第380話 立場を弁えなさい
朝食を終えたエリシアは、授業が始まる前に洗濯を済ませようと、籠を抱えて女子寮の洗濯場へ向かった。
洗濯場は、朝から水音と話し声で賑わっていた。
石造りの広い部屋には洗い場と乾燥用の魔法具が並び、高い位置にある窓から外を覗けない造りになっている。生徒たちが持ち込んだ洗濯物の籠があちこちに置かれ、石鹸の香りが部屋いっぱいに広がっていた。
エリシアは籠を抱えたまま、入り口で一度足を止めた。
母と暮らしていた頃、洗濯は店の手伝いと同じく、毎日の仕事の一つだった。学園に入ったからといって、急に誰かへ任せるのは落ち着かない。自分の服は自分で洗いたいとフローラに願い出て、洗濯番を割り当ててもらうことを辞退した。
寮では、Aクラスの洗濯をBクラスの生徒が担当し、Bクラスの洗濯はCクラスやDクラスの生徒が担当する。それ以外の生徒は、自分の洗濯物を自分で洗う決まりだった。
寮の洗濯場を使うのは初めてだった。
洗い場の場所も、乾燥用の魔法具の使い方も分からない。周囲の生徒たちに聞こうか迷っていると、奥の方から籠を抱えた少女が歩いてきた。
灰色の長い髪を後ろで一つにまとめ、蒼い瞳をした少女だった。見覚えのある顔だ。フローラのそばにいる二年生だった。
学園の制服はクラスごとに仕立てが少し違う。貴族の生徒は胸元に家の紋章を刺繍しているが、平民のエリシアの制服にはその刺繍がなかった。
少女が籠を置いた時、エリシアは彼女の制服にも家紋の刺繍がないことに気づいた。濃紺の布地がそのまま見えている。貴族の令嬢たちに囲まれていると、制服の刺繍ひとつで自分の立場を思い知らされることがある。けれど、彼女も同じなのだと思うと、少しだけ親近感が湧いた。
「初めて?」
少女はエリシアの籠に目をやり、穏やかな声で尋ねた。
「はい。自分で洗濯をするのは慣れているのですが、こちらの設備は初めてで……」
「そっか。私も最初は戸惑ったよ。よかったら、使い方を教えるね」
「ありがとうございます。助かります」
「私、クロエ。フローラ様の手伝いをしてるんだ」
「エリシアです。よろしくお願いします、クロエ先輩」
クロエは、まず籠を置く場所を教えてくれた。洗濯物を色や素材ごとに分けること、洗剤の量、乾燥用の魔法具を使う時の注意。説明は簡潔で分かりやすかった。
エリシアは言われた通りに洗濯物を分けながら、ほっと息をついた。布を傷めないように種類を分け、袖や襟の汚れを先に軽く落としておく。パン屋で使っていた前掛けを洗う時と、やることはそう変わらない。
「これなら、ひとりでもできそうです」
「うん。慣れたら難しくないよ」
クロエは微笑んだ。初めての場所で知っている人がいるだけで、こんなにも心強いのだと思う。
エリシアがクロエの説明を聞いていると、洗濯場の扉が開いた。聞き覚えのある声が響く。
「まあ。エリシアさん、本当にご自分で洗濯をなさるのですの?」
振り返ると、アデリーナとリゼットが並んで立っていた。
アデリーナはエリシアの籠を見て眉を寄せている。リゼットは扇子を広げ、洗濯場を見回した。
「はい。フローラ様にお願いして、自分で洗うことを許可していただきました」
「Aクラスの方が洗濯場に立つなんて、聞いたことがありませんわ」
アデリーナの声には、驚きよりも咎める響きがあった。
「Aクラスの方がご自分で洗濯をなされば、Cクラス以下の生徒たちも『自分の分は自分で洗えばいい』と考えるかもしれませんわ。そうなれば、洗濯番の仕組みが崩れてしまいますの」
リゼットも続ける。
「寮の秩序を乱すことになるんですの。そのことをお分かりですか?」
エリシアは返事に迷った。
自分の洗濯物を自分で洗うことが、どうして寮の秩序を乱すのだろう。けれど、二人はエリシアの判断を間違いだと言っているようだった。
