第314話 再び貴族へ
執務室の机には、何枚もの地図と書類が広げられていた。
バルト山脈周辺の村、領都へ続く街道、フェルナード領と教国へ向かう二つの避難経路。小規模、中規模、大規模、それぞれの被害に応じた避難人数と必要な兵士の数も、少しずつ形になり始めていた。
だが、計画を具体的にするほど新しい問題が浮かび上がる。
「避難させる場所が足りないね。」
クロエが地図を見ながら呟く。
「フェルナード領と教国に受け入れてもらうとしても、全員を領外へ移動させるのは無理だよ。大規模な被害になれば、馬車も護衛も足りない。」
「徒歩での避難には時間がかかりすぎます。」
ゼムもクロエの意見へ頷く。
「領民全員を遠方へ避難させるより、領内に一時的な避難場所を用意する必要がございます。」
ガレスが山脈から少し離れた平原を指した。
「この付近ならば、山脈から距離があります。周囲を見渡せるため、魔獣が接近しても早期に発見できるでしょう。」
「水は?」
クロエが尋ねる。
「少し離れた場所に川がございます。ただし、多くの領民を受け入れるには井戸も必要でしょう。」
レオンは地図を見つめながら考える。
住居だけでは足りない。食料を保存する倉庫、負傷者を受け入れる治療所、馬車と走竜を置く場所も必要になる。
避難が長期化すれば、領民へ仕事を与える仕組みも必要だった。
「村じゃ足りないな。」
レオンの言葉に、クロエが顔を上げる。
「新しい町を造るつもり?」
「避難するためだけの場所を造っても、何も起きなかった時に無駄になる。最初から人が住める町として造った方がいい。」
「簡単に言うけど、新しい町を一つ造るんだよ?」
「分かってる。」
必要なのは建物を造る知識だけではない。
大量の建築資材を集め、職人を雇い、物資を運び込む。完成後には商人を呼び、市場と物流網を作らなければならない。
現在のノルディアには、そのすべてを一任できる人材がいなかった。
クロエならできるかもしれない。
しかしクロエには、領地の財務、商品の販売、帝国やフェルナード領との取引がある。さらにレオンがノルディアを離れれば、ゼムの補佐まで任せることになる。
これ以上の仕事を背負わせるわけにはいかなかった。
「ぼっちゃま。」
ゼムが静かに口を開く。
「都市の建設を進めるのであれば、責任者を別に置く必要がございます。」
「ああ。分かってる。」
「ですが、そのような人材に心当たりはございますか?」
レオンは答えられなかった。
政務官だけでは足りない。商人であるだけでも駄目だ。都市を造り、大量の物資と人間を動かした経験を持つ者が必要だった。
コンコン。
その時、執務室の扉が叩かれた。
ゼムが扉へ視線を向ける。
「何用ですか?」
「ブロド・グランツ様がお見えになっております。」
扉の外から使用人の声が返ってきた。
予想していなかった名前に、レオンは目を瞬く。
クロエも驚いたように顔を上げた。
「ブロドが?」
「お約束はございませんが、辺境伯閣下へ直接お話ししたいことがあると申しております。」
レオンはクロエを見る。
クロエは少し考えた後、小さく頷いた。
「通してくれ。」
「承知いたしました。」
しばらくして、執務室の扉が開いた。
中へ入ってきたブロドは、以前より上質な商人服を身につけていた。だが、派手な装飾品は一つもない。ポートミル商会を任される者らしい、落ち着いた姿だった。
ブロドはレオンの前まで進むと、深く頭を下げた。
「突然の訪問、申し訳ございません。レオン辺境伯閣下。」
「構わない。それで、今日はどうした?」
ブロドは顔を上げる。
「ノルディア領が、バルト山脈の魔獣に備えて新たな避難場所を建設するとお聞きしました。」
レオンは僅かに眉を寄せた。
「情報が早いな。」
「商人にとって、情報は商品と同じでございますので。」
ブロドの視線が、机に広げられた地図へ向く。
「まだ正式に発表していない。どこまで知っている?」
「大規模討伐によって魔獣がノルディア領へ流れる可能性があること。そして、その被害に備え、領民を受け入れる新たな都市を建設しようとしていることまでです。」
クロエがブロドを見つめる。
「それを聞いて、どうしてここに来たの?」
ブロドは一度呼吸を整えると、レオンへ向き直った。
「新たな避難都市の建設を、私にお任せいただけないでしょうか?」
執務室が静まり返る。
レオンはすぐには答えなかった。
「ブロドは、フェルナード家の専属商人だろ?」
「正確には、ポートミル商会がフェルナード家の専属商会でございます。」
「同じことじゃないの?」
クロエの問いに、ブロドは静かに首を横へ振る。
