第31話 レンという名前
レオンがパン屋の扉を開けると、焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐった。
「いらっしゃいませ!」
店の奥から、明るく元気な声が飛んでくる。
レオンは思わず、声が聞こえた方へ目を向けた。
明るい茶色の髪に、人懐っこい笑顔。綺麗という言葉よりも、可愛いという言葉の方が似合う少女だった。
エリシア。
乙女ゲームの主人公である。
もちろん、本人はレオンのことなど知らない。
今のエリシアは王立学園へ入学しておらず、自分が王国の未来を左右する物語の中心人物になることも知らない。
ただパン屋で働いている、平民の少女だった。
「お客様?」
何も言わずに見つめているレオンを不思議に思ったのか、エリシアが首を傾げる。
レオンは、そこでようやく我に返った。
「ああ、悪い。ここの一番人気のパンを二つ頼むよ」
エリシアは、すぐに明るい笑顔へ戻った。
「でしたら、こちらです!」
そう言って棚から取り出したのは、切れ目を入れたパンに肉と野菜を挟んだ物だった。
レオンには、そのパンにも見覚えがあった。
原作のアレクルートで、王子であるアレクとエリシアが二人でこのパンを食べる場面がある。
身分の違う二人が少しずつ距離を縮めていく、印象的な出来事の一つだった。
「今、作ったばかりなんですよ!」
「へえ」
「このパン、私が考えたんです! すごく美味しいですから!」
エリシアは自分の作ったパンを指差し、どこか誇らしそうに胸を張った。
その明るさは、ゲームの中で見た姿と何も変わらない。
自然と周囲まで明るくし、人を元気にするような笑顔だった。
なるほど、攻略対象となる者達が彼女へ惹かれるのも分かる。
レオンは内心で納得しながら、僅かに苦笑した。
「じゃあ、それを二つ」
「ありがとうございます!」
エリシアは嬉しそうに答えると、二つのパンを手早く包んだ。
レオンは代金を支払い、包みを受け取って店を出た。
外では、クラリスが先ほどと同じ場所で待っていた。
人目を避けようとしているのか、通りに面した建物の柱の陰へ身を隠している。
しかし、陽光を受けて輝く金髪と、綺麗に整えられた縦巻きの髪が目立ちすぎていた。
本人は隠れているつもりなのだろうが、通りを歩く人々から何度も視線を向けられている。
まったく隠れられていない。
レオンは思わず苦笑した。
「ほら、買ってきたよ」
声をかけながら、包まれたパンを一つ差し出す。
それを見た瞬間、クラリスの表情が明るくなった。
「ありがとうございますわ!」
本当に嬉しそうな顔だった。
先ほどまで不安そうにパン屋の前を行き来していた少女と、同じ人物とは思えないほどである。
「せっかくだし、一緒に食べるか?」
「え?」
「作りたてだと言っていたし、冷める前に食べた方が美味しいだろう」
クラリスは少し迷うようにパンとレオンを交互に見た。
しかし、やがて小さく頷いた。
「それでは、ご一緒させていただきますわ」
二人は人通りの多いパン屋の前を離れ、近くにある小さな広場へ移動した。
中央には噴水があり、その周囲を囲むように何台かのベンチが置かれている。
街を歩きながら怪しい商人を探しているうちに、いつの間にか夕方が近づいていた。傾き始めた陽光が建物を照らし、王都の街並みを少しずつ橙色へ染めている。
二人は並んで、空いていたベンチへ腰を下ろした。
クラリスは包みを開き、手にしたパンをしばらく眺める。
下町の店で売られているパンを食べること自体が、初めてなのかもしれない。
やがて、恐る恐る口元へ運び、小さく一口かじった。
その瞬間、クラリスの青い瞳が大きく見開かれる。
「美味しい……」
小さく呟くと、すぐにもう一口かじった。
さらに、もう一口。
最初は恐る恐る食べていたはずなのに、気づけば夢中になっている。
その様子を見ていたレオンは、思わず笑った。
「そんなに美味しいか?」
「はい! すごく美味しいです!」
クラリスは迷うことなく即答した。
「それならよかった」
レオンも、自分の分のパンを一口かじる。
柔らかなパンの間に、香ばしく焼かれた肉と新鮮な野菜が挟まれている。
肉汁を吸ったパンにも味が染み込み、確かに美味しかった。
人気商品になるのも納得できる。
二人はパンを食べながら、しばらく他愛のない話をした。
王都の街のこと。
今日の天気のこと。
この広場へ来る途中で見かけた店のこと。
互いの身分も名前も知らないまま、どうでもよい話ばかりを続けた。
それでも、不思議と居心地は悪くなかった。
やがてパンを食べ終えたクラリスは、手元に残った包み紙を見つめ、満足そうに笑った。
「美味しかったですわ。本当にありがとうございます」
レオンは気にする必要はないと示すように、軽く肩を竦める。
「気にするな」
すると、クラリスの動きが突然止まった。
何か大切なことを思い出したように、手元の包み紙を見つめている。
「……あっ」
