間章 二人の父親
帝国から帰還してしばらくが経った。
ノルディア邸の執務室では、紙をめくる音とペン先が紙面を走る小さな音だけが静かに響いていた。窓から差し込む午後の日差しが机の上を照らし、そこには帝国との共同討伐に関する資料や領民の避難計画、各地から届いた報告書が山のように積み上げられている。
レオンはその一枚一枚へ目を通し、必要なものへ署名を入れていく。その少し離れた場所ではゼムが確認を終えた書類を種類ごとに仕分けていた。
帝国から戻ってきてからも、やるべきことは減るどころか増える一方だった。帝国との共同討伐へ向けた準備も進めなければならない。教国との話もある。そしてレオン自身も、これから魔導国家へ向かう準備を始めなければならない。
そんな中、レオンは一枚の書類へ署名を終えると、次の書類へ伸ばしかけた手を止めた。
帝国で聞いた話を思い出したからだ。
「ゼム」
「はい、なんでしょうか」
ゼムは手元の書類を揃えながら顔を上げる。
レオンは少しだけ迷った。帝国から帰ってきてすぐに話してもよかったのだが、内容が内容だけに、仕事の合間に軽く話すようなことではないと思っていた。
だが、いつまでも黙っているわけにもいかない。
「帝国で、お前のことを聞いた」
「私のことを、ですか?」
ゼムの手が止まった。
「ああ。スルガ家のクニヒロ将軍から聞いた」
スルガ家。その名前を聞いても、ゼムには心当たりがないようだった。帝国を代表する将軍家であることは当然知っている。しかし、自分とその家に何か関係があるなど考えたこともなかったのだろう。
レオンは椅子へ深く座り直した。
「ゼム。お前の父親の名前はヒムロだったよな?」
「はい。父はヒムロ、母はゼニスです」
ゼムは迷うことなく答えた。
「私が両親について知っていることなど、それほど多くはございません。父は帝国軍の騎士で、母は帝国魔術軍に所属しておりました。父は厳しい人で、幼い私にも剣を教えてくださいました。母は穏やかな人で、本を読むことを好んでいました。その程度でございます」
十歳の頃に二人を失ったのだ。しかも、それから五十年以上もの年月が流れている。幼い頃の記憶など、どれほど大切にしていても少しずつ薄れていく。
それでもヒムロとゼニスという二つの名前だけは忘れなかった。
「姓は?」
レオンが尋ねると、ゼムは首を横へ振った。
「存じません。少なくとも私の記憶にある限り、父も母も家名を名乗ったことはございませんでした」
「……そうか」
それならば、クニヒロから聞いた話とも一致する。
二人は家を捨てていた。
だから幼いゼムに、自分達がどこの家の人間だったのかを教えなかったのだろう。
レオンは真っ直ぐゼムを見る。
「お前の父親の名前は――ヒムロ・スルガだ」
ゼムの手が止まった。
いつもなら僅かな動揺さえ表へ出さない老執事が、はっきりと目を見開いていた。
「……スルガ?」
「ああ」
「父が……スルガ家の人間だったと?」
「今のクニヒロ将軍の祖父の弟だそうだ」
ゼムは何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと手にしていた書類を机へ置く。
ヒムロ。
幼い頃から知っていた父の名前。その後ろに、六十年近く知らなかった家名が付いた。
ヒムロ・スルガ。
帝国を代表する将軍家。その血が自分にも流れている。
ゼムがその事実を受け止めるのを待ってから、レオンはさらに続けた。
「それと、お前の母親……ゼニスさんも普通の帝国人じゃなかった」
ゼムが顔を上げる。
「ゼニスさんはヴァル家の人だ」
「…………ヴァル家?」
「ああ。現皇帝ジーカス陛下の祖母の妹。それがお前の母親だ」
さすがのゼムも、すぐには言葉が出なかった。
スルガ家だけでも十分すぎるほど驚く話だった。そのうえ母親までヴァル家の人間だったという。
やがてゼムは何かに気付いたように、自分の白くなった髪へ触れた。
「……なるほど」
「髪か?」
「はい。今ではすっかり白くなりましたが、若い頃の私は銀髪でした。それに目は黒色、帝国出身でありながら何故この髪と目なのか、疑問に思ったことはございましたが……」