「ポートミル商会は、すでに私がいなくても独立して動けるようになりました。仕入れ、販売、輸送、フェルナード家との交渉。そのすべてを任せられる者を育てております。」
「ブロドが抜けても、商会は回るの?」
「はい。私がいつまでも全てを決めなければ動けない商会では、同じ失敗を繰り返すだけです。」
かつて王国でも有数の大商会だったグランツ商会は、ブロドが失脚したことで崩壊した。
ブロド一人の判断と信用に、すべてが依存していたからだ。
その失敗を経験したブロドは、ポートミル商会を自分がいなくても動ける組織へ育てていた。
「フェルナード家には話したのか?」
「まだでございます。」
「先に俺のところへ来たのか?」
「お断りされれば、フェルナード伯閣下へご迷惑をお掛けするだけですので。」
「レイモンド様が簡単に手放すとは思えないけど。」
クロエがそう言うと、ブロドは僅かに笑った。
「商会そのものを手放すわけではございません。それに、私より優秀な者が商会を動かせると証明できれば、お許しいただける可能性はあると考えております。」
レオンは椅子へ座り直す。
「どうして避難都市を造りたい?」
「私には、都市と物流網を築いた経験がございます。」
「聞いている。グランツの宿場町を王国一の物流中継地点にしたのはブロドだったな」
「その経験を、今回の計画に生かせると考えました」
「聞きたいのは、できるかどうかじゃない。どうして自分から危険なノルディアへ来たのかだ」
ブロドの表情から笑みが消えた。
視線が一瞬だけクロエへ向かう。
そして、レオンの前で深く頭を下げた。
「私は、もう一度貴族になるチャンスを頂きに参りました。」
その言葉を聞いたクロエの指が、僅かに動いた。
レオンもブロドから目を逸らさない。
「まだ貴族になりたいのか?」
「はい。」
ブロドは迷うことなく答えた。
「私はかつて、男爵位を得るためにクロエ様を誘拐しました」
静かな声だった。
だが、その言葉は執務室へ重く落ちた。
ブロドは王国でも有数の大商会を築き、十分すぎるほどの富と名声を手に入れていた。
それでも貴族になることを望んだ。
黒いマントを纏った貴族から、素性の怪しい商人を捕らえて引き渡せば、男爵位を与えると言われた。
その言葉を信じ、クロエを誘拐した。
レオンが救出しなければ、クロエは黒マントの貴族へ引き渡されていただろう。
「私は、自分の望みのためにクロエ様を売ろうとしました。その結果、グランツ商会も、財産も、信用も、すべてを失いました」
「それでも、まだ爵位が欲しいのか?」
「欲しいです」
ブロドは顔を上げた。
「一度すべてを失い、諦めようとしました。ですが、諦めることはできませんでした」
その瞳に、以前のような焦りはなかった。
「ただし、今度は誰かを犠牲にして爵位を得ようとは考えておりません」
ブロドは机に広げられた地図を見る。
「魔獣の氾濫に備える都市を完成させ、多くの領民を救う。その功績をもって、再び貴族になる機会を頂きたいのです」
「何も起きない可能性もある」
レオンは告げる。
「大規模討伐が成功して、一頭の魔獣もノルディア領へ来なければ、避難都市が誰かの命を救うことはない。それでも爵位を得られると思うか?」
「その時は、完成した都市と新たな物流網が残ります」
ブロドは即座に答えた。
「グランツの宿場町とノルディア領、そしてフェルナード領を結ぶ新たな中継地点にいたします。避難都市として使われなくとも、ノルディア領の発展に貢献できる都市を造ってみせます。」
何が起きても無駄にならないよう、すでに考えている。
ブロドは爵位を望みながらも、そのためだけに動いているわけではなかった。
レオンはクロエへ視線を向けた。
決める前に、クロエの意思を確認する必要がある。
かつてブロドに誘拐され、黒マントの貴族へ売られかけたのはクロエだ。
クロエは黙ったままブロドを見つめていた。
「クロエは、どう思う?」
少しの沈黙が流れる。
やがてクロエが口を開いた。
「僕は、反対しないよ」
ブロドが僅かに目を見開く。
「許したわけじゃないからね」
「承知しております」
「あの時のことも忘れてない」
「はい」
「でも、ブロドがグランツの宿場町を王国一の物流中継地点にしたことも知ってる。新しい都市を造るなら、ブロド以上の人はいないと思う」
クロエは少しだけ笑う。
「それに、出世払いはまだ終わってないから」
ブロドの表情が止まった。
六年前、商売のことを何も知らなかったクロエへ、ブロドは走竜を売った。
代金の半分を出世払いにし、商品を仕入れる金を残すことや、値切ることを教えた。
すべてを失ったブロドへ、クロエはその走竜を返した。
前へ進むための足として。
ブロドはゆっくりと頭を下げる。
「必ず、お返しいたします。」
「僕に返すんじゃないよ」
