第373話 入寮の日
朝のパン屋には、いつもより早く火が入っていた。
窯の前に立つエリシアの頬を、熱気が撫でる。焼き上がったパンの香ばしい匂いが店いっぱいに広がり、通りを歩く人たちが、開店前から店先を覗き込んでいた。
けれど、今日のエリシアは、いつもどおりにパンを並べてはいられない。
店の奥では、母のエミリアが最後のパンを籠へ移していた。エリシアは、そのそばに置かれた古いバッグを見下ろした。
革は擦り切れ、角にはいくつもの傷がある。肩紐の縫い目も弱くなっていたが、母が丁寧に繕ってくれていた。
亡くなった父が使っていたものだと、少し前に母から渡された形見だった。
『お父さんが大切にしていたバッグよ。エリシアが学園へ行く時に持っていって』
母はそう言って、手入れをしてから渡してくれた。
エリシアはバッグの口を開き、中身をもう一度確かめる。着替えに教科書、筆記具、母から教わった治癒魔法の覚え書き。それに小さな財布。寮で必要になるものを選んで詰めてあった。
「忘れ物はない?」
エミリアが尋ねた。
「うん。さっきから三回確認したよ」
「四回目も確認しておきなさい。寮に着いてから、あれがない、これがないって慌てるよりいいでしょう?」
「もう、心配しすぎだよ」
エリシアは笑った。エミリアも笑い返したが、その表情には、いつもより少しだけ寂しさが混じっている。
今日からエリシアは、王立ビスタ魔法学園の女子寮で暮らす。
入学式は明日だ。全校生徒が学園の寮に入る決まりになっているため、入学式の前日に入寮することになっていた。
成人の儀で魔力を認められた時には、学園へ通えることが嬉しかった。聖属性の特待生としてAクラスに入ると知らされた時には、驚きのあまり、母と何度も顔を見合わせた。
けれど、こうして出発の時が来ると、胸の奥に別の気持ちが生まれていた。
母と離れて暮らすのは初めてだ。
「寮の場所も分かってるし、行き方も聞いた。何かあったらすぐに手紙を書くね」
「ええ。手紙を待っているわ」
エミリアは、エリシアの襟元を整えた。何度も確かめるように、リボンを直してから、娘の顔を見つめる。
「学園では、あなたのことを知らない人もたくさんいるでしょう。貴族の子たちもいるし、今までとは違うことも多いと思うわ」
「うん」
「でも、無理に周りに合わせなくていいのよ。あなたはあなたらしくいればいいから」
エリシアは、小さくうなずいた。
母の言葉は、胸にすっと入ってくる。けれど、自分らしくいるというのが、どういうことなのかは、まだよく分からなかった。
「お母さんは、お店があるから寮まで一緒には行けないけれど……」
「大丈夫。ひとりで行けるよ」
「そうね。エリシアなら大丈夫」
エミリアはそう言って、娘を抱きしめた。
パンの焼ける匂い。母の腕の温もり。店の床を踏む慣れた足音。
どれも、ずっと当たり前だったものだ。明日からは、それらのそばで目を覚ますことができない。
エリシアは、母の背中に腕を回した。
「いってきます」
「いってらっしゃい。体に気をつけてね」
母の腕が離れる。
エリシアは父の古いバッグを肩に掛け、店の扉を開いた。朝の光が差し込み、外の通りから荷車の軋む音や人々の話し声が流れ込んでくる。
店先には、エミリアが焼いたパンを買おうと、すでに何人かの客が並んでいた。母は今日も店を開け、いつもどおりパンを売る。エリシアがいなくても、パン屋の一日は始まっていく。
エリシアは一度だけ振り返った。
エミリアは店の中から手を振っている。
エリシアも手を振り返し、今度こそ前を向いて歩き出した。
王立ビスタ魔法学園は、王都の南側にある貴族街の外れに建っている。
エリシアは、下町の通りを南へ進んだ。店や家並みは、貴族街に近づくにつれて少しずつ様子を変えていく。道は整えられ、石畳の隙間から伸びる草も少なくなった。建物の壁には傷や汚れが減り、窓辺に飾られた花も増えていく。
同じ王都の中なのに、少し歩いただけで景色が違う。
それでも、学園へ向かう道には平民らしい服装の生徒もいた。大きな荷物を抱えた子や、家族と別れたばかりなのか、何度も後ろを振り返る子もいる。
エリシアは、自分だけが緊張しているのではないのだと気づき、少しだけ肩の力を抜いた。
やがて、道の先に学園の門が見えてきた。
王立ビスタ魔法学園。
門の上には、校名を刻んだ大きな紋章が掲げられている。門をくぐる生徒たちの姿を眺めながら、エリシアは足を止めた。
