間章 フェルナードの聖女の学園生活
王都にある王立学園。
入学式を終えてから、まだそれほど日数は経っていなかった。
王国各地から集まった貴族の子弟達も、新しい制服や授業、初めて顔を合わせる同級生達にようやく慣れ始めた頃。
そんな新入生の中で、入学した時から多くの生徒に名前を知られている少女がいた。
フローラ・フェルナード。
王国有数の港を持ち、海運と交易で栄えるフェルナード伯爵家の令嬢。
そして、極めて珍しい水属性の回復魔法を扱う少女。
傷ついた者を癒すその力と穏やかな人柄から、いつしか彼女には一つの呼び名が付いていた。
"フェルナードの聖女"
その名はフェルナード領だけに留まらず、王都にまで届いている。
「おはようございます、フローラ様」
「おはようございます」
朝、教室へ入れば何人もの生徒から声を掛けられる。
フローラも笑顔で挨拶を返しながら自分の席へ向かう。
その途中でも小さな声が聞こえてきた。
「本当にあの方がフェルナードの聖女?」
「ええ。水属性の回復魔法をお使いになるそうですわ」
「王国では珍しいのでしょう?」
「私も実際に使える方を見るのは初めてです」
フローラは何も聞こえていないような顔で席へ座る。
鞄を置き、教科書を取り出す。
そしてフローラは思う。
(……聖女って)
心の中で小さくため息を吐いた。
(そんな大層なものじゃないっつーの……)
自分では一度も聖女などと名乗った覚えはない。
怪我をした人がいれば治す。
困っている人がいれば、自分に出来る範囲で助ける。
ただそれだけだった。
それがいつの間にかフェルナードの聖女などと呼ばれるようになり、王都へ来てみれば自分の顔まで知っている者がいる。
悪い気はしない。
誰かを助けてきた結果として呼ばれているのだから、嫌なわけでもない。
ただ。
(やっぱり恥ずかしいんだよなぁ……)
未だに慣れなかった。
午前の授業が終わり、昼休みになる。
教室の緊張した空気が少しだけ緩み、生徒達はそれぞれ仲良くなった者同士で集まり始めた。
フローラも最近話すようになった数人の令嬢達と机を囲み、昼食を取っていた。
「フローラ様、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「はい?」
「本当に回復魔法をお使いになれるのですか?」
「えっ……はい。使えますよ?」
「やっぱり!」
令嬢が目を輝かせる。
「水属性の魔法なのでしょう?」
「はい。普通の水魔法とは少し違いますけど」
「凄いですわ。だから"フェルナードの聖女"と呼ばれていらっしゃるのですね」
「それは……」
フローラは困ったように笑った。
「出来れば普通にフローラと呼んでいただけると嬉しいです」
「聖女と呼ばれるのはお嫌なのですか?」
「嫌というわけではありません。ただ、少々恥ずかしくて……」
令嬢達から笑みがこぼれる。
最初はフェルナード伯爵令嬢ということで距離を置かれることもあった。
だが話してみれば、皆同じ年頃の少女達だ。
授業。
教師。
領地。
王都で流行している菓子。
そんな他愛もない話をしているうちに、少しずつ緊張もなくなっていた。
すると一人の令嬢が思い出したように口を開いた。
「そういえば、今年はもう一人、とても有名な方が入学されると思っていたのですけれど」
「もう一人?」
「ええ」
令嬢が答える。
「レオン・ノルディア辺境伯様です」
フローラの手が止まった。
「レオン様?」
その場が一瞬静かになる。
「……レオン様?」
「あ」
フローラは自分が自然にいつもの呼び方をしていたことに気づいた。
「フローラ様、ノルディア辺境伯様とお知り合いなのですか?」
「はい。何度かお会いしております」
「何度も!?」
令嬢達が一斉に身を乗り出した。
その反応にフローラの方が驚く。
「そんなに珍しいことでしょうか?」
「珍しいも何も、ノルディア辺境伯様ですわよ?」
「フローラ様の方がお詳しいのでは?」
「レオン様のことは知っていますけど……王都でどのように言われているのかは 、あまり」
少し離れた席で話を聞いていた男子生徒が振り返った。
「そもそもノルディア家の名前を知らない貴族なんてほとんどいないだろ」
「そうですわね」
一人の令嬢が頷く。
