間章 大和撫子は譲らない
帝国東部の島々、ヤマト地方。
帝都からスルガ領へ戻って数日が経った。
朝の稽古を終えたミコトは、自室で髪を整えていた。鏡に映るのは、いつもと変わらない自分の姿。艶のある黒髪に黒い瞳。帝都へ向かう前と何一つ変わっていない。
だが、ミコト自身は分かっていた。
変わったものが一つある。
「レオン様……」
小さく名前を口にする。
帝都で出会った王国の辺境伯。
最初は強い男だと思った。
剣だけではない。自分より遥かに大きな魔力を持ちながら、それを誇ることもない。帝国の皇帝を前にしても必要以上に怯まず、第一皇子ジークハルトとも普通に言葉を交わした。
それでいて、スルガ家の屋敷ではヤマトの文化を自然に受け入れた。
ミコトが求婚しても、困惑こそしたものの馬鹿にすることもなかった。
勝てば夫になってほしい。
負ければ自分が妻になる。
最初の申し出は断られた。
だから条件を変えた。
それも結局、受け入れてはもらえなかった。
それでも、嫌われたわけではない。
ならば、まだ終わっていない。
そう考えていると、襖の向こうから声がした。
「ミコト、入ってもいい?」
「母上?……どうぞ」
襖が開き、コトハが部屋へ入ってくる。
手には茶と菓子の載った盆を持っていた。
「少し休憩しましょう?」
「ありがとうございます」
二人で向かい合って座る。
コトハが茶を注ぎながら、どこか楽しそうに娘を見る。
「最近、本当に分かりやすくなったわね」
「何がでしょう?」
「レオン様のことを考えていたでしょう?」
ミコトの手が止まった。
「……何故分かるのですか?」
「母親ですもの」
コトハは笑う。
ミコトは僅かに視線を逸らした。
「別に隠しているつもりはありません」
「そうね。お兄ちゃんにも堂々と求婚したって話していたものね」
「はい」
その結果、ヒロトが「万死に値する」と叫びながら武具を要求したのは記憶に新しい。
父が止めていなければ、本当にその日のうちにノルディアへ向かっていたかもしれない。
コトハは茶を一口飲む。
「本当にレオン様が好きなのね」
「はい」
迷いはなかった。
「妻になりたいと思っております」
「そう」
コトハは嬉しそうに微笑む。
しかし、その後少しだけ表情を変えた。
「でも、一つ聞いておいた方がいいかもしれないわね」
「何でしょう?」
「ミコトは、レオン様の周りにいる女性のことをどれくらい知っているの?」
ミコトは僅かに眉を動かした。
「女性……ですか?」
「ええ」
真っ先に思い浮かんだ女性がいる。
「エミル様なら存じております」
教国の聖騎士。
帝国へレオンと二人で訪れ、長い間行動を共にしていた女性。
赤い髪に蒼い瞳。整った顔、スタイルも良く胸も大きい。
女性同士でさえ見とれるほどの容姿。
それに加え、聖騎士としての実力も高い。
何より、レオンを見る時のエミルの表情を、ミコトは何度も見ている。
「エミル様は、レオン様を好いておられると思います」
「あら、やっぱり?」
「はい」
ミコトは即答した。
「あの方は分かりやすいです」
「ミコトも人のことは言えないと思うけれど」
「そうでしょうか?」
「そうよ」
コトハは苦笑する。
だがエミルの存在については、ミコトも最初から分かっていた。
問題は、その後だった。
「でも、エミル様だけではないみたいよ」
ミコトの黒い瞳が僅かに細くなる。
「……他にも?」
「ええ」
コトハは娘の反応を確かめるように続けた。
「ノルディアにはクロエという女の子がいるそうね」
その名前には聞き覚えがあった。
「クロエ……」
「レオン様と一緒にノルディアを発展させてきた子らしいわ。商売にも領地経営にも関わっていて、レオン様からかなり信頼されているとか」
ミコトは黙って聞く。
「年齢もレオン様と近いそうよ」
「……なるほど」
エミルとは違う。
エミルは教国の人間。
一方、クロエはノルディアで日常的にレオンのそばにいる。
仕事を共にし、領地そのものを一緒に作ってきた。
それはミコトにはない時間だった。
コトハが続ける。
「それからフェルナード伯爵家のフローラ様」
「フローラ様?」
「今は王都の学園へ通っている子ね。レオン様とは以前から親しくしているそうよ」
「その方もレオン様を?」
「少なくとも、かなり好意を持っているという話はあるわ」
「…………」
ミコトは茶へ目を落とした。
エミル。
クロエ。
フローラ。
そして自分。
少なくとも四人。
しかも、ミコトが知らないだけで他にもいる可能性すらある。
コトハは少し心配そうに娘を見る。
「驚いた?」
「多少は」
「そうよね」
「ですが」
ミコトは顔を上げる。
「それが何か問題なのでしょうか?」
今度はコトハが瞬きをした。
「……問題ではないの?」
「何故です?」
「だって、レオン様のことを好きな女性が他にもいるのよ?」
「レオン様ほどの方です」
ミコトは当然のように答えた。
「他の女性から好意を寄せられていても不思議ではありません」
