第381話 届かなかった言葉
朝食を終えたクラリスが女子寮の廊下へ出ると、ロザリアとミレイユが待っていた。
「クラリスさん、少し寮の中をご案内しましょうか」
ロザリアが穏やかに声を掛ける。
「寮の中、ですか?」
「書記をお願いするにしても、まずは学園や寮の様子を知っていただくのがよいと思いまして」
ミレイユが微笑みながら続けた。
「今朝は洗濯場を見に行きませんか。クラスごとの洗濯番の仕組みは、寮生活に関わる大事な決まりですから」
クラリスは二人の顔を見比べた。
生徒会の書記を引き受けるか、まだ返事はしていない。けれど、断ってもいない以上、案内を拒む理由もなかった。
「分かりましたわ。ご案内をお願いします」
「ありがとうございます」
ロザリアが先に歩き出し、ミレイユが隣に並ぶ。クラリスは少し後ろをついていった。
「実は、洗濯番について相談が寄せられているのです」
廊下を進みながら、ロザリアが言った。
「Aクラスの特待生が割り当てを辞退し、自分で洗濯をしたいと希望しているそうですの」
ミレイユの口調は柔らかかったが、クラリスには、これが単なる寮の案内ではないと分かった。
「本人が希望したのなら、まずは寮長に確認するべきですわね」
「ええ。規則上の扱いは、寮長に確認する必要がありますわ」
ロザリアは言葉を切り、クラリスの反応を窺った。
「ただ、Aクラスの方が自分で洗濯をすれば、Cクラス以下の生徒たちも『自分の分は自分で洗えばいい』と考えるのではないか、と心配する声もあるようです」
「特待生の方だけが特別扱いを受けていると見られれば、他の生徒の不満にもつながりますものね」
ミレイユが穏やかに付け加えた。
誰が相談を持ち込んだのか、二人は明言しない。けれど、クラリスに考えを述べさせようとしていることは明らかだった。
アデリーナとリゼット。二人は王権派の令嬢で、クラリスと同じ学年だ。昨日、生徒会室で話題に上がった令嬢たちでもある。
寮長の判断を聞くだけなら、二人が自分を連れてくる必要はない。書記候補として現場を見せ、どちらの立場に立つか確かめようとしているのだ。
「まずは寮長のお話を伺いましょう」
クラリスは表情を崩さず答えた。
「もちろんですわ」
ロザリアは微笑んだ。
「ただ、寮長の判断を待つ間にも、周囲の目はございます。クラリスさんがどうお考えなのか、皆さん気にされるでしょうね」
柔らかな声だった。けれど、逃げ道を塞ぐ言葉だった。
「ええ。それならなおさら、わたくしが先に判断を口にするべきではありませんわ」
クラリスが返すと、ミレイユの笑みがわずかに深くなった。
「慎重でいらっしゃいますのね。ですが、沈黙も受け取る方によっては意思表示になりますわ」
クラリスは答えず、洗濯場の扉へ視線を向けた。
ミレイユが扉を開く。
中にいた生徒たちが、一斉にこちらへ視線を向けた。その人垣の向こうに、クラリスはエリシアの姿を見つけた。家紋の刺繍がない制服で、籠を前に洗濯物を分けている。
アデリーナとリゼットは、エリシアへ歩み寄った。
「まあ。エリシアさん、本当にご自分で洗濯をなさるのですの?」
アデリーナが尋ねる。
「はい。フローラ様にお願いして、自分で洗うことを許可していただきました」
「Aクラスの方が洗濯場に立つなんて、聞いたことがありませんわ」
アデリーナの声には、驚きよりも咎める響きがあった。
「Aクラスの方がご自分で洗濯をなされば、Cクラス以下の生徒たちも『自分の分は自分で洗えばいい』と考えるかもしれませんわ。そうなれば、洗濯番の仕組みが崩れてしまいますの」
リゼットも続ける。
「寮の秩序を乱すことになるんですの。そのことをお分かりですか?」
エリシアは返事に迷っているようだった。
