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乙女ゲーの辺境伯に転生したので奴隷落ちする悪役令嬢を金貨2万枚で救おうと思います  作者: 蛙の子はお玉杓子
第10章 癒しの護り手と悪役令嬢

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第373話 入寮の日

  朝のパン屋には、いつもより早く火が入っていた。


 窯の前に立つエリシアの頬を、熱気が撫でる。焼き上がったパンの香ばしい匂いが店いっぱいに広がり、通りを歩く人たちが、開店前から店先を覗き込んでいた。


 けれど、今日のエリシアは、いつもどおりにパンを並べてはいられない。


 店の奥では、母のエミリアが最後のパンを籠へ移していた。エリシアは、そのそばに置かれた古いバッグを見下ろした。


 革は擦り切れ、角にはいくつもの傷がある。肩紐の縫い目も弱くなっていたが、母が丁寧に繕ってくれていた。


 亡くなった父が使っていたものだと、少し前に母から渡された形見だった。


『お父さんが大切にしていたバッグよ。エリシアが学園へ行く時に持っていって』


 母はそう言って、手入れをしてから渡してくれた。


 エリシアはバッグの口を開き、中身をもう一度確かめる。着替えに教科書、筆記具、母から教わった治癒魔法の覚え書き。それに小さな財布。寮で必要になるものを選んで詰めてあった。


「忘れ物はない?」


 エミリアが尋ねた。


「うん。さっきから三回確認したよ」


「四回目も確認しておきなさい。寮に着いてから、あれがない、これがないって慌てるよりいいでしょう?」


「もう、心配しすぎだよ」


 エリシアは笑った。エミリアも笑い返したが、その表情には、いつもより少しだけ寂しさが混じっている。


 今日からエリシアは、王立ビスタ魔法学園の女子寮で暮らす。


 入学式は明日だ。全校生徒が学園の寮に入る決まりになっているため、入学式の前日に入寮することになっていた。


 成人の儀で魔力を認められた時には、学園へ通えることが嬉しかった。聖属性の特待生としてAクラスに入ると知らされた時には、驚きのあまり、母と何度も顔を見合わせた。


 けれど、こうして出発の時が来ると、胸の奥に別の気持ちが生まれていた。


 母と離れて暮らすのは初めてだ。


「寮の場所も分かってるし、行き方も聞いた。何かあったらすぐに手紙を書くね」


「ええ。手紙を待っているわ」


 エミリアは、エリシアの襟元を整えた。何度も確かめるように、リボンを直してから、娘の顔を見つめる。


「学園では、あなたのことを知らない人もたくさんいるでしょう。貴族の子たちもいるし、今までとは違うことも多いと思うわ」


「うん」


「でも、無理に周りに合わせなくていいのよ。あなたはあなたらしくいればいいから」


 エリシアは、小さくうなずいた。


 母の言葉は、胸にすっと入ってくる。けれど、自分らしくいるというのが、どういうことなのかは、まだよく分からなかった。


「お母さんは、お店があるから寮まで一緒には行けないけれど……」


「大丈夫。ひとりで行けるよ」


「そうね。エリシアなら大丈夫」


 エミリアはそう言って、娘を抱きしめた。


 パンの焼ける匂い。母の腕の温もり。店の床を踏む慣れた足音。


 どれも、ずっと当たり前だったものだ。明日からは、それらのそばで目を覚ますことができない。


 エリシアは、母の背中に腕を回した。


「いってきます」


「いってらっしゃい。体に気をつけてね」


 母の腕が離れる。


 エリシアは父の古いバッグを肩に掛け、店の扉を開いた。朝の光が差し込み、外の通りから荷車の軋む音や人々の話し声が流れ込んでくる。


 店先には、エミリアが焼いたパンを買おうと、すでに何人かの客が並んでいた。母は今日も店を開け、いつもどおりパンを売る。エリシアがいなくても、パン屋の一日は始まっていく。


 エリシアは一度だけ振り返った。


 エミリアは店の中から手を振っている。


 エリシアも手を振り返し、今度こそ前を向いて歩き出した。




 王立ビスタ魔法学園は、王都の南側にある貴族街の外れに建っている。


 エリシアは、下町の通りを南へ進んだ。店や家並みは、貴族街に近づくにつれて少しずつ様子を変えていく。道は整えられ、石畳の隙間から伸びる草も少なくなった。建物の壁には傷や汚れが減り、窓辺に飾られた花も増えていく。


