間章 兄 ヒロト・スルガ
帝国東部の島国、ヤマト地方。
帝都から戻ってきたクニヒロとミコトを乗せた馬車が、スルガ家の屋敷へ到着した。
二人が帝都を離れていた期間は決して短くない。
帝国と王国の今後にも関わる話し合いが行われ、クニヒロは将軍家当主として帝都に残る必要があった。
その間、当然ながらスルガ領の政務を誰かが預からなければならない。
その役目を任されていたのが、スルガ家の嫡男だった。
馬車が止まると、屋敷の前で待っていた一人の青年が歩み寄ってくる。
整った顔立ちに、落ち着いた雰囲気。姿勢は真っ直ぐで、腰にはヤマト地方特有の刀を差している。
まだ若いが、その立ち姿には既に次期当主としての風格があった。
ヒロト・スルガ。
クニヒロの息子にして、ミコトの実兄である。
「父上、お帰りなさいませ」
「ああ。留守を任せたな」
「特に大きな問題はありません。急を要する案件はこちらで処理いたしました。判断を仰ぎたいものについては、既に書斎へまとめてあります」
「分かった。後で確認しよう」
クニヒロは満足そうに頷いた。
ヒロトに領地を任せることへの不安は最初からなかった。
頭の回転は非常に速い。政治、軍略、領地経営のいずれにも優れ、その頭脳は帝国第一皇子ジークハルトと比較されることすらある。
武芸においても同じだった。
剣の才能だけなら、帝国第二皇子ルーカスを上回ると評する者さえいる。
次期スルガ家当主として申し分ない。
それどころか、持って生まれた才覚だけを見れば、帝国の頂点すら目指せる男だった。
だがヒロト本人には皇帝の座などに興味がない。
そして、その理由をクニヒロは誰よりもよく知っていた。
「それで――」
ヒロトの視線がクニヒロの隣へ向いた。
先ほどまで次期当主らしい落ち着いた表情をしていた青年の顔が、一瞬にして明るくなる。
「ミコト!」
「ただいま戻りました、兄さん」
「お帰り!」
ヒロトはすぐにミコトへ歩み寄った。
「長旅で疲れただろう? 体調は悪くないか? 帝都の食事は口に合ったか? ちゃんと眠れていたか? 何か困ったことはなかったか?」
「大丈夫です」
「本当か? 少し痩せたんじゃないか?」
「変わっておりません」
「いや、兄さんには分かる。ほんの少し頬が――」
「ヒロト」
クニヒロが低い声で遮った。
「道を空けろ。いつまで玄関先で話すつもりだ」
「……父上には聞いておりません」
「お前な……」
クニヒロはため息を吐く。
ヒロト・スルガ。
帝国屈指の頭脳を持つ男。
剣にも恵まれた男。
そして……。
救いようがないほどの"シスコン"だった。
幼い頃からミコトを溺愛し、妹のためならば何でもする。
皇帝候補として名前が挙がったこともある。しかし本人は全く興味を示さなかった。
皇帝になれば帝都を離れられなくなる。
スルガ領へ戻る機会も減る。つまりミコトと過ごす時間が減る。
本人にとっては、それだけで皇帝になる理由がなくなった。
その才能を知る者達からすれば、あまりにも勿体ない話だった。
だがヒロト本人にとっては、帝国の頂点より妹の方が重要なのである。
その日の夕刻。
久しぶりに家族全員が揃った食卓には、コトハが用意させた料理が並んでいた。
帝都での出来事を聞きながら、ヒロトは穏やかな表情で食事を進めている。
「それでは帝国軍とノルディア軍による共同討伐は、予定通り進められるのですね」
「ああ。細部はこれからだが、大枠は決まった」
クニヒロが答える。
「王国側も帝国兵を受け入れると?」
「国王から許可は出たそうだ」
「なるほど」
ヒロトは僅かに考える。
「面白い判断ですね。帝国軍を王国内へ入れるだけなら警戒される。しかしノルディア側だけでなく帝国側にも王国兵を加えることで、お互いが監視役になる。片方だけが国境を越えて動く形にしなかったわけですか」
