第311話 準備不足
帝国との和平が成立してから、一か月が経過していた。
ノルディア邸の執務室では、レオンとゼムが机の上に積み上げられた書類を処理していた。
帝国との和平条約。
バルト山脈の共同討伐。
帝国軍を受け入れる際の条件。
ノルディア、帝国、教国の三国で交わした文書の写し。
帝都から戻った後も仕事が減ることはなく、むしろ以前より増えている。
最後の書類へ署名したレオンは、疲れたように背もたれへ身体を預けた。
「少し休憩になさいますか?」
向かい側で書類を整理していたゼムが尋ねる。
「ああ、そうしてくれ。」
「では、お茶をご用意いたします。」
ゼムが一礼し、執務室を後にする。
扉が閉じると、部屋の中には静寂が戻った。
レオンは椅子から立ち上がり、窓辺へ向かう。
視線の先には、父グラニウスの墓があった。
今日も何人もの領民が花を持ち寄り、墓の前で静かに祈りを捧げている。
父が亡くなってから、長い年月が過ぎた。
それでも墓を訪れる領民が途絶えることはない。
父は本当に慕われていたのだろう。
寡黙で、自分の功績を語ることもなかった。
領民を守ることを当然だと思い、魔獣が現れれば誰よりも早く剣を取った。
帝国軍一万人を救った時でさえ、自分が成すべきことをしただけだと考えていたのだろう。
レオンは目を閉じる。
すると、父を救えなかった日の記憶が今も鮮明に蘇ってきた。
父が魔力侵食症だと知ったレオンは、原作の知識を頼りにバルト山脈の麓にある迷いの洞窟へ向かった。
そこで賢者ハルトが残した研究施設を発見し、魔力侵食症の患者を救えると記された魔法陣を見つけた。
当時のレオンには、その魔法陣がどのような仕組みで患者を救うのか分からなかった。
ただ、その魔法陣を使えば父を助けられる。
賢者の記録に残された言葉だけを信じ、必要な物を持ってノルディアへ戻った。
しかし、間に合わなかった。
レオンがノルディアへ戻るより半日前に、グラニウスは息を引き取っていた。
あと半日。
たった半日の差が、全てだった。
父の死後、レオンはその魔法陣を見ないようにしていた。
見れば、あと少し早く戻っていれば父を救えたという後悔が蘇る。
だから賢者の記録と共にしまい込み、開くことはなかった。
再び取り出したのは、セリオスが自分も魔力侵食症を患っていると打ち明けた時だった。
父には間に合わなかった。
だが、まだ症状の軽い、セリオスなら救えるかもしれない。
そう考えたレオンは、あの魔法陣をセリオスへ見せた。
そこで初めて、魔法陣の本当の仕組みを知った。
あれは損傷した魔力回路を修復する魔法陣ではない。
術者の正常な魔力回路を、患者へ譲渡するための魔法陣だった。
魔力回路を譲り受けた患者は助かる。
だが、魔力回路を失った術者は死ぬ。
もし、あの日に半日早く帰っていたら、レオンは何も知らずに魔法陣を使っていただろう。
父は助かり、自分は死んでいた。
「準備不足だったんだよな……。」
レオンは誰にも聞こえない声で呟いた。
知識はあった。
父を助けたいという思いもあった。
だが、時間も人手も情報も足りなかった。
見つけた魔法陣がどのようなものなのか調べる余裕すらなく、ただ助かるという記録だけを信じていた。
父を救えなかった後悔は消えない。
もし半日早く戻っていれば、自分が死んでいたという事実を知っても、その思いは変わらなかった。
だが、あの時のように何も知らず、何も備えないまま動くわけにはいかない。
危機が起きてから方法を探すのでは遅い。
何が起きるのかを考え、必要な人員と物資を揃え、最悪の場合まで想定しておかなければならない。
レオンは窓辺を離れ、机へ戻った。
新しい紙を一枚取り出し、その上部へ文字を書く。