コトハはしばらく娘を見る。
「嫉妬しないの?」
「します」
即答だった。
「するのね」
「当然です」
ミコトは少しだけ不満そうな表情を見せる。
「私も出来ることなら、レオン様には私だけを見ていただきたいです」
その気持ちはある。
エミルとレオンが自然に話している姿を見て、面白くないと思ったこともあった。
自分が知らないレオンを知っている女性がいる。
それは悔しい。
「それと諦めることは別です」
ミコトの声に迷いはなかった。
コトハが微笑む。
「ミコトらしいわね」
「そもそも私は、まだレオン様の妻にもなっておりません」
「そうね」
「でしたら、まずはそこからです」
ミコトは真剣に考え始める。
エミルにはエミルの強みがある。
長く行動を共にし、命を預けるほどの信頼。
クロエにはノルディアで積み重ねてきた時間がある。
領地経営を支え、レオンの日常のすぐそばにいる。
フローラにも、レオンとの間に自分の知らない関係があるのだろう。
では、自分には何がある。
剣。
強さ。
ヤマトの文化。
そして。
誰よりも真っ直ぐに、レオンを欲しいと言えること。
「……負けるつもりはありません」
ミコトが呟く。
「誰に?」
「全員にです」
コトハは思わず笑った。
「恋愛を決闘みたいに考えては駄目よ」
「違うのでしょうか?」
「少なくとも、刀で決着はつけないでね」
「分かっております」
ミコトは本気で答える。
少し考えてから、コトハが尋ねた。
「でも、もしレオン様がその中の誰かを妻に選んだら?」
ミコトの表情が僅かに止まった。
確かに、レオンが誰かを妻にする可能性はある。
エミルかもしれない。
クロエかもしれない。
フローラかもしれない。
自分が選ばれる保証などない。
「その場合は……」
ミコトは考える。
ヤマト地方でも、身分の高い者が複数の妻を持つこと自体は珍しい話ではない。
まして相手は王国の辺境伯。
一人しか妻を持てない立場ではない。
「母上」
「何?」
「レオン様は、一人しか妻を娶れないのでしょうか?」
コトハが一瞬黙る。
そして、娘が何を考えているのか察した。
「……いいえ」
「でしたら問題ありません」
「ミコト?」
ミコトは真顔だった。
「正妻になれなければ、側室になればよいのでは?」
あまりにもあっさりした答えだった。
コトハが目を丸くする。
「それでいいの?」
「はい」
「正妻に拘らないの?」
「レオン様の妻になれるのであれば」
ミコトにとって重要なのは肩書ではない。
一番でなければ意味がないとは思わない。
もちろん一番になれるなら、その方がいい。
レオンに最も愛されたい。隣に立ちたい。
だが正妻という立場に拘った結果、レオンの隣そのものを失うくらいなら意味がない。
「それに」
ミコトは少しだけ口元を緩めた。
「妻になった後で、一番好きになっていただけばよいだけです」
コトハが数秒黙った。
やがて楽しそうに笑い始める。
「本当に前向きね」
「そうでしょうか?」
「ええ、とても」
「ですが、何もしなければ何も変わりません」
ミコトは当然のように言う。
エミルがいる。
クロエがいる。
フローラがいる。
だから何だというのか。
他の女性がレオンを好きだから、自分は身を引く。
そんな選択肢は最初からミコトの中にはなかった。
「でもね、ミコト」
コトハが少しだけ真面目な表情になる。
「他の子を蹴落とすような真似は駄目よ」
「いたしません」
「本当に?」
「はい」
ミコトは頷く。
「レオン様が嫌がると思いますので」
その答えにコトハは少し驚いた後、優しく微笑んだ。
「ちゃんと分かっているのね」
「もちろんです」
勝つ。
だが他人を傷つけて勝つのではない。
レオンに選んでもらう。
そのために自分を磨く。
もっと強くなる。
もっとレオンを知る。
もっと自分を知ってもらう。
そしていつか。
「レオン様から、私を妻にしたいと言わせます」
ミコトは真っ直ぐに宣言した。
「今度は私からではなく、レオン様から求婚していただきます」
「あら」
コトハが楽しそうに笑う。
「それは大変そうね」
「望むところです」
ミコトの黒い瞳に闘志が宿った。
剣を握っている時と何も変わらない。
いや。もしかすると、それ以上だった。
その日の夕方。
スルガ家の訓練場では、いつも以上に鋭い剣戟の音が響いていた。
カンッ!
カンッ!
カンッ!
ミコトは一人、何度も木刀を振るう。
帝都で見たレオンの姿を思い出しながら。
エミル。
クロエ。
フローラ。
強敵は多い。
それでも構わない。
正妻でなくてもいい。
側室でもいい。
まずは妻になる。
その後で、誰よりもレオンに好きになってもらえばいい。
ミコトは木刀を構え直した。
「負けません」
誰に言うでもなく呟く。
その表情には僅かな笑みが浮かんでいた。
レオン・ノルディアを巡る女性達の中に、自分が既に足を踏み入れていることを理解しても。
大和撫子が退く理由には、ならなかった。