クニヒロが僅かに笑う。
「相変わらず理解が早いな」
「それほど難しい話ではありません」
ヒロトは平然と答える。
「それを考えたのが例のレオン・ノルディアですか?」
「ああ」
「十六歳でしたね」
「そうだ」
「若いですね」
ヒロトは少しだけ興味を示した。
「報告書は読んでいましたが、随分と頭の切れる人物のようですね。ノルディアの発展も偶然ではなさそうだ」
「実際に会えば分かる。変わった男だ」
「父上が他人をそのように評価するのは珍しいですね」
ヒロトはそれ以上深く聞かなかった。
王国の若い辺境伯。
現時点での認識は、それだけだった。
そしてレオンの話題が出た時、ミコトの表情が僅かに柔らかくなったことにも。
この時のヒロトは気づかなかった。
食事が進み、帝都での堅苦しい話も一通り終わった頃だった。
コトハが嬉しそうにミコトを見る。
「でも今回、帝都へ行って本当によかったわね」
「はい?」
ミコトが首を傾げる。
「だってミコトに想い人が出来たんですもの」
ピシッ。
小さな音がした。
クニヒロの視線が横へ動く。
ヒロトが持っている湯呑みに亀裂が入っていた。
しかし、本人は笑っている。
「…………想い人?」
「ええ」
コトハは楽しそうに頷いた。
「この子、今まで殿方に全然興味を示さなかったでしょう? 母親として少し心配していたの。でも帝都で素敵な方と出会えたみたいで」
「そう……ですか」
ヒロトは笑顔のままミコトを見る。
ゴォッ――!!
次の瞬間、部屋の空気が変わった。
凄まじい魔力がヒロトの身体から溢れ出す。
障子が震え、食卓に並べられた器がカタカタと音を立てる。
廊下に控えていた使用人達まで何事かと部屋の方を振り返った。
「ヒロト」
クニヒロが低い声で言う。
「魔力を抑えろ」
「何のことでしょう、父上?」
ヒロトは笑顔だった。
「私は至って冷静ですが?」
ゴゴゴゴゴ……。
「部屋が揺れている」
「風では?」
「お前の魔力だ」
「気のせいでしょう」
「いいから抑えろ」
クニヒロが額を押さえる。
ヒロトは笑顔のままミコトへ尋ねた。
「それでミコト」
「はい?」
「その……想い人というのは?」
「レオン様です」
魔力がさらに膨れ上がった。
ヒロトの笑顔だけは崩れない。
「レオン……」
「レオン・ノルディア様です」
「…………なるほど」
先ほどまで話していた王国の辺境伯。
十六歳にしてノルディアを治め、領地を急速に発展させた男。
帝国との共同討伐を考え、皇帝や"あの"腹黒ジークハルトとも交渉した人物。
ヒロトは一度目を閉じる。
人物として考えれば優秀だ。
年齢を考えれば驚異的と言ってもいい。
ミコトが興味を持った理由も、理屈では理解出来る。
ヒロトはゆっくり目を開いた。
「……そうか」
魔力が少しだけ収まる。
クニヒロは意外そうに息子を見る。
まさか納得したのか。
「ミコトが選んだ相手なら、一度会ってみる必要があるな」
「兄さん」
「何だ?」
ミコトはいつもと変わらない表情で言った。
「少し違います」
「何がだ?」
「私から求婚したのです、兄さん」
「…………」
ヒロトが止まった。
完全に止まった。
「…………今、何と?」
「私からレオン様へ求婚いたしました」
「ミコトから?」
「はい」
「レオン・ノルディアに?」
「はい」
「…………」
ヒロトはゆっくりと湯呑みを置いた。
先ほどまで溢れていた魔力も消えている。
静かだった。
あまりにも静かだった。
クニヒロは逆に嫌な予感がした。
「ヒロト」
「それで?」
ヒロトは父を無視してミコトを見る。
「返事は?」
「断られました」
「…………」
再び沈黙が落ちる。
次の瞬間。
ゴォオオオオオオッ!!