「ん?」
「代金ですわ」
レオンが首を傾げた。
「代金?」
「私、払っておりませんでした!」
どうやら、本当に今まで忘れていたらしい。
クラリスは慌てて鞄を開き、中から財布を取り出した。
そして、何の迷いもなく金貨を一枚取り出すと、レオンへ差し出した。
レオンは、差し出された金貨を見て固まった。
「待て」
「えっ……何ですの?」
「どうして金貨なんだ?」
クラリスは不思議そうに首を傾げた。
「足りませんか?」
「いや、多すぎる」
レオンは即答した。
「パン一個だぞ?」
「……え?」
クラリスは手の中にある金貨を見た。
それからレオンの顔を見る。
もう一度、金貨へ視線を落とす。
何度か繰り返した後、ようやく自分が差し出した金額がおかしいことに気づいたらしい。
「そ、そうなのですか?」
「そうなんだよ」
レオンは呆れながら額へ手を当てた。
やはり貴族だ。
それも、王国でも最上位に近い公爵家の令嬢である。
金銭感覚が、一般の平民とはまるで違っていた。
「代金はいらないよ」
「ですが……」
「店の前で困っていたみたいだったしな」
レオンは小さく笑った。
「それに、大した金額じゃない」
クラリスは困ったように金貨を握り締めた。
たとえ少額であっても、見知らぬ相手に借りを作ることが嫌なのだろう。
ゲームでは高慢な悪役令嬢として描かれていたが、実際のクラリスは真面目な性格をしているらしい。
しばらく悩んでいるクラリスを見て、レオンは少し考えた。
そして、前世で使っていた言い訳を口にする。
「女性を食事に誘って、金を出させるのはよくないと思うぞ?」
クラリスは一瞬目を瞬かせ、その言葉の意味を考えた。
やがて、少しだけ頬を赤くしながら、小さく頷く。
「では……お言葉に甘えさせていただきます」
「それでいい」
レオンが笑うと、クラリスも柔らかく笑った。
夕陽が王都の街を照らしている。
広場を行き交う人の数も少しずつ減り、家路を急ぐ者の姿が増え始めていた。
そろそろ、屋敷へ戻る時間だ。
レオンはベンチから立ち上がる。
「それじゃあな」
短く別れを告げ、その場を去ろうとした。
しかし、クラリスも慌てて立ち上がった。
「あの!」
「ん?」
呼び止められたレオンが振り返る。
クラリスは僅かに緊張した様子で、胸元へ手を当てていた。
「お名前を聞いても、よろしいでしょうか?」
「俺は、レ――」
答えようとしたレオンの言葉が、途中で止まった。
危ない。
危うく、本名を口にするところだった。
正式にノルディア辺境伯へ任命されたばかりの自分が、平民の格好で王都を歩いていたと知られれば面倒なことになる。
それに、クラリスも公爵令嬢でありながら、一人で下町のパン屋へ来ている。
互いに身分を隠しているのだから、今は自分だけが正体を明かす必要はないだろう。
「レン」
咄嗟に出た偽名だった。
「俺は、レンだ」
クラリスは、その名前を確かめるように繰り返した。
「レンさん……」
忘れないように。
大切に覚えようとするように。
そんな声だった。
「君は?」
レオンも、一応尋ねてみた。
すると、クラリスは明らかに慌て始めた。
「わ、私は……」
言いかけたところで口を閉ざす。
ローゼンベルク公爵家の名前を出すべきか、迷っているのだろう。
その反応を見て、レオンは思わず笑った。
「言いたくないなら、いいよ」
「すみません……」
「気にするな」
レオンは軽く手を振った。
「じゃあな」
それだけを告げ、クラリスへ背を向けた。
クラリスは、遠ざかっていくレオンの背中を黙って見送った。
夕陽に照らされた後ろ姿が、人々の間を進んでいく。
少しずつ遠ざかり、やがて大通りの人混みへ紛れて見えなくなった。
それでも、クラリスはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「レンさん……」
教えられた名前を、小さな声で呟く。
そして、ようやく気づいた。
結局、自分は名前を名乗ることができなかった。
せっかく親切にしてもらったのに、名前さえ教えられなかったことを少し申し訳なく思う。
それでも、クラリスの口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
一方、クラリスと別れたレオンは、大通りへ戻っていた。
怪しい商人探しは、まだ終わっていない。
しかし、すでに夕方になっている。
今日は諦めて、屋敷へ戻った方がよいかもしれない。
そう考えた時だった。
大通りから外れた路地の奥から、荒々しい怒鳴り声が聞こえてきた。
「だから、金を出せって言っているだろ!」
「その荷物も置いていけ!」
聞こえてくるのは、複数の男達の声だった。
どう考えても、まともな話をしている様子ではない。
面倒事の気配しかしなかった。
レオンは足を止め、路地の奥へ目を向ける。
そして、小さくため息を吐いた。
「嫌な予感しかしないな……」
その予感は、残念ながら当たっていた。