ヴァル族に特徴的な銀髪。
スルガ家に特徴的な黒目。
父ヒムロと母ゼニスから受け継いだものだったのだ。
「まさか、この歳になって自分の髪の理由を知ることになるとは思いませんでした」
ゼムはそう言って小さく笑ったが、その表情にはまだ戸惑いが残っている。
そして、その視線が自然と腰へ向かった。
そこには一本の細身の剣がある。
帝国で広く使われている形式の細身の長剣。ゼムが長い年月使い続けてきた愛剣であり、父ヒムロが残した唯一の形見でもある。
ゼムは昔から、この剣が先代ガレオンによって鍛えられたものだと知っていた。
だが、ずっと分からなかったことがあった。
何故、帝国南西部の小さな町で暮らしていた父が、先代ガレオンの鍛えた剣を持っていたのか。
「ぼっちゃま」
「なんだ?」
「この剣についても……何か聞かれたのではありませんか?」
「ああ」
レオンはゼムの腰にある剣を見る。
「その剣は元々、ヒムロさんのものじゃない。ゼニスさんの剣だったそうだ」
「母の……」
ゼムは柄へ触れた。
幼い頃の記憶にある限り、この剣を使っていたのは父だった。剣を教えてくれた時も、父の腰には必ずこの剣があった。だから当然、父の剣なのだと思っていた。
「ゼニスさんがヴァル家にいた頃から持っていた剣らしい。先代ガレオンが鍛えたものだそうだ」
「なるほど……それならば納得できます」
ゼムは静かに呟いた。
「母がヴァル家の人間であったのなら、先代ガレオンの剣を持っていたとしても不思議ではございません」
「そういうことだろうな」
だが、ゼムはすぐに別の疑問を抱いたようだった。
「しかし、父はスルガ家の人間だったとの事ですが……?」
「ああ」
「でしたら、本来はスルガ家の刀を使っていたはずです。何故、母の剣を父が?」
レオンはその質問が来ると思っていた。
帝国でクニヒロから聞いた時、自分も同じことを尋ねたからだ。
「お前の父親は、ゼニスさんと一緒になる時に言ったらしい」
「父が?」
「ああ」
レオンは少しだけ笑う。
「『俺はゼニスの剣になる』って」
ゼムの目が僅かに見開かれた。
"誰かの剣"になる。
それは帝国では、最大級の忠誠の証。
だが、女性へ、その言葉を使うと意味が違ってくる。
帝国では強さを重んじる。
よって剣は自分の半身だと考えられている。
その半身になると言う事は、生涯一生、一緒にいると言う、かなり情熱的な宣言になるのだ。
「…………」
「それからスルガ家の刀じゃなくて、ゼニスさんの剣を使うようになったらしい」
しばらくゼムは何も言わなかった。
何十年も握ってきた剣。その柄へ添えた手に、僅かに力が入る。
「……父は随分と、その……」
珍しくゼムが言葉に詰まった。
「何だ?」
「いえ。私の記憶にある父は非常に厳格な人でしたので、そのようなことを母へ言う姿がどうにも想像できません」
レオンは思わず笑った。
「でも言ったらしいぞ」
「そのようですな」
ゼムの口元にも僅かに笑みが浮かぶ。
幼い頃に見ていた父親の知らなかった一面。それを六十歳になって初めて知ったのだ。
しかし、レオンが帝国で聞いた話はそれだけではない。
「ヒムロさんとゼニスさんは、家の決まりに背いて一緒になった」
ゼムの表情が再び真剣なものへ戻る。
当時、スルガ家とヴァル家それにアメラン家には互いの血を混ぜないという古い決まりが存在していた。だが二人はそれに背いた。
家を捨て、帝国南西部の小さな町へ移り住んだ。
そこで生まれたのがゼムだった。
「二人だけなら、それでもよかったらしい」
地位を捨ててもいい。
家から認められなくてもいい。
二人で生きていければ、それでいい。
少なくともヒムロとゼニスは、そう考えていた。
「でも、お前が生まれた」
ゼムが静かにレオンを見る。
「……私が」
「ああ。二人はそこで初めて、自分達が家から認められていないことを問題だと思うようになった」
自分達だけなら構わない。
だが子供は違う。
スルガ家にもヴァル家にも認められていない二人の間に生まれた子供には、何の後ろ盾もない。
両親が生きている間は守れる。
