第374話 王都での買い物
女子寮の門を出ると、エリシアはバッグの肩紐を掛け直した。
見慣れない街を一人で歩くのは、少し心細い。けれど、部屋にはまだ食材が一つもない。せっかく小さな厨房があるのだから、今夜の食事くらいは自分で作ってみたかった。
フローラが教えてくれた店は、貴族街の中にある平民向けの食材店だった。学生や使用人も利用する店で、下町より品物の質はいい。その分、値段も少し高いと聞いている。
エリシアはバッグの中の財布を確かめた。
そこには、子供の頃からパン屋を手伝って貯めてきたお金が入っている。母と二人で暮らす中で、少しずつ残しておいたものだ。
(今日は必要なものだけ買おう)
心の中でそう決め、エリシアは南へ向かって歩き出した。
寮の周辺には、行き交う人々の服装にも、建物の造りにも、下町とは違う落ち着きがあった。道はきれいに掃き清められ、店の窓には品物が整然と並んでいる。通りを歩く人の中には、貴族らしい服を着た者もいた。
それでも、フローラの言うとおり、学生らしい服装の平民も見かける。彼らは店先で値段を確かめたり、連れと相談したりしながら、慣れた様子で買い物をしていた。
エリシアは、そんな学生たちを目で追いながら歩いた。
自分も明日から、あの学園の生徒になる。
Aクラスの特待生として選ばれたことは、今でもどこか現実味がない。学園でどんな人たちと出会うのか、授業についていけるのか。考えると胸が落ち着かなくなる。
けれど、まずは食材を買わなければならない。
店を探していると、通りの向こうから、魔石や魔道具をいくつも抱えた少年が歩いてきた。
緑色の髪に、琥珀色の瞳。細身の少年は学園の制服を着ていた。腕の中には小さな箱や布袋が重なり、肩にも大きな荷物が掛けられている。知的そうな顔立ちには、困ったような笑みが浮かんでいた。前が見えているのか心配になるほどだった。
(あんなにたくさん持って、大丈夫なのかな)
エリシアがそう思った時、少年の足が石畳の継ぎ目に引っかかった。
「あっ」
抱えていた魔石や魔道具が、地面へ散らばる。
少年も前のめりに転び、荷物の上へ倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?」
エリシアはすぐに駆け寄った。少年は片手をついて身体を起こし、もう片方の手で膝を押さえている。
「いたた……。ああ、やっちゃったな」
「怪我はありませんか?」
「大丈夫。ちょっと膝をぶつけただけだよ」
そう答えながら、少年は散らばった荷物を見て、困ったように眉を寄せた。
エリシアも地面に膝をつき、近くに転がった魔石を拾い始めた。
どれも手のひらに収まるほどの大きさだ。透明なもの、赤みのあるもの、青く曇ったもの。魔石に詳しくないエリシアには、種類までは分からない。
最後に、ひとつの魔石が足元で止まった。
ほかの石よりも色が淡く、光を受けると表面が揺らいで見える。エリシアがそれを拾い上げた瞬間、石の内側に光がともった。
「……光った?」
小さな輝きが、彼女の指の間で明滅する。
少年の表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬だった。驚いたように目を見開いたあと、彼はすぐに何事もなかったような顔に戻る。
「ありがとう。助かったよ」
「これも、あなたの荷物ですか?」
「うん。大事なものなんだ」
少年はエリシアの手から魔石を受け取った。石は彼の掌に移ると、もう光ってはいなかった。
エリシアは少し不思議に思ったが、尋ねなかった。
少年はほかの魔石や魔道具を一つずつ確かめ、腕の中へまとめていった。荷物が多すぎて、どれをどこへしまえばいいのか分からない様子だった。
「一人でこれを運ぶんですか?」
「そうだよ。研究に使うものを買ったんだけど、思ったより増えちゃってね」
少年は困ったように笑う。
学園の制服を着ているのだから、同じ新入生かもしれない。エリシアはそう思いながら、最後に落ちていた小さな箱を差し出した。
「はい」
「ありがとう」
少年はそれを受け取り、改めてエリシアを見た。少し考えるような間を置いてから、口を開く。
「君、すごい魔力量だね。どこの貴族の令嬢なの?」
「私は平民です。エリシアといいます」
「平民なんだ」
少年は、もう一度エリシアの顔を見た。予想と違っていたのか、驚きを隠しきれていない。
「今年から王立ビスタ魔法学園に入学するんです」
「そうなんだ。僕も今年から入学するんだよ」
「同級生なんですね」
「うん。僕はカイン。よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
カインは、散らばった荷物をすべて集めると、腕の中で抱え直した。
「それじゃあ、僕は行くね。手伝ってくれてありがとう」
「気をつけてくださいね。今度は転ばないように」