「私は、ただ……」
「ただ、何ですの?」
アデリーナが言葉を重ねる。
クラリスは閉じた扇子を握りしめたまま、成り行きを見ていた。ロザリアとミレイユも、少し離れた場所から様子を窺っている。
アデリーナとロザリア、リゼットとミレイユ。二組が幼い頃から親しくしてきたことも、それぞれの後ろ盾が生徒会長と副会長であることも、周囲には知られている。
アデリーナとリゼットを強く窘めれば、ロザリアとミレイユにも異を唱えることになる。人前で対立を晒せば、騒ぎが広がりかねない。
けれど、ここで何も言わなければ、沈黙も意思表示になる。先ほどのミレイユの言葉が、クラリスの胸に重く残っていた。
エリシアの希望を肯定したと受け取られるかもしれない。あるいは、アデリーナとリゼットの言葉を見過ごしたと取られるかもしれない。どちらにしても、黙ったままではいられなかった。
廊下から複数の足音が近づいてきた。洗濯場の入り口に姿を見せたのは、クラリスだった。その隣には、生徒会長のロザリアと副会長のミレイユが並んでいる。三人で連れ立って、後から洗濯場へ来たようだった。
アデリーナとリゼットは、二人の上級生へ軽く会釈してからクラリスに向き直った。
「クラリス様、ちょうどよいところへいらっしゃいましたわ」
アデリーナは、エリシアの籠へ視線を向ける。
「エリシアさんが、Aクラスなのに洗濯番を断って、ご自分で洗濯をなさるそうですの。Aクラスの方がそうなされば、Cクラス以下の生徒たちも自分の分は自分で洗えばよいと考えて、今の仕組みが崩れてしまうかもしれませんわ」
「寮の秩序にも関わることですの。クラリス様も、そうお思いになりますでしょう?」
その言葉に、皆の視線がクラリスへ集まった。
アデリーナとリゼット、そしてロザリアとミレイユ。四人の視線を受け、クラリスはようやく、この場へ連れてこられた理由を悟った。
寮の案内を受け、洗濯番への苦情を聞き、今はその当事者を前にしている。偶然ではない。ロザリアとミレイユは、クラリスに答えを求める場を整えていたのだ。
ここで沈黙すれば、エリシアの希望を肯定したと受け取られるかもしれない。何も言わずにいることはできなかった。
クラリスは閉じた扇子を握りしめた。視線をアデリーナとリゼットから、ロザリアとミレイユへ移す。焦りとためらいで表情が強張り、扇子を持つ手にも力が入った。
扇子を開き、口元を隠す。言いたくない言葉を口にするため、歯を食いしばった。その力が目元にまで及び、クラリスの目が細くなる。
「立場を弁えなさい」
それは、自分の侍女をたしなめる時に使う言葉だった。前に出すぎず、大人しくしていなさい。クラリスは、その意味を込めたつもりだった。
だが、エリシアが目を見開いた。その顔を見た瞬間、クラリスは思い出した。彼女は下町のパン屋の娘だ。侍女に向ける言葉の含みも、口元を扇子で隠す仕草の意味も知らない。
目を細めた自分の表情も重なり、エリシアには侮蔑として伝わったのだ。
「……申し訳ありません」
エリシアが小さく頭を下げた。
その表情を見た瞬間、クラリスは自分の言葉が彼女を傷つけたと悟った。
違う。そういう意味ではない。
訂正したかった。今すぐ、違うと伝えたかった。
だが、アデリーナとリゼットが見ている。ロザリアとミレイユも、次の言葉を待っている。
ここで庇えば対立が明らかになり、騒ぎが広がれば、エリシアが中心に置かれる。
クラリスは、喉までせり上がった言葉を飲み込んだ。
やがて、クロエが口を開いた。
「フローラ様を呼んできます」
そう言うと、クロエは洗濯場を出ていった。
その場には、重い沈黙が残った。
リゼットは扇子を閉じ、アデリーナはエリシアの籠へ視線を落とす。クラリスは口元を隠したまま、何も言わなかった。