だが、いつまでも生きていられるわけではない。
自分達がいなくなった後、この子はどうなるのか。
二人が恐れたのは、それだった。
「それで両家と話をしたらしい。そして条件を出された」
「条件……ですか?」
「戦場で武功を立てること。それができれば二人の婚姻を正式に認める。そして、お前もスルガ家かヴァル家へ正式に迎え入れる」
ゼムの表情が変わった。
レオンには、その理由が分かった。
ゼムは両親が何故戦場へ行ったのか、その本当の理由を知らなかったのだ。
「……ぼっちゃま」
「なんだ?」
「では……父と母は……」
そこで一度言葉が止まる。
「父と母は、戦果を求めて戦場へ向かったのではないのですか?」
「違う」
レオンははっきり答えた。
「お前のためだ」
ゼムは動かなかった。
「お前をスルガ家かヴァル家に正式に迎えてもらうために戦った。自分達がいなくなった後も、お前が困らないようにするために」
長い間、執務室に言葉はなかった。
十歳のゼムは、父と母を同時に失った。
二人とも自分を残して戦場へ行った。
何故二人とも行ったのか。
何故どちらか一人でも残ってくれなかったのか。
そこまでして戦果が欲しかったのか。
幼い頃には答えが出なかった。
大人になってからも、その疑問が完全に消えたわけではなかった。
だが今、初めて理由を知った。
「……私のため、ですか」
「ああ」
ゼムは俯いた。
「私を残して戦場へ行ったのではなく……私のために戦場へ行った」
「そう聞いてる」
ゼムの手がゆっくりと腰の剣へ伸びる。
その瞬間、もう一つの疑問が浮かんだ。
「ですが……ぼっちゃま」
「なんだ?」
「それならば、何故この剣は家に残されていたのでしょうか?」
レオンは黙って続きを待つ。
「父は母の剣になると言い、この剣を使っていたのでしょう。それほど大切にしていたのであれば、母と共に戦場へ向かう時こそ持って行くはずです」
だが剣は家に残っていた。
だから両親が帰ってこなかった後、十歳のゼムはこの剣を持つことができた。
そして父と母を殺したヴァルグを討つため、この剣を抱えて王国へ向かった。
レオンは静かに答えた。
「それも、お前のためだ」
ゼムが顔を上げる。
「二人は死ぬつもりで戦場へ行ったんじゃない。武功を立てて、生きて帰るつもりだった」
そして婚姻を認めてもらう。
ゼムを正式にスルガ家かヴァル家へ迎え入れてもらう。
そこまで終わった時。
「その剣を、お前に渡すつもりだったらしい」
ゼムの目が大きく見開かれた。
「……私に?」
「ああ」
ゼムは腰の剣を見つめた。
父の形見。
ずっとそう思ってきた。
確かに今となっては形見だ。
だが本来は違った。
父と母が死ぬことを覚悟して残したものではない。
二人が生きて帰った後、父の手から息子へ渡されるはずだった剣。
母ゼニスが持ち。
父ヒムロが「ゼニスの剣になる」と言って振るい。
最後には息子ゼムへ受け継がれるはずだった剣。
その事実を知った瞬間、何十年も使い続けてきた剣が、今までとは違うものに感じられた。
ゼムの親指が柄頭をゆっくりとなぞる。
そこには翼を広げ、雄叫びを上げるグリフォンが刻まれている。
ノルディア家の紋章。
これは元からあったものではない。
ヴァルグからこの剣を返された時、新たに刻まれていたものだ。
『返すぞゼム、今度は守るために振るえ』
初めて執事服へ袖を通したあの日。
ヴァルグはそう言って、この剣を返してくれた。
『お前は既にノルディアの家族だからな』
ゼムは静かに目を閉じる。
その言葉を思い出した時、さらに昔の記憶が蘇ってきた。
まだ自分が執事になることすら考えていなかった頃。
グラニウスが生まれた日の記憶だった。
「ゼム!!」
ノルディア邸の廊下に、聞き慣れた大声が響き渡った。
当時まだ従者として仕事を学んでいたゼムは、抱えていた荷物を思わず落としかけた。
「ゼム!! どこだ!!」
「ここにおります!」
返事をしながら急いで声のする部屋へ向かう。扉を開けると、そこには満面の笑みを浮かべたヴァルグが立っていた。
熊のように大きな身体。