「うん。なるべく前を見るよ」
カインは笑い、荷物を抱えたまま通りを進んでいった。
その後ろ姿を見送りながら、エリシアは自分の手を見た。
先ほど拾った魔石は、確かに光ったように見えた。けれど、どうして光ったのかは分からない。
(魔石って、触ると光るものなのかな)
そんなことを考えながら、エリシアは食材店へ向かった。
◇
店は、学生街へ続く通りの角にあった。
扉を開けると、乾燥した香草の匂いと、焼き立てのパンの香りが混ざって漂ってくる。店内には棚が並び、野菜や乳製品、肉や穀物がきれいに分けて置かれていた。
「いらっしゃい。学園に入る子かい?」
店番の女性が、エリシアの制服とバッグを見て声をかけてきた。
「はい。今日、寮に入ったばかりなんです」
「それなら、寮で使う食材を買いに来たのかな」
「そうです。フローラ様に、このお店を教えていただきました」
「ああ、聖女様ね。あの方も、今でもよく来てくださるよ」
「聖女?」
聞き慣れない呼び名に、エリシアは思わず聞き返した。
「知らないのかい? 『フェルナードの聖女』さ。最近は王都でも有名だよ。水属性の治癒魔法が使えてね、身分に関係なく、誰にでも手を差し伸べてくださる優しいお方なんだ。性格も容姿もとても素敵な伯爵令嬢さ」
女性は、誇らしげに目を細めた。
「そうなんですね……」
エリシアは、寮で自分を案内してくれたフローラの姿を思い浮かべた。落ち着いた声と穏やかな笑顔。あの人が王都でそんなふうに呼ばれているとは知らなかった。
エリシアは、店内を見回す。並んでいる食材は、下町で母と買い物をした時に見たものより、どれも状態がよかった。野菜は泥が落とされ、葉先まで張りがある。肉も色がよく、乳製品はきちんと冷やされていた。
「この野菜は、今日入ったばかりですか?」
「朝に届いたものだよ。こっちは少し値が張るけど、質はいい。こっちなら少し安いね」
女性は、似た種類の野菜を二つ示した。
エリシアは値札を見比べる。下町で買うものより、少しずつ高い。フローラが言っていたとおりだった。
(毎日ここで買うのは難しいかも)
それでも、寮には魔冷蔵がある。保存のきく食材を中心に選べば、何度も買いに来なくても済むだろう。
エリシアは、根菜と豆、少量の肉、それから卵と乳製品を選んだ。値段を確かめながら、必要な分だけ籠へ入れていく。最後に、母が持たせてくれたパンを思い出し、今夜の料理に使う香草をひと束加えた。
「それだけでいいのかい? 初めてなら、もう少し見ていってもいいよ」
「ありがとうございます。でも、今日は必要なものだけにします」
財布を開き、店番の女性に代金を渡す。
思っていたよりも高かった。けれど、質のよい食材を買えたことが嬉しくもある。エリシアは、食材を一つずつバッグへしまった。大きな野菜は傷まないよう布で包み、卵は揺れないように隙間へ柔らかい葉を挟んだ。
「重くないかい?」
「大丈夫です。これくらいなら持てます」
「そうかい。寮の厨房を使うなら、また必要なものが出てくるだろう。その時はおいで」
「はい。ありがとうございます」
店を出ると、太陽は少し高くなっていた。
エリシアはバッグの口を閉じ、寮へ戻る道を歩き始めた。買った食材はすべて中へ収まっている。それでも、アイテムバッグの中身は重さとして肩にかからない。見た目には膨らんだバッグを背負いながら、彼女は軽い足取りで歩いていった。
通りの先で、子供の笑い声が響いた。
数人の子供が、道の脇で追いかけっこをしている。大人たちは少し離れた店先にいて、子供たちの様子を見守っていた。
そのうちの一人が、勢いよく走り出す。
「待ってよ!」
振り返った子供の足が、石畳の端に引っかかった。
身体が前へ傾き、膝から地面へ倒れ込む。
「いたっ!」
「大丈夫?」
友達が立ち止まるより先に、エリシアは駆け寄っていた。
「見せて。膝を擦りむいたのね」
子供の膝には、石畳で擦った傷ができていた。血がにじみ、本人は痛そうに顔をしかめている。
「お姉ちゃん、治せるの?」
「うん。ちょっとだけ、じっとしていてね」
エリシアは膝のそばへ手をかざし、母から教わった治癒魔法を使った。
傷口を包むように、やわらかな光が広がっていく。
子供は最初こそ身体をこわばらせたが、痛みが引いていくにつれて、少しずつ表情を和らげた。
「もう痛くない?」
「うん。痛くない!」
子供は膝を確かめるように曲げ伸ばしした。擦り傷は消え、血も止まっている。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「よかった。走る時は、前を見てね」
「はーい!」
子供が立ち上がったところで、こちらへ歩いてくる人影があった。
「君は……学園の生徒さんなのですか?」
落ち着いた声だった。