 同じ王都の中なのに、少し歩いただけで景色が違う。


 それでも、学園へ向かう道には平民らしい服装の生徒もいた。大きな荷物を抱えた子や、家族と別れたばかりなのか、何度も後ろを振り返る子もいる。


 エリシアは、自分だけが緊張しているのではないのだと気づき、少しだけ肩の力を抜いた。


 やがて、道の先に学園の門が見えてきた。


 王立ビスタ魔法学園。


 門の上には、校名を刻んだ大きな紋章が掲げられている。門をくぐる生徒たちの姿を眺めながら、エリシアは足を止めた。


「ここで、これから暮らすんだ……」


 言葉にしてみると、改めて実感が湧いてくる。


 女子寮の建物は、学園の敷地内でも少し奥まった場所にあった。男子寮とは別の敷地に建てられており、周囲には高い塀と門が設けられている。門の前には寮の係員が立ち、入寮する生徒と家族の名前を確認していた。


 エリシアがひとりで近づくと、係員は手元の名簿を確認した。


「入寮する生徒ですね。お名前をお願いします」


「エリシアです。今日から入寮します」


 係員は名簿に目を落とし、該当する名前を見つけると、寮の玄関を指し示した。


「中で寮母がお待ちです。お荷物はご自身でお持ちになりますか?」


「はい。自分で持っていきます」


 門をくぐる前、エリシアは後ろを振り返った。


 母はいない。店の仕事があるのだから当然だ。それでも、さっきまで見ていたパン屋の扉がないだけで、急に心細くなった。


 エリシアは父の古いバッグの肩紐を握りしめ、女子寮の敷地へ入った。


 玄関ホールには、入寮の手続きをする生徒が何人かいた。落ち着いた様子で侍女に荷物を預けている令嬢もいれば、家族と別れを惜しむ生徒もいる。


 エリシアが受付へ進むと、寮母が穏やかな笑顔で迎えた。


「いらっしゃい。王立ビスタ魔法学園女子寮へようこそ。あなたがエリシアさんね」


「はい。よろしくお願いします」


「こちらこそ。寮の決まりや設備については、寮長が案内してくれるわ。フローラさん、お願いできるかしら」


「はい、寮母様」


 ホールの奥から、ひとりの少女が歩いてきた。


 長い青髪が、歩みに合わせて静かに揺れている。澄んだ青い瞳と整った顔立ちが目に入り、エリシアは思わず見とれた。誰もが振り返りそうな美人なのに、表情や足取りには落ち着きがあり、相手を急かすようなところはない。エリシアより年上の、学園生活に慣れた生徒らしい余裕が感じられた。


「初めまして、エリシアさん。三年生のフローラ・フェルナードです。女子寮の寮長を務めています」


「初めまして。エリシアです」


 フローラは、エリシアが肩に掛けた古いバッグに目を向けた。擦り切れた革や繕われた肩紐から、大切に使われてきた物だと分かる。


「お荷物はそちらに?」


「はい。必要なものを詰めてきました」


「そうでしたか。では、お部屋へご案内しますね。寮の中を歩きながら、必要なことも説明します」


「お願いします」


 フローラはエリシアを連れ、玄関ホールから奥の廊下へ進んだ。


「女子寮は男子寮とは完全に分かれています。男子生徒は、こちらの敷地に入ることもできません。もし用事がある場合は、寮の外にある面会場所を使う決まりです」


 フローラは歩きながら、廊下の先にある扉や階段を示していく。


「食堂と調理場は一階にあります。食堂は全生徒が利用できますし、自分で料理をしたい生徒は調理場を使えます。Aクラスの方は、別の階に個室が用意されています」


「クラスによって、部屋が違うんですね」


「ええ。Bクラスは一人部屋、Cクラスは二人で一部屋、Dクラスは四人で一部屋です。Aクラスは生活に必要な設備が部屋に揃っています」


 階段を上がり、フローラは廊下の途中で足を止めた。


「こちらがエリシアさんのお部屋です」


 扉が開かれる。


 中には、エリシアが想像していたよりもずっと広い部屋があった。玄関を入ると、まず広々としたリビングが目に入る。


 左手には寝室とトイレ、右手には小さな厨房と侍女の部屋が並んでいた。浴室もリビングから直接行ける場所にあり、この部屋だけで生活のすべてが完結する造りになっていた。


「ここを、私ひとりで使っていいんですか?」


「はい。Aクラスの生徒は個室です。こちらの部屋は、侍女の方が一緒に暮らす場合に使います」


 フローラが示した部屋には、寝台と小さな机が置かれていた。エリシアには侍女がいない。母と二人でパン屋を営んできた彼女には、自分の世話をする人がつく生活など想像もつかなかった。


