第376話 入学式と新しい教室
窓から差し込む朝の光が、エリシアの頬を照らした。
まだ眠気の残る目を開けると、見慣れない天井が目に入る。数秒かけて、昨日からここで暮らし始めたのだと思い出した。
王立ビスタ魔法学園の女子寮。
今日から、エリシアの新しい生活が始まる。
「……入学式」
声に出した途端、胸の奥が少しだけ高鳴った。
エリシアは寝台から起き上がると、身支度を始めた。制服の襟を整え、髪を梳かして結ぶ。鏡の中の自分は、いつもの自分と変わらない。けれど、制服を着ているだけで、どこか別人のようにも見えた。
机の上には、昨日買った食材と、母が持たせてくれたパンがある。小さな厨房へ行き、魔冷蔵から卵と牛乳を取り出した。パンを温め、卵を焼き、簡単な朝食を整える。パン屋で母を手伝っていたエリシアにとって、料理の手順は慣れたものだった。
食事を終えると、使った皿を洗って片づけた。荷物を入れたバッグを手に取り、中身を確かめる。教科書も筆記具も、昨日フローラに教わった案内も入っている。
忘れ物はない。
そう思っても、エリシアはもう一度だけ部屋を見回した。パン屋の二階で母と暮らしていた時には、朝になると階下からパンの焼ける匂いがしていた。ここには、その匂いはない。
(お母さん、今ごろお店の準備をしてるかな)
会いたい気持ちを胸の奥にしまい、エリシアは部屋を出た。
女子寮の玄関では、何人もの新入生が出発の準備をしていた。侍女に襟元を整えてもらう令嬢や、友人同士で談笑する生徒たちがいる。エリシアは一人で門を出た。
学園の敷地は、昨日歩いた時よりもずっと広く感じた。石畳の道の両側には花壇が続き、朝露を残した花びらが陽の光を受けて輝いている。遠くには複数の校舎が並び、中央の時計塔から鐘の音が響いた。
大講堂の入口には、クラスごとの案内板が置かれていた。教師の誘導に従い、新入生たちはそれぞれの列に並ぶ。エリシアは「Aクラス」の札を探して列の後ろに立った。
周囲は貴族の子女がほとんどだった。華やかな髪飾りや仕立てのよい制服が目に入るたび、自分の立場を思い出す。けれど、ここまで来たのだから、うつむいてばかりもいられない。
大講堂は高い天井と大きな窓を備え、正面にはエルグランド王国の紋章が飾られていた。新入生が席に着くと、壇上へ学園長が姿を現す。白銀の髪を後ろへ撫でつけた、背筋の伸びた老人だった。年齢を重ねた顔には深い皺が刻まれているが、濃紺の瞳には確かな力が宿っている。黒い礼服の胸元には侯爵家の紋章と学園長の徽章が並んでいた。
「学園長のエドモンド・ヴァルクレイ侯爵です」
紹介を受け、老人は穏やかな笑顔で一同を見渡した。風属性の使い手として王宮に仕えた後、長く学園の運営に携わってきた人物だと、隣の生徒が小声で教えてくれた。
「新入生の皆さん、王立ビスタ魔法学園へようこそ。皆さんが学ぶのは、魔法の知識だけではありません。自らの力を理解し、責任を持って使うこと。そして、身分や出自の違いを越えて、互いに学び合うことです」
学園長の言葉に、生徒たちは静かに耳を傾けた。
「この学園で過ごす日々が、皆さんの未来を開くものとなるよう願っています。どうか三年間、学びを怠らず、学園の規律を守ってください」
短い挨拶の後、学園長は壇上を下りた。
続いて、ひとりの女生徒が壇上へ進み出る。背が高く、黒髪を後ろで整えて結んでいた。淡い金色の瞳は落ち着きがあり、姿勢にも迷いがない。上級生らしい堂々とした雰囲気に、大講堂の視線が集まった。
「生徒会長のロザリア・ヴァルデンです。新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」
ロザリアは、簡潔に生徒会の活動と学園行事について説明した。困ったことがあれば生徒会や教師に相談してほしい、と最後に添える。
挨拶は長くなかったが、必要なことだけを落ち着いて伝える姿は印象に残った。エリシアは、いつか自分もこの学園に慣れ、あのように人前で話せるようになるだろうかと思った。
式は滞りなく進み、最後に新入生全員で学園歌を歌った。歌詞はまだ覚えられず、エリシアは周囲に合わせて小さな声で歌う。歌い終えると、教師の案内でクラスごとに教室へ向かった。
