第375話 公爵令嬢の入寮
ローゼンベルク公爵邸の朝食室には、いつもより静かな空気が流れていた。
クラリスは両親と向かい合い、姿勢を崩さずに食事をしていた。長い金髪は左右で大きな縦巻きに整えられ、真紅の瞳は朝の光を受けて鮮やかに輝いている。まだ十六歳の少女でありながら、整った顔立ちと気品ある佇まいは、誰もが振り返るほど美しかった。
その美しさも、立ち居振る舞いも、彼女が公爵令嬢として身につけてきたものだった。
「今日から学園の寮に入るのね」
母が紅茶のカップを置き、クラリスを見つめた。
「ええ、お母様。入学式は明日ですもの。本日中に寮へ入るよう案内を受けておりますわ」
「学園では、ローゼンベルク公爵家の名を背負うことになります。周囲の言葉に流されず、公爵家の娘として恥じない行動を取りなさい」
「承知しておりますわ」
クラリスは静かに頷いた。
母の言葉は、いつもと変わらない教えだった。姿勢を正し、礼を失せず、感情に任せて行動しない。自分の振る舞いが家の評判を左右することを忘れない。
けれど、今朝は父も食卓にいた。父は手元の書類を閉じ、クラリスへ視線を向けた。
「学園のことに加えて、もう一つ覚えておきなさい」
「はい、お父様」
「魔導国家で盗賊団が討伐された件だ。盗賊たちの所持品から、王国貴族との繋がりを示す品が多数見つかった。その件で魔導国家から詰問状が届き、関係を問われた貴族家が処刑された。処刑された家は、いずれも我が家と同じ穏健派だ。その大半は、お前も幼い頃から知っている者たちの家だろう」
クラリスはカップを持つ手を止めた。
「……ええ。幼い頃に、何度かお目にかかっておりますわ」
「処刑された家々は、盗賊へ資金を流したとされた。だが、どの家も奴隷を扱うような家ではなかった。領地の記録にも、盗賊へ資金を流したことを示す不自然な金の流れは見つかっていない」
父の声は抑えられていたが、その奥には疑念があった。
「嵌められた可能性が高いと考えている。どこの派閥が仕掛けた罠なのか、何が目的なのか、今は調べているところだ」
母が静かに息をつく。
「まだ確かなことは分からないのですね」
母の問いに、父は短く頷いた。
「ああ。だからこそ、決めつけて動くわけにはいかない」
父はクラリスをまっすぐ見た。
「お前はアレク殿下の婚約者だ。学園には改革派も王権派もいる。中立派も一枚岩ではない。王権派に近い穏健派もいれば、改革を求める革新派もいる。それぞれの思惑でお前へ近づいてくるだろう。誰が何を望んでいるのか、よく見極めなさい。立ち振る舞いには十分気をつけることだ」
「かしこまりましたわ、お父様。お言葉は必ず心に留めておきます」
クラリスは姿勢を正し、父に一礼した。
朝食を終えると、入寮の支度が始まった。制服や教科書、日用品は侍女たちがすでにまとめている。クラリスは荷物の確認に立ち会いながら、明日から始まる学園生活を思った。
アレク殿下の婚約者として。
ローゼンベルク公爵家の娘として。
そして、一人の生徒として。
その三つを、どう両立すればよいのか。今のクラリスには、まだ答えがなかった。
出発の時刻が近づくと、母が玄関まで見送りに来た。クラリスは馬車へ乗る前に、母の前でドレスの裾を整える。
「お母様、行ってまいりますわ」
「ええ。寮で困ったことがあれば、遠慮なく知らせなさい。あなたならきっと大丈夫よ」
母はそう言って、クラリスの頬に手を添えた。クラリスは一瞬だけ目を閉じ、それから微笑みを作る。
「ご心配には及びませんわ。学園でも、ローゼンベルク公爵家の名に恥じぬよう努めます」
「頑張りすぎないことも大切よ」
その言葉に、クラリスは返事をしなかった。頑張らずにいられるのなら、どれほど楽だろう。けれど、公爵家の娘として生まれた以上、期待に応えることは当然だと思っていた。
馬車の扉が閉じ、車輪がゆっくりと動き出す。窓の外で、父と母が見送っていた。クラリスは二人が見えなくなるまで、姿勢を崩さず座っていた。
学園の寮で暮らすのは初めてだった。家庭教師も侍女もいる屋敷とは違い、寮では他家の令嬢たちと日々顔を合わせる。学園は学びの場であると同時に、貴族たちが互いの距離を測る場所でもある。
