話し始めた。


 エリシアは聞こえないふりをして、教科書を開いた。


 机が濡れていた理由は分からない。誰がしたのかも分からない。騒ぎにすれば、もっと目立ってしまうような気がした。


 アレクに心配を掛けたくない気持ちもある。


 それに、クラリスから告げられた言葉が、まだ胸の奥に残っていた。


『立場を弁えなさい』


 エリシアはノートを開き、授業が始まるのを待った。


     *


 その日の午後、エリシアはセリオスとの個人授業を受けるため、特別講義室へ向かった。


 個人授業を受けるようになってから、すでに何度か授業を重ねている。最初に魔力の流れを感じ取る練習をし、その後は回復魔法を使う時の感覚や、魔力を調整する方法を学んできた。


 今日は、回復魔法を使う前に必要な診察と、感染を防ぐための処置を扱う予定だった。


 教室の机には、清潔な布、水を張った器、包帯、小さな薬瓶が並べられている。その横には、人の身体を描いた図が置かれていた。


「こんにちは、セリオス様」


「こんにちは、エリシアさん。今日は診療を始める前の準備を学びましょう」


 エリシアは席に着き、ノートを開いた。


「怪我をした人を治療する時、まず何を確かめるべきかは覚えていますか?」


「傷の場所や深さ、それから出血の量です」


「その通りです。では、患者に触れる前に気をつけることは?」


「手を清潔にすること……でしょうか」


「ええ。傷に触れる時は、できるだけ清潔な布や道具を使う。患者ごとに同じ布を使い回さない。血液や体液が付いたものは別の人には使わない。そして、治療の後は手をよく洗う。基本ですが、とても大切です」


 セリオスは水の器を示した。


「見た目に汚れがなくても、病気の原因になるものが付いている場合があります。特に傷口や血液に触れる時は、注意しなければなりません」


 エリシアは説明をノートに書き留めた。


「北のスラム街では、怪我をしても医師に診てもらえない人がいます。炊き出しの場にも、体調を崩した人が来るでしょう。診察する側が感染を広げてしまえば、助けるために訪れたのに、かえって人々を苦しめることになります」


 セリオスは清潔な布を一枚取り上げ、机の上で広げた。


「怪我をした人へ近づく前に、自分の手に傷がないか確かめる。道具や布が汚れていないか確認する。治療が終わったら、使ったものを分けて片付ける。診療所へ行く時は、それを徹底してください」


「はい」


「衛生を保つことは、病気の予防にもつながります。汚れた水や食べ物から病気になることもありますし、人が密集して暮らす場所では、一人の病気が周囲へ広がりやすくなります」


 セリオスは、人の身体を描いた図を机の中央へ移した。


「スラム街の一角には、娼館が並ぶ通りがあります。そこで働く女性たちの中には、体調が悪くても休めない人がいます」


 エリシアは、ペンを動かす手を止めた。


「名の知られた娼婦の中には、客を選べる人もいるでしょう。しかし、立場の弱い人は相手を選べないことがあります。そのため、性病にかかる危険が高くなります」


「性病の患者さんも、無料の診療所に来るんでしょうか?」


「来る人はいるでしょう。娼館で働く女性に限りません。病気を抱えていても、治療を受けられない人はいます。症状を隠したまま働いている人もいるかもしれません」


 セリオスの声は落ち着いていた。患者を責めたり、特別な存在として遠ざけたりする響きはない。ただ、現地で起きていることを必要な知識として伝えている。


「診察では、本人が話しにくそうにしていても、責めたり恥をかかせたりしてはいけません。必要なことを静かに尋ね、治療につなげるのです」


「分かりました」


「感染の疑いがある場合も、患者を避けるのではなく、正しい対策を取ります。手を洗い、道具を分け、血液や体液に直接触れないようにする。手順を守れば、自分を守りながら患者を診ることができます」


 エリシアはノートへ「患者ごとに布を分ける」「治療後は手を洗う」と書き加えた。


「娼館で働く人の中には、妊娠している女性もいます。スラム街では、妊娠しても医師に診てもらう費用がなく、一人で出産を迎える人もいます」


「一人で……」


「助けを得られないまま出産することは、母親にも子どもにも大きな危険があります。出産中に命を落とすこともあれば、生まれた子どもが助からないこともあります」


 エリシアは、机の上の身体図を見つめた。


 妊婦の身体には胎児がいる。母親だけを治療すればよいとは限らない。自分の回復魔法が胎児にどのような影響を及ぼすのか、エリシアには分からなかった。


「セリオス様。妊婦の方にも、回復魔法を使うことはできるんでしょうか?」


「エリシアさんの回復魔法は、私たちが知っている治癒魔法とは仕組みが異なります。傷を跡もなく治せることは確認しましたが、身体の中で何が起きているのか、副作用があるのかは分かっていません」


