第316話 金貨一万九千二百五十枚
志願者達との面談を終えてから三日後、ノルディア邸の執務室には再び主要な者達が集まっていた。
机の中央には避難都市の建設予定地を記した地図が置かれ、その周囲には街道の整備計画、必要な食料や建築資材、教国とフェルナード領へ避難させる領民の名簿が並んでいる。
都市建設の責任者となったブロドは、志願した下級貴族達を連れて候補地を調査し、僅か三日で最初の計画書を作り上げていた。
「避難都市の候補地は、こちらで問題ないと考えております。」
ブロドが地図上の平原を指す。
「山脈から十分な距離があり、近くには川もございます。既存の街道から外れておりますが、分岐路を新たに整備すれば、グランツの宿場町とフェルナード領の双方へ繋げることができます。」
「井戸は?」
クロエが計画書へ目を通しながら尋ねる。
「最初に三か所掘る予定でございます。避難民の受け入れ人数が増えた場合に備え、さらに二か所追加できる場所も確保いたします。」
「食料を保管する倉庫が川に近すぎない?」
「水を運ぶ距離を優先いたしましたが、洪水の危険がございますか?」
「雨が続いた時に川が溢れたら、最初に倉庫が使えなくなるよ。少し高い場所へ動かした方がいいと思う。」
ブロドは地図を確認すると、すぐに頷いた。
「修正いたします。」
クロエの隣では、ゼムが都市全体の区画へ目を通していた。
「避難民の住居と、商人や職人の区画が分かれておりますね。」
「避難時の混乱を抑えるためでございます。物資を配給する区域へ人が集中すれば、事故や盗難が起きます。住居、倉庫、市場、治療所を分け、その間に広い道を設けます。」
ガレスが地図上の外周を指でなぞる。
「防壁は造らないのか?」
「最初から都市全体を囲む防壁を造れば、費用と時間がかかりすぎます。」
「魔獣から逃げるための都市だ。壁がなくては意味がない。」
「ですので、最初に領民が立て籠もれる中心区画だけを壁で囲みます。都市が拡大した後、外側へ新たな防壁を造る計画です。」
ブロドは別の紙を取り出した。
中心には食料庫、井戸、治療所、広場が置かれ、その周囲を石壁で囲む設計になっている。
平時には倉庫街として利用し、魔獣が接近した場合は領民を内部へ収容する。
ガレスは少し考えた後、頷いた。
「それならば、最初に防衛すべき範囲を狭められる。」
「周囲へ見張り台も建設いたします。魔獣を発見した場合は、鐘と狼煙で都市へ知らせます。」
「鐘の音が届かない村には?」
「同じ形式の見張り台を避難路の途中へ建て、順番に狼煙を上げます。」
レオンは全員の話を聞きながら、計画書の最後に記された数字へ目を向けた。
問題は費用だった。
井戸、倉庫、治療所、街道、橋、見張り台、食料、馬車、走竜。どれも領民を守るために必要だが、無料で用意できるものは一つもない。
「それで、いくら必要なんだ?」
レオンが尋ねると、ブロドはクロエを見る。
「最終的な計算は、クロエ様にお願いいたしました。」
クロエは机の端に置いていた分厚い帳簿を開いた。
「まず、避難都市の建設と領内の避難準備に金貨二千五百枚。」
執務室の空気が僅かに重くなる。
金貨二千五百枚。
小さな貴族家なら、数年分の収入に相当する金額だった。
「内訳は?」
「都市の土地を整える費用、井戸、倉庫、治療所、中心区画の防壁、街道の整備。それから最初に備蓄する食料と寝具、馬車と走竜の確保だよ。」
「全部完成させられるのか?」
「無理。」
クロエは即答した。
「これは最初の準備金。都市全体を完成させる金額じゃないよ。まず領民を受け入れられる最低限の設備を造って、あとは今後の収入と進み具合を見ながら増やしていく。」
レオンはブロドを見る。
「金貨二千五百枚で、どこまでできる?」
「井戸と倉庫、仮設住居、中心区画の防壁、主要街道の整備まででございます。市場や職人街は後回しとなります。」
「避難場所としては使える?」
「はい。ただし、長期間の生活には適しません。」
「まずはそれでいい。都市として発展させるのは、その後だ。」
ブロドが頭を下げる。
「承知いたしました。」
クロエは帳簿の次の項目を指した。
「それから、教国へ渡す準備金が金貨千五百枚。」
「千五百枚も必要なのか?」
ガレスが驚いたように尋ねる。
「孤児、病人、負傷者を受け入れてもらうんだよ。食料と寝具だけじゃなくて、治療薬や治癒術師も必要になる。何も起きなかったとしても、教会や孤児院には準備を続けてもらわないといけないから。」
教国へ避難させるのは、自力で長距離を移動することが難しい者達だ。
孤児、身寄りのない子供、病人、継続的な治療を必要とする者。受け入れる側にも大きな負担がかかる。
「セリオスには連絡したのか?」
「受け入れられる人数を確認する手紙は送ったよ。正式な金額と人数が決まったら、もう一度送る。」
「フェルナード領は?」
「避難都市で受け入れきれない家族や、仕事を続けられる農民、商人、職人をお願いする予定。フェルナード領へ送る物資と移動費用は、金貨二千五百枚の方に含めてる。」
レオンは指で机を軽く叩きながら、数字を頭の中で整理する。