「私は、ただ……」
「ただ、何ですの?」
アデリーナが言葉を重ねる。クロエはエリシアの隣に立ったまま、二人の様子を見ていた。
その時、廊下から複数の足音が近づいてきた。
洗濯場の入り口に姿を見せたのは、クラリスだった。その隣には、生徒会長のロザリアと副会長のミレイユがいる。三人は連れ立って洗濯場へ入ってきた。
アデリーナとリゼットは、ロザリアとミレイユに軽く会釈してから、クラリスへ向き直った。
「クラリス様、ちょうどよいところへいらっしゃいましたわ」
アデリーナはエリシアの籠へ視線を向ける。
「エリシアさんが、Aクラスなのに洗濯番を辞退して、ご自分で洗濯をなさるそうですの。Aクラスの方がそうなされば、Cクラス以下の生徒たちも自分の分は自分で洗えばよいと考えて、今の仕組みが崩れてしまうかもしれませんわ」
「寮の秩序にも関わることですの。クラリス様も、そうお思いになりますでしょう?」
皆の視線がクラリスへ集まった。
クラリスは閉じた扇子を手にしたまま、こちらを見ていた。金色の髪はいつものように大きな縦巻きに整えられ、真紅の瞳がエリシアたちを見渡している。
クラリスの表情がわずかに強張った。視線がアデリーナとリゼット、ロザリアとミレイユの間を移る。扇子を持つ手にも、力が入ったように見えた。
やがて、クラリスは扇子を開いて口元を隠した。白い指が扇の骨を握り、真紅の瞳が細められる。その仕草は、エリシアには平民を見下す冷たい軽蔑の表情に見えた。
「立場を弁えなさい」
洗濯場の水音が、急に遠くなった気がした。
Aクラスの特待生になったからといって、貴族と同じだと思うな。平民は平民らしく、身の程をわきまえろ。
そう言われたのだと、エリシアは受け取った。
クラリスは扇子の向こうからエリシアを見ていた。胸がきゅっと縮む。
「……申し訳ありません」
何に謝ればいいのか分からなかった。それでも、そう口にするしかなかった。
クロエが、エリシアを心配そうに見た。何か言おうとしたように唇が動いたが、言葉は出てこない。
「フローラ様を呼んできます」
そう言うと、クロエは洗濯場を出ていった。
その場には、重い沈黙が残った。
リゼットは扇子を閉じ、アデリーナはエリシアの籠へ視線を落とした。クラリスは口元を扇子で隠したまま、何も言わない。
エリシアは、どうしてクラリスがあんな言葉を口にしたのか考えた。
エリシアが洗濯番を辞退したことが、そんなに失礼だったのだろうか。Aクラスの品格を損なうという話は聞いていた。けれど、誰かに頼まず自分で洗うことまで、立場をわきまえない行いだとは思わなかった。
周囲にいる生徒たちの視線が気になり、エリシアは籠の取っ手を強く握った。ここで言い返せば、また平民のくせにと責められるのかもしれない。大人しく謝って、目立たないようにするしかないのだろうか。
ロザリアもミレイユも、静かに立っているだけだった。助けを求めていい相手なのかどうかさえ、エリシアには分からない。
やがて、洗濯場の入り口からフローラが入ってきた。クロエもその隣にいる。
フローラは青い髪を肩の後ろへ流し、集まった人々を順に見渡した。エリシアの前まで来ると、その顔に目を留める。
「どうしましたか?」
アデリーナが一歩前に出た。
「エリシアさんが、ご自分で洗濯をしていらしたのです。Aクラスの方がこのようなことをなさるのは、寮の秩序に関わると思いまして」
「そうですの。寮の決まりを乱すことにもなりますわ」
リゼットが補足する。
フローラはエリシアの籠を見てから、クラリスへ視線を移した。
「クラリス様も、寮の秩序を乱すことだとお考えですか?」
クラリスはすぐには答えなかった。
その間に、ミレイユが穏やかな声で口を挟む。