エリシアが振り返ると、そこには白い法衣をまとった青年が立っていた。真っ白な髪に、赤い瞳。線の細い顔立ちは柔らかく、優しそうな笑顔を浮かべている。初めて見る人だったが、不思議と警戒心を抱かせない雰囲気があった。
「はい。私はエリシアです。今年から学園に入学します」
青年はエリシアの顔を確かめるように見て、わずかに驚いた。
「君が、あの……」
言葉が途中で止まる。エリシアには、その続きを尋ねる前に、子供が青年の方を向いた。
「お兄さんも、心配してくれたの?」
「ええ。でも、あなたは周りを見ないで走っていたのでしょう?」
青年は、子供の目線に合わせるように少しかがんだ。
「道を歩く時は、周りを見ないとだめですよ。転んだだけで済まないこともあります」
「ごめんなさい」
「分かればいいのです」
子供は友達のところへ戻り、何度もこちらへ手を振った。エリシアも笑顔で手を振り返す。
子供たちの姿が通りの向こうへ遠ざかっていくと、青年は再びエリシアへ向き直った。
「申し遅れました。私はセリオスと申します。学園で、また会うことになるでしょう」
「よろしくお願いします」
「それではエリシアさん、また会いましょう」
セリオスは微笑み、通りの向こうへ歩いていった。
エリシアは、その背中をしばらく見送っていた。
彼は何かを言いかけていたように思う。けれど、聞き返す前に子供の方へ気を向けてしまった。
(学園で会うって言っていたけど、先生なのかな)
明日から始まる学園には、エリシアの知らない人たちがたくさんいる。今日だけで、同じ学年のカインと、セリオスに出会った。
胸の中の緊張が、少しずつ期待に変わっていく。
エリシアは、バッグを背負い直して歩き出した。
◇
女子寮の門が見えてきた頃、隣の男子寮の方から、慌ただしい物音が聞こえた。
誰かが走る音。扉が開く音。それから、低い声で何かを叫ぶ声。
「まだ戻ってきていません!」
「探してこい!」
寮の周りにいた生徒たちが、そちらを振り向いている。
エリシアは、足を止めた。
男子寮は女子寮とは別の敷地にあり、塀と門で区切られている。生徒以外が気軽に出入りできる場所ではない。何かあったのだろうか。
その時、男子寮の塀の向こうに、人影が現れた。
学生服を着た少年が、塀の上から外の様子を窺っている。
塀の向こうにいる生徒がこちらへ気づく前に、少年は柵へ手をかけた。
「えっ」
少年は柵を乗り越え、外側へ飛び降りた。
着地した先にいたのは、食材の入ったバッグを背負うエリシアだった。
避ける間もない。
少年の身体が、エリシアにぶつかった。
「きゃっ!」
二人は石畳の上に倒れ込んだ。バッグが肩から滑り、口が開く。野菜や包みに入れた肉が、道へ散らばった。
「わりぃ! 見てなかった!」
少年はすぐに起き上がり、エリシアへ手を差し出した。
「大丈夫か? 怪我してないか?」
「私は大丈夫です。あなたは?」
「俺も平気だ。悪かった」
少年はエリシアを起こすと、すぐに散らばった食材を拾い始めた。
「これ、卵か。割れてないか?」
「大丈夫です。ゆっくりお願いします」
「分かった」
少年は卵の包みを慎重に持ち上げ、ほかの食材と一緒にエリシアへ渡した。
少年の金髪が、陽の光を受けて輝いていた。整った顔立ちに、澄んだ蒼い瞳。思わず見とれてしまうほどの美少年だった。急いでいる様子でも華やかな雰囲気があり、胸元の紋章を見ずとも、身分の高い人なのだろうと思わせる。
それでも、エリシアには誰なのか分からなかった。彼の制服の胸元に縫い付けられた紋章が目に入る。
王家の紋章だった。
「あれ……アレク殿下?」
「ん? 俺を知ってるのか?」
「その紋章を見て……」
「そうか。まあ、今はそれどころじゃねえな」
アレクは、少し困ったように笑った。
男子寮の塀の向こうから、再び人の声がする。アレクはそちらを振り返り、気まずそうに頭を掻いた。
「本当に悪かった。急いでたんだ」
「はい。何かあったんですか?」
「いや、ちょっとな」
アレクは答えを濁しながら、最後の食材を拾い上げた。
少し離れた場所では、男子寮の生徒たちが塀の方へ駆けてくる。アレクは一度だけそちらを見て、エリシアへ食材を返した。
「それじゃ、俺は行く。今度はちゃんと前を見る」
「はい。お気をつけて」
アレクは軽く手を上げると、寮の外へ走っていった。
エリシアは、食材を一つずつ確認した。卵は無事。肉の包みも破れていない。野菜には少し土がついたが、洗えば問題なさそうだった。
「よかった……」
拾った食材をバッグに戻し、口を結ぶ。
今日一日で、思いがけない出会いがいくつもあった。
魔石を抱えたカイン。怪我をした子供とセリオス。男子寮の塀を飛び越えてきたアレク。
明日から学園に通えば、また新しい人たちに出会うのだろう。
エリシアは女子寮の門をくぐり、バッグを背負い直した。
今夜は、母が持たせてくれたパンと、買ってきた食材で夕食を作ろう。
新しい暮らしの最初の食事を思い浮かべながら、エリシアは自分の部屋へ向かった。