何度戦場へ立ったのか分からないほど傷の残った腕。
そんな男が、壊れ物でも扱うように恐る恐る小さな赤子を抱いている。
その光景があまりにも似合っていなくて、ゼムは思わず立ち止まった。
「何をしている! 早く来い!」
「聞こえております。大声を出さないでください」
「何だと?」
「赤子が起きます」
ヴァルグは腕の中を見る。
「……それもそうだな」
ようやく少しだけ声を落とした。
ゼムは近づき、腕の中を覗き込む。
生まれたばかりの赤子が眠っていた。
「その方が……」
「おう」
ヴァルグの顔が一気に緩む。
「グラニウスだ!」
ノルディア辺境伯家の嫡男。
ヴァルグの息子。
将来、この領地を継ぐことになる赤子。
「どうだ?」
「何がでしょう」
「可愛いだろ?」
「……はい」
「何だその反応は!」
「私にどう反応しろと仰るのですか」
「もっとこう……あるだろうが!」
「ございません」
「つまらん奴だ!」
ヴァルグはそう言いながらも嬉しそうだった。
ゼムは改めてグラニウスを見る。
小さい。
自分が少し強く触れただけでも壊れてしまいそうなほど小さい。
この赤子が、いずれノルディア辺境伯になる。
そう考えていた時だった。
「ゼム」
「はい」
「今日からお前はこいつの兄だ」
「…………」
ゼムはゆっくり顔を上げた。
「申し訳ございません。もう一度お願いできますか?」
「今日からお前はグラニウスの兄だ」
聞き間違いではなかった。
「何故です?」
「お前も俺の家族だからだ」
ヴァルグは当然のように答える。
「家族なら兄弟だろ」
あまりにも単純な理屈だった。
ゼムがどう答えるべきか迷っていると、ヴァルグはさらに何かを思いついたように目を見開いた。
「そうだ!」
嫌な予感がした。
この男がこういう顔をした時は、大抵ろくでもないことを言い出す。
「ゼム。お前も今日からノルディアを名乗れ!」
部屋が静まり返った。
ゼムも、周囲にいた家臣達も。
誰一人として動かなかった。
数秒後。
「辺境伯様ぁあああああああ!!」
邸中へ響くのではないかと思うほどの絶叫が上がった。
腕の中のグラニウスがびくりと身体を動かす。
ヴァルグが慌てて赤子を見る。
「馬鹿者! グラニウスが起きるだろうが!」
「誰のせいですか!!」
「何を考えておられるのですか辺境伯様!!」
「ノルディアですぞ!? 辺境伯家の姓ですぞ!?」
ヴァルグは露骨に面倒そうな顔をする。
「知っている。俺の姓だからな」
「そういう話ではございません!!」
家臣の一人が頭を抱えながらゼムを指した。
「ゼムはグラニウス様より年上なのですぞ!」
「見れば分かる」
「ですから!!」
別の家臣も前へ出る。
「閣下が家族と認めたうえでノルディアの姓まで与える! しかもグラニウス様より年長! これが何を意味するかお分かりにならないのですか!?」
ヴァルグは少し考える。
「家族が一人増える?」
「違います!!」
再び怒声が響いた。
「跡目問題です!」
その言葉でヴァルグがようやく眉を上げた。
家臣は必死に説明を続ける。
「ゼム本人が辺境伯位を望まなくとも関係ございません! 閣下からノルディアの姓を与えられ、家族として認められた年長者が存在する。その事実だけで、後々利用しようとする者が現れます!」
「グラニウス様よりゼムを担ぐ者が出る可能性もございます!」
「辺境伯家の跡目争いなど起きれば領地そのものが割れかねません!」
「どうかお考え直しを!」
家臣達の説得の後、ヴァルグは腕の中のグラニウスを見る。
次にゼムを見る。
そして何かを理解した。
「ああ、なるほどな」
家臣達が一斉に安堵した。
「ご理解いただけましたか」
「養子と何が変わらん?」
一瞬、家臣達の表情が固まった。
そして。
「そこが問題なのです!!」
「辺境伯様ぁあああああ!!」
再び悲鳴が響いた。
ゼムは思わず額へ手を当てる。
昔から無茶苦茶な人だとは思っていた。
だが、ここまでとは思わなかった。
「ヴァルグ様」
「なんだ?」
「ノルディアの名は、ありがたく頂戴いたします」
ヴァルグの顔が一気に明るくなった。
「おう!」