(お父様のおっしゃる通り、気をつけなければ)
クラリスは膝の上で手を重ね、窓の外へ視線を向けた。
夕刻、馬車は王立ビスタ魔法学園の女子寮へ到着した。
石造りの建物は夕陽に照らされ、窓辺には橙色の光が差している。寮の玄関前には寮母が待っていた。クラリスが馬車を降りると、寮母は丁寧に頭を下げる。
女子寮は学園の敷地の中でも、男子寮とは離れた場所に建っていた。門から続く小道の先には、低い植え込みと整えられた花壇が並んでいる。静かで清潔な建物の佇まいは、クラリスが想像していた以上に落ち着いていた。
「クラリス様、ご入寮を心より歓迎いたします。お部屋へご案内する寮長を呼んでおりますので、少々お待ちくださいませ」
「ご丁寧にありがとうございますわ」
クラリスはドレスの裾を整え、背筋を伸ばした。金髪の大きな縦巻きが肩の上で揺れる。移動で少しも乱れていない髪も、落ち着いた微笑みも、周囲に隙を見せないために整えられていた。
ほどなくして、ホールの奥から一人の女生徒が歩いてきた。
長い青髪が背中まで流れ、澄んだ青い瞳が夕陽を映している。整った顔立ちは目を引くほど美しく、それでいて表情や歩き方には静かな落ち着きがあった。上級生らしい余裕を感じさせる女性だった。
「初めまして、クラリス様。三年生のフローラ・フェルナードです。女子寮の寮長を務めています」
「初めまして。わたくし、クラリス・ローゼンベルクですわ。本日はご案内をお願いいたします」
クラリスが礼をすると、フローラも丁寧に応じた。
「こちらこそ。では、お部屋までご案内しますね」
フローラは寮母と短く確認を交わし、クラリスを伴って廊下の奥へ進んだ。荷物は侍女たちが運んでいる。
「Aクラスの生徒には専用の階に個室が用意されています。お部屋には居間と寝室、侍女の部屋、小さな厨房があり、浴室とお手洗いも各室にございます。それから、寮に滞在できる侍女の方はお一人までです。ほかの方は荷解きが済みましたら、お屋敷へお戻りいただく決まりになっています」
「分かりましたわ。荷解きの後は、一人だけ残ってもらいます」
部屋の広さを見回し、クラリスは感心したように微笑んだ。
「寮とは思えないほど整っておりますのね」
「皆さんが学業に集中できるよう、設備を整えています。厨房には魔冷蔵もありますので、食材の保管にお使いください」
部屋の扉が開かれる。
居間は二人で過ごしても余裕がある広さで、窓からは学園の庭が見渡せた。隣には寝室と侍女の部屋が続き、厨房には小型の魔冷蔵が据えられている。浴室と手洗い場も清潔に整えられていた。
クラリスは居間を横切り、窓辺まで歩いて外を眺めた。校舎の屋根が夕陽に染まり、その向こうには木々の並ぶ中庭が見える。王都の屋敷と比べれば簡素な造りなのだろうが、学園で過ごすには十分すぎるほどの部屋だった。
侍女の部屋があることに安堵する一方、屋敷と同じように複数の侍女を置くことはできないのだと改めて理解する。寮で暮らす以上、自分もここで定められた決まりに従うことになる。
「寮では皆さんが同じ決まりに従って生活なさいます。慣れないこともあるかと思いますが、困った時にはいつでもお声がけください」
「ご配慮、痛み入りますわ。寮の決まりを守り、こちらでの生活に早く慣れるよう努めます」
「何かお困りのことがあれば、寮母か私にお知らせください。寮の決まりをまとめた案内は、机の上に置いてあります」
「ご親切に感謝いたしますわ。フローラ様が寮長でいらっしゃるなら、心強いですわ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
フローラは穏やかに微笑み、一礼した。
「それでは、私はこれで失礼しますね。明日は入学式ですから、今夜はゆっくりお休みください」
「ご親切に感謝いたしますわ」
フローラと寮母が出ていくと、侍女たちはすぐに荷解きを始めた。衣服を寝室のクローゼットへ移し、教科書や文具を机に並べる。クラリスも自分で扱う物を選び、明日の準備を整えていった。