「祖父はヴァルグ・ノルディア様」
その名前に、周囲の生徒達も反応する。
「帝国との戦争を終わらせた英雄ですわよね」
「そして父親はグラニウス・ノルディア様」
今度は男子生徒が続ける。
「王国最強と謳われた北の守護者」
その呼び名を知らない者はいなかった。
平民だったフローラですら、グラニウスの名前はしっている。
王国北部を守り続けた辺境伯。
数多くの魔獣を討ち、帝国にまでその名を知られた英雄。
グラニウス・ノルディア。
「レオン辺境伯様は、そのグラニウス様の一人息子なのでしょう?」
「"英雄"ヴァルグ様の孫にして、"北の守護者"グラニウス様の一人息子。それだけでも有名になるには十分ですわ」
フローラは黙って話を聞いていた。
確かにそうだ。
自分にとってはずっと"辺境伯"のレオン様だった。
だから普段はあまり意識しない。
だが改めて他人から聞かされると、その血筋だけでも王国で注目されるのは当然なのだ。
「でも今のノルディア辺境伯が有名なのは、血筋だけじゃないだろ」
男子生徒が言った。
「むしろ最近は本人の話の方が多い」
「そうですわね」
令嬢が指を折りながら数えていく。
「ここ数年でノルディア領を急速に発展させた若き辺境伯」
「教国枢機卿、"慈愛の聖人"セリオス様とも個人的な親交があるそうですわ」
「帝国第二皇子、"帝国の剣"ルーカス殿下とも親しい」
「第一皇子のジークハルト殿下とも交流があるのでしょう?」
「"帝国の頭脳"とまで呼ばれる人だぞ」
「第一皇子と第二皇子の両方と親交がある王国貴族なんて、そうはいないだろうな」
次々に名前が挙がっていく。
「しかも剣でルーカス殿下に勝ったことまであるんだろ?」
「魔法も凄いらしいぞ」
「帝国で雪を降らせたという話ですわよね?」
「雪?」
「魔法で広い範囲に雪を降らせたそうです」
「そんなことが出来るのか?」
「帝国から来た商人が話していたそうですわ」
話を聞いていた生徒まで加わり、いつの間にかフローラ達の机の周りには小さな人だかりが出来ていた。
フローラはその中心で少し困ったように笑う。
(……レオン様、凄い言われようだなぁ)
どれも間違ってはいない。
だが、自分の知っているレオンとは少し印象が違う。
皆が話していると、まるで遠い国の英雄の話を聞いているようだった。
「そして今回の帝国との和平でしょう?」
その一言で少し空気が変わった。
王国と帝国。
国境を接する二つの大国。
以前から結ばれていた和平条約が更新され、さらに新たな条約が結ばれた。
最近の王都では大きな話題になっている。
「そのためにノルディア辺境伯様は帝国へ向かわれたのでしょう?」
「ジークハルト殿下とも直接話し合われたそうですわ」
「領地を発展させて、剣も強くて、魔法も使えて、その上で国家間の条約まで……」
男子生徒が呆れたように呟く。
「本当に俺達と同じ年なのか?」
その言葉で何人かが顔を見合わせた。
「そういえば……」
「ノルディア辺境伯様も、本来なら今年入学されていたのですよね?」
「ええ。辺境伯として領地を治めていなければ、私達と同じ学年だったはずですわ」
教室の生徒達が何とも言えない顔になる。
「俺達が授業についていけるか心配してる間に、向こうは帝国と条約の話をしてたのか……」
「比べるのはやめよう」
笑いが起きた。
フローラも思わず笑う。
そして少しだけ想像した。
制服を着たレオン。
この教室で自分達と同じ机に座り、授業を受けている姿。
(レオン様が学園かぁ……)
想像してみる。
(……なんか変)
思わず口元が緩む。
でも、もし本当にそうだったら。
同じ学年で毎日顔を合わせられて。
一緒に昼食を食べたり。
放課後に話したり。
(……それはちょっと良かったかも)
少しだけ残念に思う。
「フローラ様」
「はい?」
「実際のノルディア辺境伯様はどのような方なのですか?」
フローラは少し考えてから笑った。
「とてもお優しい方ですよ」
「やっぱり?」
「はい。それに、皆様が思っているほど堅苦しい方ではありません」
「そうなのですか?」
「面倒なことは嫌がりますし、時々驚くようなことも言います」
「ノルディア辺境伯様が?」
「はい」
フローラはクスクス笑う。
皆が知らないレオンを自分は知っている。