【カイン・レインルート】
その下へ、原作で起きる出来事を書き出していく。
龍脈の移動。
北竜の目覚め。
魔獣の氾濫。
エリシアの魔力侵食症。
カインによる特効薬の開発。
カイン・レインは、レイン魔道国家の王子であり、原作の攻略対象の一人だった。
カインは龍脈の魔力を都市へ引き込み、属性を持たない者や魔力の少ない者でも魔法を使えるようにしようとする。
その理想は、多くの人間を救う可能性を持っていた。
しかし、龍脈を一つの場所へ集めれば、別の土地から魔力が失われる。
魔力の流れが変われば、植物、魔物、ダンジョンにも影響が出る。
そして最終的には、バルト山脈に眠る北竜の目覚めへ繋がっていく。
「帝国との戦争ルートは消えた可能性が高い……。」
ジークハルトとの和平が成立したことで、ルーカスが王国の学園へ入り、その後に王国と帝国が戦争を始める未来は失われたはずだ。
だが、一つの未来を変えたからといって、全ての危機が消えたわけではない。
むしろ、原作とは違う形で別の問題が起きる可能性もある。
レオンは【龍脈の移動】という項目へ線を引いた。
カインが龍脈を動かさなければ、北竜は目覚めないのか。
それとも、別の原因で目覚める可能性があるのか。
現時点では分からない。
だが、北竜が目覚めなくても、バルト山脈では帝国とノルディアによる大規模な共同討伐が行われる。
レオンは新たな紙を取り出した。
【大規模討伐】
その下へ【魔獣の氾濫】と書く。
帝国側とノルディア側の双方から軍を進めれば、追い詰められた魔獣は戦いを避けて逃げようとする。
全ての魔獣が帝国側へ向かうとは限らない。
ノルディア領へ流れ込む可能性も十分にある。
危険に晒されるのは、討伐へ参加する兵士だけではない。
山脈の近くで暮らす領民。
街道を行き来する商人。
宿場町で働く者達。
畑や牧場を守る者達。
魔獣が領内へ入ってから避難先を決めていては間に合わない。
どの程度の被害で、どの村を避難させるのか。
何人の兵士を領内に残すのか。
領民をどこへ逃がし、何台の馬車とどれだけの食料を用意するのか。
自分がノルディアにいない場合、誰が最終判断を下すのか。
決めておかなければならないことは多い。
レオンは地図を広げ、バルト山脈からノルディア領へ下りる道を順番に確認する。
魔獣が通れる谷。
森に隠された獣道。
過去に小規模な氾濫が起きた場所。
山脈に近い村と、そこから領都へ続く街道。
どの場所から魔獣が流れ込むかによって、被害を受ける村も変わる。
その時、執務室の扉が開いた。
「お待たせいたしました。」
ゼムが茶を載せた盆を持って戻ってくる。
机へ茶を置こうとしたゼムは、広げられた地図と、レオンが書いた紙へ視線を向けた。
「何かございましたか?」
「いや、これから起きるかもしれないことを整理してた。」
「これから起きるかもしれないこと……でございますか?」
「ああ。」
レオンはバルト山脈周辺の地図を机の中央へ広げ直した。
「ゼム。クロエとガレスを呼んでくれ。」
ゼムはすぐには動かなかった。
レオンの表情と、机の上に並べられた紙を静かに見つめる。
「大規模討伐についてでございますか?」
「それだけじゃない。」
レオンは少し間を置いてから続けた。
「俺は近いうちに、ノルディアを長期間離れる。」
ゼムの黒い瞳が僅かに細められる。
「どちらへ向かわれるおつもりですか?」
「レイン魔道国家だ。」
「理由をお聞きしても?」
「今後のために、手に入れておきたい物がある。」
「どれほどの期間をお考えでございますか?」
「分からない。数か月で済むかもしれないし、一年近くかかるかもしれない。」
ゼムは驚かなかった。