「ここで、これから暮らすんだ……」
言葉にしてみると、改めて実感が湧いてくる。
女子寮の建物は、学園の敷地内でも少し奥まった場所にあった。男子寮とは別の敷地に建てられており、周囲には高い塀と門が設けられている。門の前には寮の係員が立ち、入寮する生徒と家族の名前を確認していた。
エリシアがひとりで近づくと、係員は手元の名簿を確認した。
「入寮する生徒ですね。お名前をお願いします」
「エリシアです。今日から入寮します」
係員は名簿に目を落とし、該当する名前を見つけると、寮の玄関を指し示した。
「中で寮母がお待ちです。お荷物はご自身でお持ちになりますか?」
「はい。自分で持っていきます」
門をくぐる前、エリシアは後ろを振り返った。
母はいない。店の仕事があるのだから当然だ。それでも、さっきまで見ていたパン屋の扉がないだけで、急に心細くなった。
エリシアは父の古いバッグの肩紐を握りしめ、女子寮の敷地へ入った。
玄関ホールには、入寮の手続きをする生徒が何人かいた。落ち着いた様子で侍女に荷物を預けている令嬢もいれば、家族と別れを惜しむ生徒もいる。
エリシアが受付へ進むと、寮母が穏やかな笑顔で迎えた。
「いらっしゃい。王立ビスタ魔法学園女子寮へようこそ。あなたがエリシアさんね」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。寮の決まりや設備については、寮長が案内してくれるわ。フローラさん、お願いできるかしら」
「はい、寮母様」
ホールの奥から、ひとりの少女が歩いてきた。
長い青髪が、歩みに合わせて静かに揺れている。澄んだ青い瞳と整った顔立ちが目に入り、エリシアは思わず見とれた。誰もが振り返りそうな美人なのに、表情や足取りには落ち着きがあり、相手を急かすようなところはない。エリシアより年上の、学園生活に慣れた生徒らしい余裕が感じられた。
「初めまして、エリシアさん。三年生のフローラ・フェルナードです。女子寮の寮長を務めています」
「初めまして。エリシアです」
フローラは、エリシアが肩に掛けた古いバッグに目を向けた。擦り切れた革や繕われた肩紐から、大切に使われてきた物だと分かる。
「お荷物はそちらに?」
「はい。必要なものを詰めてきました」
「そうでしたか。では、お部屋へご案内しますね。寮の中を歩きながら、必要なことも説明します」
「お願いします」
フローラはエリシアを連れ、玄関ホールから奥の廊下へ進んだ。
「女子寮は男子寮とは完全に分かれています。男子生徒は、こちらの敷地に入ることもできません。もし用事がある場合は、寮の外にある面会場所を使う決まりです」
フローラは歩きながら、廊下の先にある扉や階段を示していく。
「食堂と調理場は一階にあります。食堂は全生徒が利用できますし、自分で料理をしたい生徒は調理場を使えます。Aクラスの方は、別の階に個室が用意されています」
「クラスによって、部屋が違うんですね」
「ええ。Bクラスは一人部屋、Cクラスは二人で一部屋、Dクラスは四人で一部屋です。Aクラスは生活に必要な設備が部屋に揃っています」
階段を上がり、フローラは廊下の途中で足を止めた。
「こちらがエリシアさんのお部屋です」
扉が開かれる。
中には、エリシアが想像していたよりもずっと広い部屋があった。玄関を入ると、まず広々としたリビングが目に入る。
左手には寝室とトイレ、右手には小さな厨房と侍女の部屋が並んでいた。浴室もリビングから直接行ける場所にあり、この部屋だけで生活のすべてが完結する造りになっていた。
「ここを、私ひとりで使っていいんですか?」
「はい。Aクラスの生徒は個室です。こちらの部屋は、侍女の方が一緒に暮らす場合に使います」
フローラが示した部屋には、寝台と小さな机が置かれていた。エリシアには侍女がいない。母と二人でパン屋を営んできた彼女には、自分の世話をする人がつく生活など想像もつかなかった。
「使わないままでも大丈夫ですか?」
「もちろんです。物置として使う方もいれば、空けたままにする方もいます」
「そうなんですね」
エリシアはリビングを見回した。
寝台も、机も、椅子も、ひとりで使うには立派すぎる。パン屋の二階で母と暮らしていた部屋より、ずっと広かった。
「厨房があるのは助かります。自分で料理をしてもいいんですね」
「ええ。Aクラスには高位貴族のご子息やご令嬢もいますから、侍女に料理を任せるために厨房が備えられているんです。食事に毒が入ることを警戒するご家庭もありますので」