それが少しだけ嬉しかった。
「そういえば帝国へ行かれた時、ノルディア辺境伯様お一人ではなかったのでしょう?」
フローラの笑顔が僅かに止まる。
「"白銀の聖剣"エミル様ですわね」
その名前が出た途端、今度は令嬢達が盛り上がった。
「十八歳で聖騎士団副団長になられた方でしょう?」
「しかも"慈愛の聖人"セリオス様直属」
「剣の才能も凄いと聞きますわ」
「とてもお美しい方なのでしょう?」
「"白銀の聖剣"なんて呼ばれているくらいですもの。一度お会いしてみたいですわ」
フローラは黙って茶へ手を伸ばした。
(……出た)
エミルは当然知っている。
それも噂だけではない。
実際に何度も顔を合わせている。
「フローラ様はエミル様にもお会いしたことがありますか?」
「はい」
「本当に!?」
「どんな方なのです?」
「やっぱりお綺麗なのですか?」
「……とてもお綺麗ですよ」
そこは否定出来ない。
というより。
(噂より綺麗だっつーの……)
艶やかな赤い髪。
澄んだ蒼い瞳。
すらりとした長身。
大人びた容姿。
自分の母 にも引けを取らないほどの大きい胸。
剣を持てば圧倒的に強く。
そして何より、人格も良い。
「それに、とてもお強いです」
「やっぱり白銀の聖剣ですものね」
「はい。優しい方でもありますよ」
自分で言っていて少し嫌になってきた。
(綺麗で、強くて、優しくて……)
十八歳で聖騎士団副団長。
慈愛の聖人セリオス直属。
(……欠点ないじゃん)
しかも。
「ノルディア辺境伯様とお二人で帝国へ行かれたのでしょう?」
「そう聞いておりますわ」
「かなり長い旅になりますよね?」
「帝国でも一緒に行動されていたのでしょう?」
「お二人とも剣がお強いですし、話も合いそうですわ」
フローラは笑顔を崩さない。
「そうですね」
(そうですね、じゃないっつーの!)
心の中では即座に否定していた。
(何でエミルさんと二人で帝国まで行ってるの! いいなぁ! 私だってレオン様と二人で旅行したいっつーの!)
もちろん事情があるのは分かっている。
遊びに行ったわけではない。
国家間の和平に関わる大切な仕事だった。
エミルも教国からの見届け人として同行していた。
分かっている。
分かってはいるのだ。
(でも羨ましいものは羨ましいんだって……)
自分が学園へ入学する準備をしている間に、エミルはレオンと一緒に旅をしていた。
同じ馬車に乗って。
同じ景色を見て。
食事をして。
帝国まで向かった。
考えれば考えるほど面白くない。
「でも、お似合いですわよね」
「…………」
フローラの手が止まる。
「ノルディア辺境伯様と白銀の聖剣エミル様」
「どちらもお強いですし」
「エミル様はとてもお美しいそうですもの」
「もしかすると、そのうち婚約なんてお話もあるかもしれませんわね」
フローラは笑顔を作った。
「そうですね」
(お似合いじゃないっつーの!!)
フローラは即座に心の中で叫ぶ。
(……いや! お似合いなんだけど!)
そこが一番困る。
エミルならレオンの隣に立っていても違和感がない。
強くて。
綺麗で。
教国を代表する聖騎士で。
セリオス直属。
(だから嫌なんだよぉ……)
フローラは茶を一口飲む。
「本当に婚約されたりして」
(ないっつーの!!)
「フローラ様?」
「はい?」
「少し怖い顔をされていましたけど……」
「気のせいですよ」
にっこり笑う。
(危なっ!!顔に出てた!?)
フローラは慌てて表情を整えた。
だが一人の令嬢が何かに気づいたようにフローラを見る。
「もしかして……フローラ様」
「はい?」
「ノルディア辺境伯様のことがお好きなのですか?」
「…………」
周囲が静かになる。
フローラの頬が一気に熱くなった。
誤魔化そうと思えば誤魔化せる。
まだ知り合ったばかりの同級生達だ。
笑って否定してしまえばいい。
でも、それだけは嫌だった。
フローラは小さく頷く。
「はい」
そして照れながら笑った。
「レオン様をお慕いしております」
「まあ!」
「やっぱり!」
一気に令嬢達が騒ぎ始める。
「では婚約をされているのですか?」
「していません!」
フローラは思わず即答した。
「まだ……です」
「まだ?」
「あっ……」
(また余計なこと言った!)