クロエは地図の上にある、避難都市の候補地を指した。
「そこへ逃げる人達に返して」
ブロドは顔を上げる。
「……はい」
短い返事だった。
しかし、その声には強い決意が込められていた。
レオンは二人のやり取りを見届けた後、ブロドへ告げる。
「分かった。避難都市の建設をブロドに任せる」
「ありがとうございます」
「ただし、爵位を与えるのは俺じゃない。功績を立てても、必ず貴族になれるとは約束できない」
「承知しております」
「それでもやるのか?」
「はい。その功績を認めていただけるほどの都市を造るだけでございます」
レオンは小さく頷いた。
「それと、クロエが担当している専属商人の仕事も引き継いでもらいたい」
今度はブロドではなく、クロエが驚いた。
「僕の仕事も?」
「全部じゃない。商業方針と予算の最終確認はクロエに任せる。でも、仕入れ、販売、輸送、商人との交渉まで続けていたら、ゼムの補佐なんてできないだろ。」
「それは……そうだけど」
「俺がいない間、領内の最終決定権はゼムに預ける。その補佐をクロエに頼みたい」
クロエは机の上に積まれた書類を見て、嫌そうに眉を寄せる。
「また仕事が増えるんだね」
「悪い」
「断っても、もう決めてるでしょ?」
「ああ」
クロエは大きく息を吐いた。
「分かったよ。専属商人としての実務はブロドに引き継ぐ。僕は方針と金の流れだけ確認する」
「お任せください」
ブロドが答える。
これで商業と避難都市を任せられる者は決まった。
だが、まだ人手が足りない。
都市の区画、避難民の名簿、物資の配給、街道の整備、建築職人の管理。ブロド一人で処理できる量ではなかった。
レオンがその問題を口にする前に、ブロドは鞄から数枚の書類を取り出した。
「人材についても、すでに候補を集めております」
「候補?」
「男爵家の次男や三男、領地を持たない準男爵達でございます」
ゼムが書類を受け取り、順番に目を通す。
「いずれも聞き覚えのない家名でございますね」
「有力派閥へ加わることすらできない、最下級の貴族達です」
「そんな人達が来るの?」
クロエの問いに、ブロドは頷く。
「弱小貴族であっても、魔力が有ると学園へ入り、政務や法律、会計、軍略の教育を受けております。中には、家督を継ぐ長男より優れた才能を持ちながら、生まれた順番だけで機会を得られなかった者もおります」
「どうして、そんな人達がノルディアに?」
「私と同じでございます」
ブロドは静かに答えた。
「功績を立てる機会を求めているのです」
魔獣の氾濫を防ぎ、多くの領民を救う。
その働きが王国に認められれば、役職や領地、爵位を得られる可能性がある。
何も持たない者達にとって、危険なノルディアは人生を変えられる場所でもあった。
レオンは書類から顔を上げる。
「この人達へ、ブロドが声を掛けたのか?」
「いいえ。私は、ノルディアが人材を求めているという話を、何人かの商人へ伝えただけでございます」
ブロドは穏やかに笑う。
「その話を聞いて、自ら志願された方々です」
「それを、声を掛けたって言うんじゃないの?」
クロエが呆れたように指摘する。
「私は何も強制しておりません」
「ブロド、最初からこのつもりで来たな?」
レオンが尋ねると、ブロドは悪びれることなく頭を下げた。
「避難都市を造るには、私一人では足りませんので」
レオンは改めて書類を見る。
会計に優れた者。
土木と建築を学んだ者。
軍略と兵站を得意とする者。
家督を継げないというだけで、能力を発揮する場所を与えられなかった者達。
全員を信用することはできない。
だが、能力を確かめたうえで仕事を任せる価値はある。
「一人ずつ会う。」
「では、面談の準備を進めます」
「まだ採用するとは言ってないぞ」
「レオン辺境伯閣下なら、家柄ではなく能力をご覧になると考えております」
ブロドはそう言って、もう一度頭を下げた。
レオンは小さく息を吐き、椅子の背へ身体を預ける。
ブロドは自分が貴族になる機会を求めて来た。
同時に、同じように機会を得られなかった者達までノルディアへ集めようとしている。
その野心を信用するのではない。
野心があるからこそ、働かせる。
「分かった。面談の準備をしてくれ。」
「承知いたしました。」
ブロドが深く頭を下げる。
かつて、爵位を得るために一人の少女を売ろうとした男。
その男が今度は、多くの領民を救う都市を造り、正当な功績で爵位を得ようとしていた。
同じ望みを抱きながら、選んだ道は以前とは違う。
レオンは地図の上に記された避難都市の候補地を見る。
都市建設を任せられる者が決まり、政務を支える人材にも目処が立った。
自分がノルディアを離れるために必要な準備が、また一つ整った。