「使わないままでも大丈夫ですか?」


「もちろんです。物置として使う方もいれば、空けたままにする方もいます」


「そうなんですね」


 エリシアはリビングを見回した。


 寝台も、机も、椅子も、ひとりで使うには立派すぎる。パン屋の二階で母と暮らしていた部屋より、ずっと広かった。


「厨房があるのは助かります。自分で料理をしてもいいんですね」


「ええ。Aクラスには高位貴族のご子息やご令嬢もいますから、侍女に料理を任せるために厨房が備えられているんです。食事に毒が入ることを警戒するご家庭もありますので」


 フローラは厨房の隅にある箱型の魔法具を指さした。


「それから、こちらは魔冷蔵です。今年からAクラスの部屋に設置されました。中に食材を入れておけば、魔法の力で冷やして保存できます」


 エリシアは近づき、魔冷蔵の表面にそっと手を当てた。


 金属の縁には細かな魔法陣が刻まれている。扉の向こうから、ひんやりした空気がかすかに伝わってきた。


「こんな魔法具まで、部屋にあるんですね」


「便利ですよ。食材を部屋に置いておけますから」


「私、料理は母に教わっていたんです。ここで作れるなら、うれしいです」


「それはよかったです」


 フローラはそう言って、少しだけ表情を和らげた。


「食堂のほかに、Aクラス専用の食堂もあります。そちらはレストランのような形式になっていますが……平民の方には、少し値段が高いかもしれません」


 フローラの声音が、わずかに柔らかくなる。


「私も、あまり利用していないんです。値段を見ると、どうしても気になってしまって」


「フローラ様もですか?」


「ええ。食事の値段は、毎日のことですから。つい気になってしまいます」


 エリシアは、ほっとした。


 Aクラスの寮にいるのは、自分だけではない。フローラも、同じように値段を気にするのだ。


「私も毎日使うのは難しそうです。厨房で作ることにします」


「その方がいいかもしれませんね。調理場には基本的な道具もあります。足りないものがあれば、寮母に相談してください」


「分かりました」


 フローラはリビングの椅子を勧めたが、エリシアはまだ立ったままだった。初めて見る部屋のすべてが気になり、ひとつずつ確かめたくなる。


「寮の説明でもう一つ、洗濯についてお話しします」


 フローラは少し申し訳なさそうに言った。


「Aクラスの生徒は、侍女に洗濯を任せるか、割り当てられたBクラスの生徒にお願いすることができます。自分で洗うこともできますが、その場合は担当を辞退する形になります」


「Bクラスの方が、Aクラスの洗濯をするんですか?」


「はい。BクラスにはAクラスの洗濯を担当する生徒がいます。Bクラスの洗濯は、Cクラスの生徒が担当します。ただし、Bクラスの三年生は最終学年なので、洗濯当番はありません。CクラスとDクラスの生徒も、それぞれ担当が決まっています」


 フローラは一度視線を伏せた。


「エリシアさんには侍女がいないと聞いていましたので、CかDクラスの平民出身の方にお願いする段取りを考えていました。気を遣わせてしまうかもしれないと思ったのですが……」


「私、自分の洗濯はできます」


 エリシアは答えた。


「母と暮らしていた時も、洗濯は自分でしていました。できれば、これまでどおり自分でやりたいです」


 フローラは少し目を見開き、それからゆっくりとうなずいた。


「分かりました。ご自分でなさるのなら、割り当てを外しますね」


「ありがとうございます」


「無理はしないでください。寮には共同の洗濯場があります。場所はあとで案内します」


 ひととおりの説明を終えたフローラは、扉のそばで足を止めた。


「エリシアさん。学園生活で困ったことがあれば、遠慮なく私のところへ来てください。寮のことでも、クラスのことでも構いません」


「ありがとうございます、フローラ様」


 フローラはにこやかに一礼し、部屋を出ていった。


 扉が閉まると、部屋の中は静かになった。


 エリシアは父の古いバッグから、着替えや洗面道具を取り出していく。棚に衣服を収め、机の上に筆記具を並べた。母が持たせてくれたパンも、厨房の棚に置く。


 荷解きを終えるころには、部屋がほんの少しだけ自分の場所らしくなっていた。


 エリシアは厨房へ戻り、魔冷蔵を開いた。中には、まだ何も入っていない。


 今夜の食事や、明日から使う食材を買いに行こう。


 バッグの中には、これまで店を手伝いながら貯めてきたお金も入っている。下町より品物のよい店が貴族街にあると、フローラが教えてくれた。


 値段は少し高いかもしれない。それでも、自分で選んだ食材を使って料理できるのは楽しみだった。


 エリシアは戸締まりを確かめ、父の古いバッグを肩に掛けた。


 新しい部屋を出て、寮の階段を下りる。


 入学式は明日。学園での授業も、寮での暮らしも、まだ始まったばかりだ。


 エリシアは、買い物へ向かうため女子寮の門をくぐった。

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