エリシアがなぜ謝ったのか、クラリスには分かっていた。けれど、今はその謝罪を取り消す言葉さえ出せなかった。
やがて、洗濯場の入り口からフローラが入ってきた。クロエも、その隣にいる。
フローラは集まった人々を順に見渡し、落ち着いた足取りで近づいてきた。
「どうしましたか?」
アデリーナが一歩前に出た。
「エリシアさんが、ご自分で洗濯をしていらしたのです。Aクラスの方がこのようなことをなさるのは、寮の秩序に関わると思いまして」
「そうですの。寮の決まりを乱すことにもなりますわ」
リゼットが補足する。
フローラはエリシアの籠を見て、それからクラリスへ視線を移した。
「そうなのですか、クラリス様?」
クラリスはすぐには答えなかった。
扇子の向こうで、息を呑む音がしたように思えた。
そのわずかな間に、ミレイユが穏やかな声で口を挟む。
「圧をかけるなんて可哀想ですよ、フェルナードの聖女様」
丁寧な声だったが、言葉の端には棘があった。ミレイユはクラリスを見ず、フローラへ微笑みかける。
「彼女が自分で洗濯をしたいと望んだのであれば、本人の意思を尊重してあげてもよいのではありませんか」
「私も、そう思います」
ロザリアが落ち着いた口調で続けた。表情は穏やかだが、フローラとの間には見えない緊張が張り詰めている。
フローラは二人を一度見てから、エリシアへ向き直った。
「エリシアさんが洗濯番の権利を放棄し、ご自分で洗濯をすると希望されました。彼女の要望を受け、私が許可しました」
その声は静かで、はっきりしていた。
「洗濯番の割り当ては、寮長である私に任されております。本人が希望し、私が認めた以上、規則に反することはありません」
アデリーナは言葉を止めた。リゼットも、扇子を持つ手をわずかに下げる。
ミレイユは微笑んだまま、フローラを見つめた。
「聖女様がお決めになったのでしたら、私から申し上げることはありません」
それで、この場の空気がわずかにほどけた。
ロザリアは小さく頷き、ミレイユもそれ以上は何も言わなかった。アデリーナとリゼットも、これ以上はフローラの判断に異を唱えられないようだった。
「では、私は失礼します」
フローラはそう告げ、クロエへ目を向けた。
「クロエ、行きましょう」
「はい、フローラ様」
クロエは去り際に、もう一度だけクラリスを見た。
心配そうな目だった。けれど、何も言わないまま、フローラと一緒に洗濯場を出ていった。
クラリスは、クロエの背中を見送った。
「話は終わりましたわね」
アデリーナの声がした。
「洗濯を続けるのでしたら、どうぞご自由に」
リゼットもそう言い残し、二人はロザリアたちとともに洗濯場を離れていく。クラリスは最後までエリシアを見なかった。
扇子を握る指には、硬い感触が残っていた。扇子の骨を握りしめたせいで、白い指に薄く跡がついている。気づいても、手を開かなかった。
洗濯場を出ても、先ほどの場面が頭から離れなかった。
「お疲れではありませんか、クラリス様」
隣を歩くアデリーナが、気遣うように声を掛ける。
「いいえ。問題ありませんわ」
クラリスは微笑んだ。
「さすがクラリス様ですわ。あの場で余計なことをおっしゃらず、寮長の判断に従われるなんて」
リゼットが後ろから声を添えた。
「わたくし、安心いたしました。もしクラリス様まで特待生の肩を持たれたら、どうなることかと思っていましたもの」
クラリスの足が、わずかに止まりかけた。
特待生の肩を持つ。
その言葉は、先ほど自分が飲み込んだ言葉を、別の形で突きつけてきた。
「リゼットさん」
ロザリアがたしなめる。
「そのような言い方は、クラリスさんを困らせてしまいますわ」