ただ、しばらく黙ったままレオンを見つめていた。
やがて小さく息を吐く。
「すでに、お決めになられているのですね?」
「ああ。」
「では、お止めしても無駄でございますね。」
「悪い。」
「謝罪は、無事に戻られてからお聞きいたします。」
ゼムはそう答えると、一礼して執務室を出ていった。
しばらくして、クロエとガレスが執務室へ集まった。
クロエは机の上に広げられた地図を見るなり、不思議そうに首を傾げる。
「急に呼び出して、どうしたの?」
ガレスは地図に記されたバルト山脈と国境線へ視線を向けた。
「大規模討伐の件でしょうか?」
「ああ。」
レオンは全員が揃ったことを確認すると、席を立った。
「帝国との和平が成立して、大規模討伐を行うための時間は得られた。」
「最低でも一年。長ければ二年の猶予がございます。」
ガレスの言葉に、レオンは頷く。
「だから、今のうちに準備する。」
レオンは地図上のバルト山脈を指でなぞった。
「帝国側とノルディア側の双方から軍が入れば、追い詰められた魔獣は戦わずに逃げようとする。その一部が、ノルディア領へ流れてくる可能性がある。」
クロエが地図を覗き込む。
「山の近くにある村や宿場町が危ないってこと?」
「それだけじゃない。流れてくる数によっては、もっと広い範囲が被害を受ける。」
ガレスが腕を組む。
「領内へ残す兵力を増やしますか?」
「兵士だけ決めても意味がない。」
レオンは新しい紙を三枚並べた。
「魔獣の数、被害を受ける村、避難させる領民、必要な馬車、食料、護衛、避難先。全部決める。」
クロエが三枚の紙を見る。
「小さな被害から、最悪の場合まで全部?」
「ああ。何も起きなければ、それでいい。でも、起きた時に準備していなかったでは済まされない。」
レオンは三枚の紙へ、順番に文字を書いた。
【小規模】
【中規模】
【大規模】
「まずは、この三つに分ける。」
ガレスが地図へ身を乗り出す。
「被害の規模は、流入する魔獣の数で決めますか?」
「数だけじゃない。魔獣の種類や、現れた場所も含めて考える。数が少なくても、強力な魔獣なら被害は大きくなる。」
「避難を開始する条件も必要だね。」
クロエが紙を引き寄せる。
「村ごとに人口を調べて、子供、老人、病人、自力で歩けない人も分けないといけない。全員が同じ速さで逃げられるわけじゃないから。」
「ああ。それと、避難先まで何日かかるか。必要な食料と馬車も計算する。」
ゼムが三人分の茶を置きながら口を開く。
「では、まず軍事面から決めるべきでございましょう。領内へ残せる兵士の人数が分からなければ、護衛できる避難民の数も算出できません。」
「そうだな。」
レオンは帝国側とノルディア側へ分けた軍の配置図を取り出した。
帝国との共同討伐で、基本となる部隊編成はすでに決まっている。
だが、討伐へ出す兵士と領内へ残す兵士を、被害規模に応じてどう動かすかまでは決めていない。
レオンはガレスへ配置図を渡した。
「まず、帝国と決めた兵力をもう一度整理する。」
「承知いたしました。」
「そのうえで、小規模、中規模、大規模。それぞれの場合に動かせる兵士の数を出す。」
ガレスは配置図へ目を落とし、静かに頷いた。
クロエも新しい紙を用意し、数字を書き込む準備を始める。
レオンは窓の外へ一度だけ視線を向けた。
父を救えなかった時には、時間も情報も準備も足りなかった。
今度は違う。
危機が起きる前に考える。
必要な人間を集める。
最悪の事態まで想定する。
同じ後悔は、もう繰り返さない。
レオンはバルト山脈の地図へ視線を戻した。
「始めよう。」
こうして、魔獣の氾濫からノルディア領を守るための準備が始まった。