講堂を出る際、エリシアは壇上を振り返った。エドモンド学園長は、最後まで新入生を見送っている。厳格な貴族という印象を抱いていたが、彼の視線には、子供たち一人ひとりの行く先を案じるような温かさもあった。
(あの方も、ここで学ぶ生徒を見守ってくださるんだ)
そう思うと、張り詰めていた肩の力が少し抜けた。
Aクラスの教室は、本館の上階にあった。廊下の窓からは、花壇に囲まれた中庭や、遠くの校舎まで見渡せる。扉を開けると、明るい日差しの差し込む広い教室が広がっていた。
机は一人ずつ使えるよう整然と並び、黒板の脇には王国の地図が掛けられている。教室の前方では、すでに何人かの生徒が挨拶を交わしていた。
エリシアは後ろの方の席に座り、バッグを机の脇へ置いた。昨日、街で会った緑髪の少年が教室に入ってくる。琥珀色の瞳をした細身の少年――カインは、彼女に気づくと軽く手を上げた。エリシアも会釈を返す。
その後、金髪に蒼い瞳の少年が姿を見せた。整った顔立ちは、思わず見とれてしまうほど美しい。制服の胸元には王家の紋章がある。昨日、女子寮の近くでぶつかったアレク殿下だった。
エリシアは小さく頭を下げる。アレクも気づいたようで、静かに頷き返した。
さらに、金色の髪を顔の両側で大きく巻いた令嬢が、周囲の生徒に挨拶を受けながら教室へ入ってきた。深い真紅の瞳と整った顔立ちが印象的で、誰もが振り返るほど美しい。彼女は迷いのない足取りで前方の席へ向かう。
(あの方も、きっと身分の高い貴族なんだろうな)
エリシアは視線を戻した。教室にいる生徒のほとんどが、彼女の知らない世界で育った人たちに見える。自分だけが場違いなのではないかという思いが、胸の中で小さく広がった。
やがて、ひとりの男性教師が教室へ入ってきた。背が高く細身で、濃い茶髪をきちんと撫でつけている。深緑の瞳は鋭いが、表情には落ち着きがあった。教師は教卓へ立つと、出席簿を開いた。
「Aクラスの担任を務める、セドリック・ハルフェン子爵です。土属性の魔法を使います。皆さんが三年間、学業に励めるよう指導しますので、よろしくお願いします」
生徒たちは一斉に礼をした。
「まず、教科書と時間割を配ります。教科書は科目ごとに分けてあります。名前を確認し、足りないものがあれば申し出てください」
教師の合図で、教室の前から教科書が順に配られていく。歴史、数学、魔法理論、実技の教本。エリシアは一冊ずつ表紙を確かめ、机の上へ重ねた。
最後に渡された時間割には、授業名が整然と並んでいる。歴史や数学、一般教養のほかに、魔法の授業が二種類あった。
「魔法の授業には、『魔法(一般)』と『魔法(属性)』があります」
セドリックが黒板に二つの授業名を書いた。
「魔法(一般)は、全員で魔法の基礎理論や魔力の制御を学びます。魔法(属性)は、それぞれの属性に応じて教室を分け、個別の性質や扱い方を学ぶ授業です。時間割に記された教室を確認し、間違えないようにしてください」
生徒たちは時間割を見直し、隣同士で小声の確認を始めた。
「実技の教室は、校舎の裏手にある訓練場です。移動に時間がかかりますから、授業の間の休み時間を無駄にしないこと。教科書は寮へ持ち帰って構いませんが、授業ごとに必要なものを確認して準備してください」
セドリックは淡々と説明を続けた。学園の規則や遅刻の扱い、欠席時の届け出についても、黒板に要点を書き出していく。エリシアは必死に書き留めた。パン屋で注文を覚えるのとは違う緊張がある。間違えないようにと思うほど、筆先に力が入った。
セドリックは教科書を閉じ、教室の扉へ目を向けた。
「属性授業の教室について、担当の先生方から説明があります。火、水、風、土の四属性は、それぞれ別の教室で授業を行います」
ほどなくして、火、水、風、土の四属性を担当する教師たちが、順に教室へ入ってきた。彼らはそれぞれ担当属性と教室の場所を説明する。新入生たちは時間割に書き込んだり、教室の位置を確かめたりしていたが、特別に騒ぎ立てる様子はなかった。
火属性の教師が説明を終えたところで、クラリスへ声を掛けた。
「ローゼンベルク公爵令嬢は二属性をお持ちでしたね。どちらかお好きな方の授業に出席してください。もう一方も学びたい場合は、担当教師へ相談なさるとよいでしょう」
「承知しましたわ。説明を聞いたうえで、選ばせていただきます」