荷物が半分ほど片づいた頃、寮に滞在する侍女を残し、ほかの侍女たちは帰り支度を始めた。クラリスは手伝ってくれた侍女たち一人ひとりに礼を告げ、寮の玄関まで見送った。
「お嬢様、明日の朝にはまた参ります」
「ええ。今日はご苦労さまでしたわ」
侍女たちが屋敷へ戻る馬車に乗り込むのを見届けて部屋へ戻ると、扉が控えめに叩かれた。
「クラリス様、お客様がお見えです」
侍女の知らせに、クラリスは手を止めた。
「どうぞ、お通ししてちょうだい」
扉の向こうから入ってきたのは、二人の令嬢だった。
「お越しくださってありがとう存じますわ。どうぞ、お掛けになって」
クラリスは二人を居間へ招き、侍女に茶の用意を頼んだ。寮へ来たばかりの部屋には、まだ箱がいくつか残っている。それでも、客人を立たせたままにするわけにはいかなかった。
先に挨拶したのは、淡い蜂蜜色の髪を巻き、澄んだ水色の瞳をした少女だった。小柄で愛らしい顔立ちだが、身につけた装飾には男爵家の令嬢らしい華やかさがある。
「クラリス様、ご入寮おめでとうございますの。わたくし、アデリーナ・ローデンですわ」
「わざわざご挨拶に来てくださって、感謝いたしますわ」
その隣には、濃紺の長い髪を背中へ流した令嬢が立っていた。青緑色の瞳に知的な光を宿し、控えめな笑顔を浮かべている。
「リゼットですの。お会いできて嬉しいですわ」
「こちらこそ、お越しいただけて嬉しいですわ」
二人は同じ学年で、同じAクラスになると聞いている。王権派に属する家の令嬢たちであり、クラリスとは幼い頃から社交の場で顔を合わせていた。
アデリーナが、親しげに誘いかけた。
「同じクラスですもの。明日の入学式の後、お茶をご一緒しませんこと? 学園のことも色々お話ししたいですの」
リゼットも、控えめな笑みを浮かべて続けた。
「お食事の席もご一緒させてくださいませ。クラリス様のご都合に合わせますの」
クラリスは二人の顔を見た。彼女たちは微笑んでいる。昔から知っている相手であり、婚約者であるアレクを支える王権派の令嬢でもある。招待を断れば、余計な憶測を招くかもしれない。
(お父様は、誰が何を望んでいるのか見極めなさいとおっしゃった)
父の言葉が胸をよぎる。
けれど、この場で二人の誘いを拒む理由は見つからなかった。二人は昔から交友のある令嬢であり、王権派に属している。中立派の穏健派であるローゼンベルク公爵家とは立場が異なるが、アレク殿下の婚約者として、王権派の令嬢たちからの招きを無下にはできなかった。
「ええ。明日のお茶会、喜んでご一緒いたしますわ。お食事についても、後ほど予定を相談いたしましょう」
アデリーナは、安堵したように頬を緩めた。
「お招きをお受けいただけて嬉しいですの。ありがとうございます、クラリス様」
「明日の入学式の後でしたら、午前中は予定が空いておりますわ。お茶会はその頃にいたしましょう」
「嬉しいですの。学園のことを、ぜひお話しさせてくださいませ」
アデリーナが弾んだ声で応じ、リゼットも隣で静かに頷いた。二人は学園での授業や寮の生活について、知っている範囲の話を交わす。クラリスは微笑みながら相槌を打ち、相手の言葉を一つずつ受け止めた。
久しぶりの再会を喜んでいるように見える二人を前にして、父の警告を思い出すのは気が引けた。けれど、二人が王権派であることも、自分が中立派の穏健派であることも変わらない。
親しげな笑顔の奥に、派閥の思惑があるのだろうか。
その答えを探るような視線を見せないよう、クラリスは紅茶のカップを持ち上げた。
アデリーナとリゼットは、揃って嬉しそうに微笑んだ。
二人が帰ったあと、部屋にはまた静けさが戻った。机の上には、明日から使う教科書が整然と並んでいる。
クラリスは窓の外を見た。夕暮れの色は薄れ、学園の庭に夜の影が落ち始めていた。
明日から、ここでの生活が始まる。
母に教わった通り、公爵令嬢として恥じないように。
父に言われた通り、誰の言葉も慎重に受け止めて。
クラリスは、鏡に映る自分を見た。
金色の縦巻きと真紅の瞳。整った髪も、微笑みも、いつも通りに見える。
けれど、その笑顔の奥にある緊張を、彼女自身だけは隠しきれなかった。




