第308話 残された時間
「では、失礼いたします」
エミルはフランシスとセリオスへ一礼すると、教皇の執務室を後にした。
重厚な扉が閉じる。
部屋には再び二人だけが残った。
フランシスはしばらく閉じられた扉を眺めていた。
やがて小さく笑う。
「なるほどな」
「何がでしょう?」
セリオスが尋ねる。
「お前が昨日、確信したと言っていた意味だ」
フランシスは机へ肘をついた。
「随分と分かりやすいではないか」
セリオスも小さく笑う。
「ええ。本人は隠しているつもりのようですが」
「隠せておらんな」
「レオン殿の前では、もう少し上手く隠していると思いたいですが」
「どうだろうな」
二人の間に僅かな笑いが生まれる。
だがフランシスの表情はすぐに変わった。
薄い灰色の瞳が、向かいに座るセリオスへ向けられる。
「それで?」
「はい?」
「なぜ、そこまでエミルを推す?」
先ほどまでとは違う声だった。
穏やかではある。
だが誤魔化すことを許さない声音。
セリオスは僅かに目を細める。
「先ほど申し上げた通りです。エミルはレオン殿から信頼されております。ノルディアの事情にも詳しく――」
「セリオス」
フランシスが静かに遮った。
「私はお前より長く、この場所にいる」
「…………」
「お前が枢機卿となる前、私も同じ席に座っていた」
フランシスはセリオスを真っ直ぐ見る。
「政治的な理由だけで、あれほど一人の娘を推しているのかどうかくらい分かる」
セリオスは何も答えなかった。
「他の女でも、教国とノルディアの婚姻という目的は果たせる」
「はい」
「レオン・ノルディアの子を教国との繋がりに使うことも出来る」
「はい」
「ポーション事業との関係も同じだ」
フランシスは少し間を置く。
「それでも、お前はエミルでなければならないと言わんばかりだった」
教皇室に沈黙が落ちた。
やがてセリオスが小さく息を吐く。
「……敵いませんね」
「何年お前を見ていると思っている」
フランシスはそう言ってから、セリオスの顔を見つめた。
「それに」
その視線が少し下がる。
「時間がないのだろう?」
セリオスの表情が止まった。
「…………」
「最近、顔色が悪い」
「歳ですよ」
「私にそれを言うか?」
七十二歳のフランシスに言われ、セリオスは苦笑する。
「それに私は教皇だ」
フランシスの声から笑いが消える。
「枢機卿の身体の状態を、何も知らぬと思うな」
セリオスはしばらく黙っていた。
やがて諦めたように目を伏せる。
「……そうですね」
それだけで十分だった。
フランシスは何も言わず続きを待つ。
セリオスは自分の胸元へ手を当てた。
「まだ、すぐにどうこうというわけではありません」
「だが治る見込みもない」
「はい」
静かな返事だった。
自分の身体のことだ。
誰よりも理解している。
レオンからの定期的に送られて来る秘薬でかなり進行は遅い。
だが、着実に病が進行している事はわかる。
今すぐ命を落とすわけではない。
だが何年先まで生きられるのか。
それは分からない。
「だからか」
フランシスが呟く。
「エミルの行く先を決めておきたい」
セリオスは少しだけ考えた。
「……少し違います」
「違う?」
「行く先を決めたいわけではありません」
セリオスは閉じられた扉を見る。
つい先ほど、エミルが出ていった扉。
「私はあの子に、自分で選んでほしいのです」
フランシスは黙って聞く。
「エミルは昔から、自分のことを後回しにする子でした」
自分の命すら軽く扱う。
誰かを守れるならそれでいい。
誰かの役に立てるなら、自分が傷つくことなど構わない。
そういう少女だった。
「ですが、ようやく自分が欲しいものを見つけた」
「レオン・ノルディアか」
「ええ」
セリオスは穏やかに微笑んだ。
「昨日、あの子の報告を聞いていて分かりました。帝国で何があったのかを聞いているはずなのに、出てくるのはレオン殿の話ばかりです」
フランシスが小さく笑う。
「報告書もそうだったな」
「はい」
「必要以上に詳しかった」
「ええ」
レオンが何を言った。
何を考えた。
誰と話した。
どのような判断をした。
エミルの報告書には、レオンに関する記述が妙に多かった。
「本人は職務上必要な報告だと思っていたのでしょう」
「恋とは厄介なものだな」
「本当に……」
セリオスは笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
「だからこそ、私はあの子をレオンさんへ託したい」
フランシスの目が僅かに細くなった。
「託す?」
「はい」
セリオスはゆっくりと頷く。
「私がいる間は、エミルを守れます」
枢機卿は、教国に十二人しか存在しない最高位の聖職者。
その立場は教国内だけでなく、他国に対しても大きな影響力を持つ。
エミルの背後にセリオスがいる。
それだけで、彼女へ不用意に手を出せる者は大きく減る。
「ですが私が死ねば、その力は失われます」
フランシスは何も言わない。
「今のエミルを守っているものの一つは、私の立場です」
「魔導王国か」
フランシスの一言で、部屋の空気が変わった。
セリオスは静かに頷いた。
「はい」
それ以上の説明は必要なかった。
フランシスもエミルの過去を知っている。