避難都市と領内準備に金貨二千五百枚。
教国の受け入れ準備に金貨千五百枚。
合計、金貨四千枚。
「現在の保有資金は?」
レオンが尋ねると、クロエは一度だけ手を止めた。
「本当に使うの?」
「そのための会議だろ。」
「そうだけど……。」
クロエは帳簿を見つめた後、ゆっくりと答えた。
「今あるのは、金貨二万三千二百五十枚。」
目標としていた金貨二万枚を、三千二百五十枚上回っている。
何年もかけて商品を作り、販路を広げ、利益を積み重ねてきた結果だった。
レオンは、ようやくここまで来た。
クラリスが犯罪奴隷へ落とされた時、オークションで購入するために必要な金貨二万枚。
誰にも本当の目的を話さないまま、ただその数字だけを目指してきた。
「金貨四千枚を使えば、残りは?」
分かりきった答えだった。
それでもレオンは尋ねた。
クロエは帳簿へ数字を書き込む。
金貨二万三千二百五十枚。
そこから金貨四千枚を引く。
「金貨一万九千二百五十枚。」
金貨二万枚を、再び下回る。
僅か七百五十枚。
だが、その七百五十枚が足りなければ、クラリスを落札できない可能性がある。
オークションで競争相手が現れれば、必要な金額はさらに増えるかもしれない。
レオンは帳簿に書かれた数字を見つめた。
「レオン。」
クロエが静かに呼ぶ。
「この金は、これから減ることはあっても、増えることはないよ。」
レオンは顔を上げる。
「避難都市は、金貨二千五百枚だけじゃ完成しない。街道が壊れたり、建築資材が値上がりしたりすれば、追加の費用も必要になる。備蓄した食料だって、古くなる前に入れ替えないといけない。」
クロエは帳簿を閉じなかった。
まだこれから必要になる金額が、何行も書かれている。
「ポーション、ボア肉、魔力草、宿場町。今ある事業の利益は、領地の維持と新しい準備に使うことになる。」
「分かってる。」
「レオンがレイン魔道国家へ行けば、新しい事業も始められない。」
「ああ。」
「本当に使うの?」
クロエはもう一度尋ねた。
金貨二万枚を何に使うつもりなのか、クロエには話していない。
それでも、その金を集めるために誰よりも働いてきたのはクロエだった。
レオンが考えた商品を売り、商人と交渉し、新しい販路を作った。な
クロエがいなければ、金貨二万枚へ届くことはなかった。
だからこそ、何も説明しないまま目標を再び下回ることへ、レオンも罪悪感を覚える。
だが、クラリスを救うための金を守り、今いる領民を危険へ晒すことはできない。
まだ起きていない未来のために、目の前の命を見捨てることもできない。
「使う。」
レオンははっきりと答えた。
クロエは何も言わず、レオンを見つめる。
「ここで金を惜しんで領民が死んだら、何のために領主をしてるのか分からない。」
「……そう言うと思った。」
クロエは小さく息を吐き、帳簿へ支出を書き込んだ。
「避難準備、金貨二千五百枚。教国への準備金、金貨千五百枚。」
ペン先が紙の上を滑る。
「支出後の保有資金、金貨一万九千二百五十枚。」
数字を書き終えたクロエは、ペンを置いた。
「これで決定だね。」
「ああ。」
「後から、やっぱり返してって言っても無理だからね。」
「言わない。」
ブロドが静かに頭を下げる。
「お預かりした金貨は、一枚たりとも無駄にはいたしません。」
クロエがすぐにブロドを見る。
「無駄にしないだけじゃ駄目だよ。」
「と申しますと?」
「同じ物なら安く買う。余った資材は別の場所で使う。商人なら、使った金額以上のものを残して。」
ブロドは僅かに笑った。
「承知しております。」
「それと、全部の支出を記録して。誰が何を買って、どこへ運んだのかも。」
「もちろんでございます。」
「あとで僕が確認するからね。」
「どうぞ、いくらでもご確認ください。」
二人のやり取りを見ながら、ゼムがレオンへ尋ねる。
「準備金については、これで決定でございますね。」
「ああ。すぐに動かしてくれ。」
「承知いたしました。」
レオンはもう一度、帳簿に書かれた金額を見る。
金貨一万九千二百五十枚。
目標まで、あと七百五十枚。
だが、実際にはこれからさらに減る可能性がある。
クロエの言うとおり、ノルディアに残しているだけでは増えることはない。
それなら、自分がレイン魔道国家で稼ぐしかない。
冒険者として依頼を受け、ダンジョンで得た素材を売る。
三つの魔法具を手に入れるまで、何か月かかるかは分からない。
しかし、その期間をただ消費するつもりはなかった。
レオンは帳簿から目を離し、机の引き出しを開ける。
中には、レイン魔道国家の地図と、三つのダンジョンについて書かれた紙が入っていた。
魔獣の氾濫に備えるための杖。
魔力の流れを見る《魔脈の片眼鏡》。
そして、原作で闇堕ちしたクラリスが身につけていた首飾り。
領民を守る準備は、少しずつ整い始めた。
次は、自分が未来を変えるための準備を始める番だった。
レオンは三つのダンジョンが記された紙を取り出し、机の上へ置いた。
「ゼム、クロエ。」
二人がレオンを見る。
「出発の日を決めよう。」
金貨二万枚を再び下回ったその日、レオンはレイン魔道国家へ向かうことを正式に決めた。