クラリスは落ち着いた声で答えた。エリシアには、二つの属性を持つということがどれほど珍しいのか、まだよく分からない。ただ、教師たちが彼女へ丁寧に説明しているのを見て、クラリスが特別な生徒なのだと改めて感じた。
四人の説明が終わり、彼らが教室の脇へ下がった後、最後にもう一人の教師が扉から姿を現した。
白い法衣をまとい、真っ白な髪に赤い瞳をした、線の細い青年だった。優しそうな笑みを浮かべている。
その姿を見た途端、教室のあちこちで小さなどよめきが起きた。
「まさか……あの方は」
「慈愛の聖人、セリオス枢機卿だ……」
生徒たちは、彼の名と肩書きを知っているらしい。エリシアも昨日会った青年が枢機卿だと知り、驚いて目を見開いた。
「セリオスです。聖属性の授業を担当します。授業は指定された教室で行いますので、時間割を確認して来てください」
セリオスは穏やかに告げ、ほかの教師たちとともに教室を出ていった。属性授業の案内のために来たのだろう。
エリシアは頬が熱くなるのを感じながら、時間割に記された教室名を確認した。自分だけ別の教室へ行くことになるらしい。迷わずたどり着けるだろうかと、少し不安になる。
セドリックは全員へ視線を戻した。
「私からのホームルームは以上です。次は歴史の授業です。科目ごとに担当教師が変わりますので、時間割をよく見て行動してください」
担任が教室を出ると、入れ替わるように歴史担当の教師が入ってきた。
「最初の授業では、エルグランド王国の創立神話を扱います」
教師は黒板に、光を掲げる人物と、その傍らに立つもう一人の姿を描いた。
「遠い昔、この地は魔の物に脅かされていました。村々は襲われ、人々は安住の地を失っていたと伝えられています。そこへ現れたのが、光の魔法使いと癒しの守り手でした」
教室が静かになる。
「光の魔法使いは魔の物と戦い、癒しの守り手は傷ついた人々を癒やして戦いを支えました。最後の戦いでは、晴れた空から無数の光が降り注ぎ、魔の物たちを焼き尽くしたとされています」
教師の声に合わせて、黒板の絵に光の筋が描き加えられた。
「しかし、その戦いで光の魔法使いは命を落としました。癒しの守り手は、彼を死の状態から蘇らせるため、自らの命を代償とする魔術を使ったのです。守り手は亡くなり、蘇った光の魔法使いは人々をまとめ、この国を築きました」
エリシアは、教科書の挿絵を見つめた。
誰かを救うために、自分の命を差し出した人。
その力は、今も聖属性として語り継がれているのだろうか。
「王家は光の魔法使いの血を受け継ぐとされています。アレク殿下もその末裔です。王家には火属性と光属性が伝わっているとされ、殿下もその二つをお持ちです」
周囲の視線が、前方に座るアレクへ向いた。彼は表情を変えず、静かに授業を聞いている。
「そして、癒しの守り手の力は、現在の属性分類だけでは説明できない稀なものです。聖属性と呼ばれることもあり、成人の儀では判別できず、後になって分かる場合もあります」
教師はエリシアを見た。
「エリシアさんは、成人の儀で聖属性の適性があると判断されました。その力が癒しの守り手のものに近いと考えられたため、特例としてAクラスに在籍しています。魔力量だけなら、別のクラスに振り分けられていたでしょう」
教室の中に、小さなざわめきが生まれた。
エリシアは、机の下で手を握った。
どうして自分がAクラスにいるのか。その理由は分かった。けれど、周りがそれをどう受け止めるかまでは分からない。
「自分の力が何であるかは、これから学びながら確かめていきましょう。皆さんも、神話をただの物語として聞き流さず、今の魔法や王国の歴史と結びつけて考えてください」
教師の説明が続く。エリシアは筆記具を取り、教科書に書き込みを始める。
こうして、入学初日の授業が始まった。
教科書の束をバッグへしまい、エリシアは時間割をもう一度確かめる。明日は歴史の続きに、数学と魔法(一般)がある。
入学式を終え、初めて教室に座り、授業を受けた。
新しい出会いも、分からないことも、これからたくさんあるだろう。
それでも、学園で学べることが嬉しかった。
母と営んできたパン屋から一歩踏み出した先に、どんな日々が待っているのか。エリシアはまだ知らない。
ただ、今日から始まった新しい生活を、精一杯歩いていこうと思った。