 セリオスはエリシアをまっすぐ見た。


「ですから、妊婦には使わないでください。母親だけでなく、胎児にどのような影響が出るか分からない以上、危険を冒すべきではありません」


「はい」


「体調の悪そうな妊婦がいたら、まず状態を確かめてください。そして、必ず私に相談すること。回復魔法で治せそうに見えても、自分だけで判断してはいけません」


 エリシアは膝の上で両手を重ねた。


 目の前で苦しんでいる人がいれば助けたい。けれど、助けたいという気持ちだけで魔法を使えば、別の人を傷つけてしまうかもしれない。


「分かりました。妊婦の方には使わず、セリオス様に相談します」


「お願いします。治せる力があるからといって、いつでも使うべきとは限りません。使わない判断も、治療に関わる者には必要です」


「はい」


 セリオスは浅い傷の模型を机に置いた。


「では、これはどうでしょう。表面を浅く切った傷です。まず何をしますか?」


「傷の周りを清潔にして、出血を止めます」


「そうです。では、深く切れて出血が多い場合は?」


「傷口を押さえて止血し、すぐに医師を呼びます。回復魔法を使うかどうかは、状態を確かめてから判断します」


「よくできました」


 セリオスは傷口を清潔な布で覆い、包帯を巻いてみせた。エリシアも同じ手順を繰り返す。傷の場所を確かめ、布を用意し、出血を止めてから患部を保護する。


 魔法を使う前にできることがある。


 エリシアは、そのことを何度も確かめた。


 続いて、セリオスは毒や麻痺への対処について説明した。毒の種類によって症状が異なること。痺れが出ても、すぐに魔法をかければよいとは限らないこと。呼吸や意識の状態を確かめ、危険な兆候があれば、治癒魔法より先に人を呼ぶ必要があること。


「毒や麻痺を取り除く魔法もあると聞きました」


「症状を和らげたり、身体が毒を排出するのを助けたりする魔法はあります。ただし、すべての毒に効くわけではありません。原因が分からないまま魔法を使うのは危険です」


「回復魔法が使えるからといって、何でも治せるわけではないんですね」


「そうです。だからこそ、身体の仕組みや治療方法を学ぶ必要があります」


 授業の終わりを告げる鐘が鳴った。


 エリシアはノートを閉じた。そこには、治療の手順や感染対策、妊婦に回復魔法を使ってはいけない理由が書き込まれていた。


「今日の授業で、覚えておくべきことは何でしょう?」


 セリオスが尋ねた。


「治療を始める前に、患者の状態を確かめること。感染を防ぐため、手や道具を清潔にすること。それから、妊婦には私の回復魔法を使わず、必ずセリオス様に相談することです」


「よく整理できていますね」


 セリオスは診療で使う道具を片付け始めた。


 エリシアは、朝アレクに頼まれたことを思い出した。


「セリオス様。北のスラム街での慈善活動のことですが、アレク殿下から、ご自身に加えてもう一人参加できないか、確認してほしいと頼まれています」


 セリオスは手を止めた。


「アレク殿下も同行を希望されているのですね。もう一人の方とあわせて、殿下ご本人から直接お話を伺いたいですね」


「はい。もう一人の方のお名前は、まだ聞いていません」


 セリオスは少し考えた。


 慈善活動そのものは、すでに王国へ申請し、実施の許可を得ている。費用はセリオス自身が負担する予定だった。参加者を誰にするかは、活動を主催するセリオスが判断することになる。


「分かりました。参加者を決めるのは私ですから、アレク殿下から直接お話を伺ったうえで考えましょう」


「はい。殿下には、そうお伝えします」


「もう一人の方についても、殿下から聞いてみます。当日の活動内容や診療の注意事項は、参加者が決まってから説明することにしましょう」


「分かりました」


 セリオスは再び道具を片付け始めた。


「エリシアさんも、今日学んだことを忘れないでください。現地では、すぐに回復魔法を使うのではなく、まず相手の状態を確かめること。判断に迷ったら、必ず私に相談してください」


「はい。自分だけで決めないようにします」


「それが大切です」


 エリシアは礼をして、特別講義室を後にした。


 北のスラム街には、炊き出しを待つ人がいる。病気を抱えていても診てもらえない人がいる。妊娠しても頼れる人がなく、一人で出産を迎える女性もいる。


 聞いた話だけでも、胸が重くなった。


 それでも、知らないままでいるより、学んで、できることを考えたい。


 アレクは、もう一人を連れて同行したいと希望している。参加できるかどうかは、セリオスの判断を待つことになる。


 エリシアはアレクに伝えるため、その返事を忘れないよう心に留めた。


 朝、濡れた机を拭いたことは、誰にも話せていない。アレクは心配してくれた。けれど、エリシアは自分で水をこぼしたことにして、笑ってごまかした。


 胸に小さな孤独を抱えながら、エリシアはひとり教室へ戻った。

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