フローラは厨房の隅にある箱型の魔法具を指さした。
「それから、こちらは魔冷蔵です。今年からAクラスの部屋に設置されました。中に食材を入れておけば、魔法の力で冷やして保存できます」
エリシアは近づき、魔冷蔵の表面にそっと手を当てた。
金属の縁には細かな魔法陣が刻まれている。扉の向こうから、ひんやりした空気がかすかに伝わってきた。
「こんな魔法具まで、部屋にあるんですね」
「便利ですよ。食材を部屋に置いておけますから」
「私、料理は母に教わっていたんです。ここで作れるなら、うれしいです」
「それはよかったです」
フローラはそう言って、少しだけ表情を和らげた。
「食堂のほかに、Aクラス専用の食堂もあります。そちらはレストランのような形式になっていますが……平民の方には、少し値段が高いかもしれません」
フローラの声音が、わずかに柔らかくなる。
「私も、あまり利用していないんです。値段を見ると、どうしても気になってしまって」
「フローラ様もですか?」
「ええ。食事の値段は、毎日のことですから。つい気になってしまいます」
エリシアは、ほっとした。
Aクラスの寮にいるのは、自分だけではない。フローラも、同じように値段を気にするのだ。
「私も毎日使うのは難しそうです。厨房で作ることにします」
「その方がいいかもしれませんね。調理場には基本的な道具もあります。足りないものがあれば、寮母に相談してください」
「分かりました」
フローラはリビングの椅子を勧めたが、エリシアはまだ立ったままだった。初めて見る部屋のすべてが気になり、ひとつずつ確かめたくなる。
「寮の説明でもう一つ、洗濯についてお話しします」
フローラは少し申し訳なさそうに言った。
「Aクラスの生徒は、侍女に洗濯を任せるか、割り当てられたBクラスの生徒にお願いすることができます。自分で洗うこともできますが、その場合は担当を辞退する形になります」
「Bクラスの方が、Aクラスの洗濯をするんですか?」
「はい。BクラスにはAクラスの洗濯を担当する生徒がいます。Bクラスの洗濯は、Cクラスの生徒が担当します。ただし、Bクラスの三年生は最終学年なので、洗濯当番はありません。CクラスとDクラスの生徒も、それぞれ担当が決まっています」
フローラは一度視線を伏せた。
「エリシアさんには侍女がいないと聞いていましたので、CかDクラスの平民出身の方にお願いする段取りを考えていました。気を遣わせてしまうかもしれないと思ったのですが……」
「私、自分の洗濯はできます」
エリシアは答えた。
「母と暮らしていた時も、洗濯は自分でしていました。できれば、これまでどおり自分でやりたいです」
フローラは少し目を見開き、それからゆっくりとうなずいた。
「分かりました。ご自分でなさるのなら、割り当てを外しますね」
「ありがとうございます」
「無理はしないでください。寮には共同の洗濯場があります。場所はあとで案内します」
ひととおりの説明を終えたフローラは、扉のそばで足を止めた。
「エリシアさん。学園生活で困ったことがあれば、遠慮なく私のところへ来てください。寮のことでも、クラスのことでも構いません」
「ありがとうございます、フローラ様」
フローラはにこやかに一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉まると、部屋の中は静かになった。
エリシアは父の古いバッグから、着替えや洗面道具を取り出していく。棚に衣服を収め、机の上に筆記具を並べた。母が持たせてくれたパンも、厨房の棚に置く。
荷解きを終えるころには、部屋がほんの少しだけ自分の場所らしくなっていた。
エリシアは厨房へ戻り、魔冷蔵を開いた。中には、まだ何も入っていない。
今夜の食事や、明日から使う食材を買いに行こう。
バッグの中には、これまで店を手伝いながら貯めてきたお金も入っている。下町より品物のよい店が貴族街にあると、フローラが教えてくれた。
値段は少し高いかもしれない。それでも、自分で選んだ食材を使って料理できるのは楽しみだった。
エリシアは戸締まりを確かめ、父の古いバッグを肩に掛けた。
新しい部屋を出て、寮の階段を下りる。
入学式は明日。学園での授業も、寮での暮らしも、まだ始まったばかりだ。
エリシアは、買い物へ向かうため女子寮の門をくぐった。