対照的に家臣達の顔から血の気が引いた。
「ゼム!?」
「お前まで何を言っているのだ!」
だがゼムは静かに続ける。
「ただし、私はグラニウス様の兄として、ヴァルグ様の子供として生きるつもりはございません」
ヴァルグが首を傾げた。
「じゃあ、どうする?」
ゼムは腕の中で眠るグラニウスを見つめた。
小さな赤子。
この子はいずれノルディアを背負う。
ヴァルグの後を継ぎ。
領民を守り。
この北の地を守らなければならない。
ならば、自分はその隣に立とう。
跡目を争うためではない、支えるために。
「私は、グラニウス様の専属の使用人になります」
ヴァルグが目を瞬く。
「使用人?」
「はい」
「何でまた?」
ゼムは少し考えてから答えた。
「この方を支えるためです」
自分には剣がある。
だが、それしかない。
父から教わった剣。
ノルディアへ来てから磨き続けた剣。
それだけで守れるものには限界がある。
「私はまだ、剣以外のことをほとんど知りません。礼儀も、屋敷の管理も、領地のことも、貴族社会のことも、主人を支えるために必要なことを何一つ知りません」
ゼムは真っ直ぐグラニウスを見る。
「ですから学びます。この方が成長されるまでに、誰より近くでこの方を支えられる人間になります」
家臣達が静かになった。
「グラニウス様が剣を必要とされるなら剣を振ります。知識を必要とされるなら学びます。身の回りの世話が必要なら、それも覚えます」
そしてゼムはヴァルグへ頭を下げた。
「私はグラニウス様の兄ではなく、この方の専属の使用人として生きます。そのために、執事として必要なことを学ばせてください」
しばらくヴァルグは何も言わなかった。
やがて。
「がははははは!!」
豪快な笑い声が響いた。
「そうか! 俺の息子としてグラニウスと並ぶんじゃなく、こいつを支える側へ回るか!」
「はい」
「面白い!」
ヴァルグは楽しそうに笑う。
「お前が決めたんなら、そうしろ!」
ゼムは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
家臣達も顔を見合わせた。
ゼム自身に跡目を望む意思はない。
それどころか。
生まれたばかりのグラニウスへ一生仕えると、自分から決めた。
それならば少なくとも、ヴァルグが突然言い出した時よりは遥かに問題は小さい。
その日から。
ゼムは変わった。
それまでも従者として最低限の仕事は教えられていた。
だが、そこから先は違った。
給仕の作法を学んだ。
主人の衣服を整える方法を学んだ。
屋敷の管理を学んだ。
来客への応対を学んだ。
貴族の礼儀を学んだ。
領地の収支を見るため数字を学んだ。
主人が何を必要としているのか、言葉にされる前に察することを学んだ。
使用人を束ねる方法も。
政務を補佐するための知識も。
そしてもちろん、剣も捨てなかった。
すべてはグラニウスを支えるためだった。
いつか、この小さな赤子が成長し。
ノルディア辺境伯として立つ日のために。
ゼムが部屋を出ようとした時だった。
「ゼム」
背後からヴァルグの声がした。
ゼムは足を止める。
「はい?」
振り返ると。
ヴァルグは眠るグラニウスを抱いたまま立っていた。
先ほどまでの豪快な笑みは少しだけ消えていた。
「お前が何になるかは、お前が決めろ」
ゼムは黙って聞く。
「グラニウスの使用人になりたいならなればいい。執事になりたいなら学べ。剣士になりたいなら剣を振れ」
ヴァルグは笑う。
「"お前が決めたんなら、それでいい"」
「……はい」
ゼムは頷いた。
「だがな、ゼム」
ヴァルグは腕の中のグラニウスを一度見てから、再びゼムを見る。
その表情は、戦場で帝国兵から恐れられた悪魔でも、王国を救った英雄のものではなかった。
「お前も既に俺の息子だ」
ゼムは目を見開いた。
何も言えなかった。
自分はヴァルグの子供として生きる道を選ばなかった。
グラニウスの兄という立場も選ばなかった。
それでも、ヴァルグにとっては関係なかった。
何になるかは自分で決めればいい。
だが家族であることだけは変わらない。
そう言われた気がした。
ゼムは少しだけ俯き。