先ほどとは比較にならないほど巨大な魔力が爆発した。
「ヒロト!!」
クニヒロが立ち上がる。
障子が激しく震え、食器が跳ねる。
それまで笑顔だったヒロトの額に青筋が浮かんだ。
「俺の……」
「ヒロト、落ち着け」
「俺のミコトの求婚を断りやがって!!」
ヒロトが勢いよく立ち上がった。
「万死に値する!!」
「待て!!」
クニヒロが即座にヒロトの肩を掴んだ。
「何故そうなる!」
「離してください父上!」
「離せるか!」
「ミコトですよ!?」
「見れば分かる!」
「俺の可愛いミコトが! 生まれて初めて自分から男に求婚したんですよ!?」
「ああ!」
「それを断った!!」
「事情がある!」
「知るか!!」
「知れ!!」
ヒロトはクニヒロの腕を振り解こうとする。
「王国の辺境伯だろうが何だろうが関係ない! ミコトから求婚されて断るなど、男として許されると思っているのか!!」
「本人の自由だろうが!」
「父上はその場にいたのでしょう!?」
「いた!」
「何故斬らなかったのです!!」
「斬るわけがないだろう!!」
「娘が恥をかかされたのですよ!?」
「お前が、今、一番ミコトに恥をかかせている!!」
父と息子の怒声が屋敷に響き渡る。
コトハは頬へ手を添えながら困ったように笑っていた。
「あらあら」
一方のミコトは平然としている。
昔から何度も見てきた光景だった。
「兄さん」
「安心しろミコト!」
ヒロトが即座に振り返る。
「兄さんがお前の無念を晴らしてくる!」
「無念ではありません」
「気丈に振る舞わなくていい!」
「振る舞っておりません」
「俺には分かる!」
「分かっておりません」
ミコトが淡々と否定する。
しかしヒロトの耳には届かない。
「待っていろ、レオン・ノルディア……!」
「待てヒロト」
「父上、離してください!」
「お前、何をするつもりだ!」
「決まっているでしょう!」
ヒロトは大きく息を吸った。
そして屋敷中へ響き渡るほどの声で叫ぶ。
「誰か!! 武具を用意しろ!!」
廊下にいた使用人達が一斉に身体を震わせる。
「ヒロト!!」
「止めないでください父上!」
「止めるに決まっているだろう!」
「俺は行く!!」
「どこへだ!!」
ヒロトの瞳に炎が宿る。
「ノルディアへ!!」
「馬鹿者!!」
クニヒロが必死に押さえる。
だがヒロトは止まらない。
妹の想い人。
妹が生まれて初めて求婚した男。
そして、その求婚を断った男。
もはやヒロトの中から、帝国屈指と評される冷静な頭脳は完全に消え去っていた。
「離してください父上!!」
「まず頭を冷やせ!!」
「俺は冷静です!!」
「どこがだ!!」
ヒロトは父に押さえられながら天井を仰ぐ。
そして高らかに宣言した。
「我、修羅に入る!!」
「入るな!!」
クニヒロの怒声が屋敷中に響き渡った。
ミコトはそんな兄を見ながら、静かに茶を口へ運ぶ。
「兄さんは相変わらずですね」
「あら、ミコトのことが大好きなのよ」
「知っております」
「お前達も少しは止めろ!!」
再びクニヒロの怒声が響いた。
帝国第一皇子ジークハルトにも匹敵すると評される頭脳。
帝国第二皇子ルーカス以上とも言われる剣の才能。
政治、軍略、領地経営、武芸。そのどれを取っても一流であり、才能だけならば皇帝の座すら目指せる男。
それでもヒロト・スルガが皇帝を目指すことはない。
帝国の頂点よりも。
権力よりも。
名誉よりも。
彼にとっては、妹のミコトの方が遥かに大切だからである。
そしてこの日。
レオン・ノルディアは本人の知らないところで、帝国でも屈指の才能を持つ男から一方的に敵認定されていた。