楽しそうな笑い声が上がる。
フローラは真っ赤になりながら俯いた。
「でもフローラ様ならお似合いですわ」
「え?」
予想していなかった言葉に顔を上げる。
「ノルディア辺境伯様とフェルナードの聖女。とてもお似合いではありませんか」
「私もそう思います」
「お二人とも王国で有名ですもの」
「昔からお知り合いなのでしょう?」
「それならエミル様にも負けていませんわ」
「…………」
嬉しかった。
素直に嬉しい。
「そ、そうでしょうか?」
「もちろんですわ」
「ありがとうございます」
フローラは照れながら笑う。
だが、胸の奥に、小さなものが引っ掛かった。
フェルナードの聖女。
フェルナード伯爵令嬢。
今の自分を見れば、確かにそうなのかもしれない。
けれど。
(……でも)
フローラは膝の上で指を重ねた。
(私、元々平民なんだよね……)
フェルナード伯爵家に生まれたわけではない。
今は父と呼ぶレイモンドに迎えられ、フェルナードの名を名乗っている。
貴族としての礼儀も学んだ。
こうして王立学園にも通っている。
それでも自分の生まれまで変わったわけではない。
そしてレオンは、帝国との戦争を終わらせた英雄ヴァルグの孫。
王国最強と謳われ、北の守護者と呼ばれたグラニウスの一人息子。
代々王国北部を守ってきたノルディア辺境伯家の当主。
それだけではない。
今ではレオン自身が領地を発展させ、セリオスと親交を持ち、帝国皇族とも肩を並べ、国家間の和平にまで関わっている。
(……凄い人なんだよね、レオン様)
知っていたはずだった。
でも今日、同級生達から一つ一つ聞かされて、改めて思い知らされた。
自分が好きになった人が、どれほど凄い立場にいるのか。
そしてエミルも。
十八歳で聖騎士団副団長。
慈愛の聖人直属。
白銀の聖剣と呼ばれる女性。
そんな人なら、レオンの隣に立っていても、誰も不思議には思わない。
では自分は?
(私が……レオン様のお嫁さんになっていいのかな?)
胸が少し苦しくなる。
好きだ。
それは変わらない。
出来ることなら妻になりたい。
ずっと隣にいたい。
でも。
(私、元々ただの平民だよ……?)
フェルナードの聖女と呼ばれるようになったから。
伯爵令嬢になったから。
それだけで、英雄の血を引く辺境伯の妻になっていいのだろうか。
「フローラ様?」
声を掛けられ、フローラは顔を上げた。
「どうかなさいました?」
「……いいえ」
フローラは小さく笑う。
「少し考え事をしていただけです」
「もしかしてエミル様のことですか?」
「えっ?」
令嬢が楽しそうに笑った。
「大丈夫ですわ。フローラ様も十分お綺麗ですもの」
「そ、そういうことでは……」
「では、ノルディア辺境伯様に振り向いていただけるよう頑張らないといけませんわね」
「…………」
フローラは少し目を見開く。
"頑張る"その言葉が妙に胸に残った。
自分に妻になる資格があるのか。
今は分からない。
(でも……好きなんだもん)
それだけは誰に何を言われても変わらない。
元平民だから。
レオンが凄い人だから。
エミルが綺麗だから。
それだけで諦められるくらいなら、最初からこんなに好きになっていない。
(私なんかでいいのかなって思うけど……)
フローラは自分の手を見る。
人を癒すことが出来る手。
そして今は、レオンから教わった氷魔法も使える。
まだ出来ることはある。
もっと勉強して。
もっと魔法を覚えて。
もっと色々なことを知って。
少しでもレオンの役に立てるようになればいい。
妻になれるかどうかは、その後だ。
「……はい」
フローラは顔を上げた。
先ほどまでとは違う笑顔を浮かべる。
「頑張ります」
「まあ」
「宣言されましたわね」
再び笑い声が上がる。
フローラも一緒になって笑った。
そして。
(だからエミルさん)
心の中で、遠く離れた教国にいる女性を思い浮かべる。
綺麗で。
強くて。
優しくて。
尊敬出来る女性。
だから嫌いにはなれない。
(レオン様のことだけは、負けないからね)
フローラは小さく拳を握った。
フェルナードの聖女。
そう呼ばれる少女の学園生活は。
まだ始まったばかりだった。