「まあ、申し訳ありません。ですが、クラリス様がどちらのお考えなのか、皆さん気にしていらしたでしょう?」
ミレイユが柔らかく笑った。
「ええ。特に、"あの場"では」
クラリスは扇子を握り直した。
洗濯場の一件は、フローラが寮長として許可したと説明したことで収まった。誰も声を荒らげず、それぞれの立場を保ったまま場を離れた。
表面上は。
ロザリアとミレイユは、クラリスがエリシアを庇わなかったことを確認した。アデリーナとリゼットも、クラリスが自分たちの側に立ったと受け取っている。
そしてクラリスは、エリシアに『立場を弁えなさい』と告げた。
沈黙を避けようとして口にした言葉が、エリシアを傷つけた。結果として、クラリスはエリシアを庇わなかっただけでなく、彼女を責める側に立ったように見えただろう。
自分が沈黙したことで派閥同士の衝突は避けられた。けれど、その代わりにエリシア一人へ圧力が集中した。
自分は、争いを止めたのではない。
ただ、弱い立場の彼女へ押しつけただけだ。
「先ほどのことですが」
ロザリアが静かな声で切り出した。
「寮長の判断が出ました。エリシアさんの希望を認めた以上、あの件はこれで終わりにするのがよいでしょう」
確認のようであり、釘を刺す言葉でもあった。
「そうですね。これ以上話を大きくしても、誰の得にもなりません」
ミレイユが微笑む。
「クラリス様も、そうお考えでしょう?」
「ええ。寮長が許可したことに、わたくしが異を唱える理由はありませんわ」
クラリスは慎重に答えた。
「ただ……」
ロザリアが視線を向ける。
「ただ、何でしょう?」
穏やかな問いだった。けれど、余計な言葉を重ねるなという警告に聞こえた。
クラリスの脳裏に、扇子を開いた時のエリシアの顔が浮かぶ。
ここで「彼女に謝りたい」と言えば、何が起きるだろう。アデリーナとリゼットは、クラリスが特待生側へ傾いたと見る。ロザリアとミレイユは、書記候補としての自分を危うい存在と判断するかもしれない。
そして、その疑念は必ずエリシアへ返っていく。
「いえ。何でもありませんわ」
クラリスが答えると、ミレイユは満足そうに微笑んだ。
「それがよろしいと思います。エリシアさんのためにも」
クラリスは顔を上げた。
「エリシアさんのため、ですか?」
「ええ。あの方は、ただでさえ目立つ立場ですもの。これ以上、周囲の注目を集めれば、ご本人が困ってしまいますわ」
「特待生で、聖属性までお持ちですからね」
リゼットが口を挟む。
「本人にそのつもりがなくても、何かと話題になってしまいます。だからこそ、身の振り方には気をつけていただかないと」
クラリスの胸が鋭く痛んだ。
身の振り方。
立場を弁えなさい。
自分の言葉と、リゼットの言葉が重なった。
自分は、リゼットと同じことを言ったのだ。
「エリシアさんが悪いと決まったわけではありませんわ」
クラリスは平静を保った。
「ただ、周囲がどう受け取るかを考える必要はあるでしょう」
ロザリアが答える。
「クラリスさんも、そうお考えなのですよね?」
問いかけではなかった。同意を求めながら、クラリスの立場を固定しようとしている。
ここで否定すれば、先ほどの自分の発言まで否定することになる。肯定すれば、エリシアを責める側に立つことになる。
どちらを選んでも、逃げ道はなかった。
「……ええ。無用な騒ぎは避けるべきですわ」
答えると、ロザリアは満足したように微笑んだ。
「さすがクラリス様です。状況をよく見ていらっしゃいますね」
褒め言葉なのか牽制なのか、クラリスには判断できなかった。だからこそ、表情を変えられない。
「わたくしは、寮の規則に従っただけですわ」
「それが一番です」
ロザリアが淡々と応じる。
「誰か一人のために、全体の秩序を揺るがす必要はありませんもの」