「圧をかけるなんて可哀想ですよ、フェルナードの聖女様」
丁寧な声だったが、言葉の端には棘があった。ミレイユはフローラへ微笑みかける。
「彼女が自分で洗濯をしたいと望んだのであれば、本人の意思を尊重してあげてもよいのではありませんか」
「私も、そう思います」
ロザリアが落ち着いた口調で続けた。表情は穏やかだが、フローラとの間には見えない緊張が張り詰めている。
フローラは二人を一度見てから、エリシアへ向き直った。
「エリシアさんが洗濯番を辞退し、ご自分で洗濯をしたいと希望されました。彼女の要望を受け、私が許可しました」
その声は静かで、はっきりしていた。
「洗濯番の割り当ては、寮長である私に任されております。本人が希望し、私が認めた以上、規則に反することはありません」
アデリーナは言葉を止めた。リゼットも、扇子を持つ手をわずかに下げる。
ミレイユは微笑んだまま、フローラを見つめた。
「聖女様がお決めになったのでしたら、私から申し上げることはありません」
クラリスはフローラの説明を聞いてから、口を開いた。
「……ええ。寮長が許可したことに、わたくしが異を唱える理由はありませんわ」
その言葉のあと、洗濯場の空気がわずかにほどけた。
ロザリアは小さく頷き、ミレイユもそれ以上は何も言わなかった。アデリーナとリゼットも、フローラの判断に異を唱えることはなかった。
「では、私は失礼します」
フローラはそう告げ、クロエへ目を向けた。
「クロエ、行きましょう」
「はい、フローラ様」
クロエは去り際に、もう一度だけエリシアを見た。心配そうな目だった。
けれど、何も言わないまま、フローラと一緒に洗濯場を出ていった。
エリシアはその背中を見送った。助けてもらったお礼を言いたかったのに、声が出なかった。
「話は終わりましたわね」
アデリーナの声に、エリシアは我に返った。
「洗濯を続けるのでしたら、どうぞご自由に」
リゼットもそう言い残し、アデリーナとともに洗濯場を出ていく。ロザリアとミレイユ、そしてクラリスも、その後に続いた。
クラリスがエリシアへ視線を向ける。
エリシアは目を伏せた。
クラリスは視線を外し、アデリーナたちの後について洗濯場を出ていった。
周りの生徒たちも、何事もなかったように洗濯へ戻っていた。
エリシアは籠のそばに立ち尽くしたまま、先ほどの言葉を思い返す。
立場を弁えなさい。
フローラが許可してくれたから、洗濯を続けてもよい。けれど、クラリスはエリシアに、分をわきまえろと言った。
それが、この学園で平民として生きるということなのだろうか。
エリシアは、洗い場に置いた服へ目を落とした。
せっかく学園に入れたのだから、勉強を頑張ろうと思っていた。母を安心させたい。自分の力で、少しでも未来を切り開きたい。
けれど、ここではそれだけでは足りないのかもしれない。
水音が、再び耳に戻ってくる。
洗濯場を出ていったクロエの背中を、エリシアは思い返した。クロエはエリシアを気にかけてくれた。それでも何も言わなかったのは、フローラのそばに仕える立場だからだろうか。それとも、エリシアを助けることでクロエまで何か言われるのを避けたのだろうか。
分からないことばかりだった。
エリシアは袖をまくり、洗濯物を水へ沈めた。
手を動かしていれば、胸の痛みも少しは紛れる気がした。
水に沈めた布を両手で押し洗いする。泡が指の間から逃げ、石鹸の香りが鼻先をかすめた。いつもなら母と他愛のない話をしながら済ませる作業なのに、今日は一人きりのように感じる。
エリシアは誰にも迷惑をかけないように、自分で洗うことを選んだつもりだった。
それなのに、間違えてしまったのだろうか。
答えは見つからない。
それでも、クラリスの言葉はいつまでも心の中に残っていた。