深く頭を下げた。
「……はい」
顔を上げたゼムの目には、優しく微笑むヴァルグの姿が映り込んでいた。
「ゼム?」
聞き慣れた声で、遠い昔の光景が消えた。
ゼムがゆっくりと目を開くと、そこには現在のノルディア邸の執務室があった。
机の上に積まれた大量の書類。
窓から差し込む午後の日差し。
そして机の向こうから、自分を不思議そうに見ている少年。
ヴァルグの孫。
グラニウスの一人息子。
レオン・ノルディア。
「どうした?」
「……いえ」
ゼムは小さく首を横へ振る。
「少々、昔のことを思い出しておりました」
「そうか」
レオンはそれ以上聞かなかった。
ゼムは腰の剣へ目を落とす。
ヒムロ・スルガ。
自分へ剣を教えてくれた父。
ゼニス。
本を読むことが好きだった優しい母。
二人は自分を捨てたのではなかった。
家を捨てる覚悟で互いを選び。
自分が生まれたことで、自分の未来を守るために再び家と向き合った。
そして戦場へ向かった。
父が母のために振るった剣も、本当は自分へ渡すために残されていた。
六十年近く知らなかった。
だが今、ようやく知ることができた。
「ぼっちゃま」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「父と母のことを教えてくださったことです」
レオンは少しだけ笑う。
「俺は聞いたことを話しただけだ」
「それでもです」
ゼムは静かに頭を下げる。
レオンは少し気恥ずかしそうに頬を掻いた後、ふと思い出したように言った。
「そうだ、ゼム」
「はい」
「次に帝都へ行く時、お前も一緒に来るか?」
ゼムが顔を上げた。
「私も、ですか?」
「ああ。スルガ家にはお前の父親の血縁がいるし、ヴァル家には母親の血縁がいる。今回の話を聞けば、お前に会いたい人もいるかもしれない」
レオンは少しだけ考えてから続ける。
「それに一度くらい、お前の父親と母親の故郷を見ておいてもいいんじゃないか?」
ゼムは答えなかった。
ヒムロ。
ゼニス。
幼い頃から知っていた二人の名前。
今日、その名前に初めて家名が付いた。
ヒムロ・スルガ。
ヴァル家のゼニス。
二人がどこで生まれ。
どのように育ち。
何故家を捨ててまで互いを選んだのか。
知りたいという気持ちはあった。
二人を恨んでいるわけでもない。
むしろ今日、初めて分かった。
自分は確かに二人から愛されていた。
その事実だけで。
胸の奥に五十年近く残っていたものが、ようやく消えたような気がした。
だが、レオンから「父親」という言葉を聞いた時。
ゼムの脳裏に浮かんだ男は別にいた。
生まれたばかりのグラニウスを抱き。
家臣達から、
『辺境伯様ぁあああああ!!』
と止められながら。
何の迷いもなく自分へノルディアの姓を与えた男。
自分がグラニウスの兄ではなく、専属の使用人になると告げても笑って認めた男。
そして最後に。
『だがな、ゼム』
『お前も既に俺の息子だ』
そう言ってくれた男。
ゼムはゆっくりとレオンを見る。
「ぼっちゃま」
「なんだ?」
「ヒムロとゼニスが、私を愛してくれていたことを知れただけで十分でございます」
レオンは何も言わなかった。
ゼムは腰の剣へ一度だけ触れる。
父と母から残されたもの。
そしてヴァルグから再び与えられたもの。
二つの家族を繋ぐ剣だった。
ゼムは穏やかに微笑む。
「ですが、私の父親は――」
一度言葉を切る。
そして、はっきりと告げた。
「グラニウス様が生まれた日から、ヴァルグ様です」
レオンは僅かに目を見開いた。
だが理由を尋ねなかった。
否定もしなかった。
少しだけ笑い、ただ一言。
「お前が決めたんなら、それでいい」
ゼムの目が僅かに見開かれた。
五十年近く前。
同じ言葉を聞いた。
自分が何になるのか。
どのように生きるのか。
それを自分で決めることを認めてくれた男から。
その男の孫が今。
何も知らないはずなのに、まったく同じ言葉を返してきた。
ゼムはしばらくレオンを見つめていた。
やがて、その顔に僅かな笑みが浮かぶ。
そしていつものように深く頭を下げた。
「はい、ぼっちゃま」