クラリスは安堵できなかった。
誰か一人。
その言い方は、エリシアを寮の一員ではなく、秩序を乱しかねない例外として扱っていた。
アデリーナとリゼットは、先ほどのことなどなかったように次の茶会の話を始めていた。ロザリアとミレイユも穏やかに相槌を返している。
誰も、エリシアの顔には触れない。
それでよいのだろうか。
クラリスは歩きながら、洗濯場での出来事を思い返した。
あの言葉を口にする前、彼女は一瞬だけ迷った。
エリシアさんの希望を、わたくしは尊重します。
そう言えばよかったのだろうか。
けれど、アデリーナとリゼットがクラリスの言葉を待っていた。ロザリアとミレイユも見ていた。二人の非を指摘すれば、洗濯場の諍いは派閥同士の問題へ広がりかねない。
エリシアは平民だ。Aクラスの特待生とはいえ、彼女を守る後ろ盾は学園の制度とフローラくらいしかない。騒ぎが大きくなれば、矢面に立つのは彼女自身だった。
だから、目立たないようにと伝えたかった。
自分の侍女をたしなめる時の言葉を借りれば、その意図が伝わると思っていた。
だが、エリシアは侍女として貴族に仕えてきたわけではない。下町のパン屋で母親と暮らしてきた少女だ。扇子で口元を隠す仕草の含みも、言葉に込めたつもりの忠告も、知るはずがなかった。
選んだ言葉は最悪だった。
"立場を弁えなさい"
クラリスは唇を噛みそうになり、思いとどまった。人前で感情を崩すことは許されない。公爵令嬢として、アレクの婚約者として、弱みを見せるわけにはいかなかった。
以前、クラリスはエリシアのことを調べた。
母親と暮らし、南の下町でパン屋を手伝っている。成人の儀で大きな魔力を示し、負傷者を癒やしたことで聖属性と判定された。入学後も授業を真剣に受け、貴族の生徒たちとは必要な距離を保っている。
それは、誰かに媚びる態度ではなかった。
ここで学ぶために、できることを一つずつ積み重ねているだけだ。
クラリスは、その姿を好ましく思っていた。
それなのに、自分は彼女へ「立場を弁えなさい」と言った。
エリシアには、どう聞こえただろう。
平民は平民らしくしていろ。貴族の前に出るな。身の程を知れ。
そう受け取ったに違いない。
「クラリス様?」
アデリーナの声に、クラリスは顔を上げた。
「少しお疲れのように見えますわ。お部屋へ戻られますか?」
「いいえ。少し考え事をしていただけですわ」
「そうですの。でしたら、今度のお茶会では気分転換になるお菓子を用意いたしますわね」
「ありがとう、アデリーナさん」
クラリスは礼を述べ、微笑んだ。
その笑みは、いつもと同じように整っていた。
廊下の窓から午後の光が差し込んでいる。洗濯場へ戻れば、エリシアはまだ一人で洗濯を続けているかもしれない。今すぐ戻って、言葉を訂正したい。誤解させるつもりはなかったと伝えたい。
だが、追いかけて何を言うのか。
人目のある場所で謝れば、アデリーナとリゼットに新しい口実を与える。騒ぎが広がれば、エリシアの居場所を狭めることになる。
ならば、何も言わない方がいいのか。
クラリスの胸に、迷いが沈んだ。
何もしないことが、エリシアを守るとは限らない。
けれど、何かをすれば、彼女をさらに危険に晒すかもしれない。
「行きましょう」
クラリスは再び歩き出した。
扇子の内側で、唇を強く結ぶ。
言葉を間違えたのなら、次は間違えないようにしなければならない。
けれど、次に口を開くことさえ、今のクラリスには賭けだった。
庇えば、エリシアを派閥の争いへ引きずり込む。
黙れば、彼女を一人で傷つけたままにする。
そのどちらも選べないまま、クラリスは穏やかな笑みを浮かべて歩き続けた。
ただ、その次の機会が来ないことを、願うしかなかった。