そして彼女が、魔導王国にとってどのような存在なのかも。
「今は私がいます」
セリオスは続ける。
「教国の枢機卿が庇護する聖騎士へ手を出す。それが何を意味するか、向こうも理解しているでしょう」
「だが、お前がいなくなれば状況は変わる」
「ええ」
セリオスの声は静かだった。
「私の死後も、誰かが同じように守ってくれる保証はありません」
フランシスが僅かに眉を寄せる。
「私では不足か?」
「教皇猊下がいる間は問題ないでしょう」
セリオスは穏やかに答えた。
「ですが教皇猊下も永遠にその座にいるわけではありません」
七十二歳のフランシスは何も言い返さなかった。
それは事実だった。
人の立場は変わる。
人は老いる。
そしていつか死ぬ。
一人の人間の庇護だけに頼った安全は、永遠には続かない。
「だから、もっと大きなものをエミルの後ろに置きたいのです」
「ノルディアか」
「それだけではありません」
セリオスは首を横へ振る。
「もしエミルがレオン殿と婚姻し、教国から爵位を与えられれば、あの子は教国貴族となります」
「そうだな」
「そして王国のノルディア辺境伯夫人にもなる」
教国。
ノルディア。
そして王国。
エミル一人へ手を出すことが、それら全てに関わる問題へ変わる。
「魔導王国がエミルへ手を出せば、まず教国が動く」
「当然だ」
「同時にノルディア辺境伯家への攻撃にもなる。王国も無視出来ません」
フランシスは黙って聞いている。
「そして今、王国と帝国の関係は以前より深くなりつつあります」
今回、レオンが帝国から持ち帰った取り決め。
そこにはノルディアと帝国が緊急時に協力するための内容も含まれている。
何が起きたかによっては、帝国まで無関係ではいられなくなる。
「つまり」
フランシスが口を開く。
「エミル一人へ手を出すために、教国だけでなく王国、そして場合によっては帝国まで相手にする危険を背負わせる」
「はい」
セリオスは頷いた。
「私は魔導王国に、エミルへ手を出さないでほしいのではありません」
少し間を置く。
「手を出せない状況にしたいのです」
静かな言葉だった。
だがそこには強い意志が込められていた。
「私一人の立場より、遥かに大きな抑止になります」
フランシスはしばらく何も言わなかった。
セリオスが何を考えているのか。
ようやく全て理解した。
「随分と考えたものだ」
「時間だけはありましたから」
「自分の死後のことをか?」
セリオスは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
フランシスは小さく息を吐く。
「だが、それならレオン・ノルディアでなくともよいだろう」
「……はい」
セリオスは否定しなかった。
安全だけを考えるなら。
教国の有力貴族でもいい。
王国の大貴族でもいい。
政治的な後ろ盾を持つ者なら候補はいくらでもいる。
「それでもレオン・ノルディアを選ぶ理由は?」
セリオスは少しだけ笑った。
「エミルが彼を好きだからです」
フランシスの目が僅かに見開かれる。
「レオン・ノルディアをか」
「ええ」
あまりにも単純な答えだった。
「安全にするだけなら、他にも方法はあります」
セリオスは続ける。
「ですが、それでは意味がない」
「意味がない?」
「私はあの子を檻に入れて守りたいわけではありません」
セリオスは静かに言った。
「幸せになってほしいのです」
フランシスは黙った。
「好きでもない男と結婚させ、強い家の中へ入れて、これで安全だから満足しろなどと、言いたくありません」
セリオスの脳裏に、先ほど顔を真っ赤にしていたエミルが浮かぶ。
別の女性を選ぶ。
その一言に反射的に声を上げた少女。
レオンと結婚することが嫌かと聞かれ、小さな声で嫌ではないと答えた少女。
あれほど自分の気持ちを表に出さなかったエミルが、初めて自分自身の幸せを望み始めている。
「エミルが好きな人と一緒になり、その人の隣で笑って生きられる」
セリオスは穏やかに微笑んだ。
「そのうえで、誰にも手を出せないほど守られている」
「随分と欲張りだな」
「そうでしょうか?安全も欲しい。本人の恋も叶えたい。どちらか一つを諦める必要はないでしょう」
フランシスはしばらくセリオスを見つめた。
やがて小さく笑う。
「枢機卿になる前の頃より、随分と欲深くなったものだ」
「教皇猊下に教えていただきましたので」
「私のせいにするな」
二人の間に僅かな笑いが戻った。
だがフランシスには、まだ一つ疑問があった。
「セリオス、お前はレオン・ノルディアを信用しているのだな」
セリオスは迷わなかった。
「はい」
「会った回数なら、お前よりエミルの方が遥かに多いだろう」
「そうですね」
「それでも娘同然の者を託せると?」
セリオスは少しだけ考えた。
レオン・ノルディア。
初めて会った時から、少し変わった少年だと思っていた。
身分だけで人を見ない。
必要なら自分の利益を削る。
領民を守るためなら、自分が敗北する未来まで想定して道を作る。
そして何より、エミルの過去を知った後も、彼女を見る目を変えなかった。
「だからこそです」
「何がだ?」
「レオン殿なら、エミルをエミルとして見てくれる」
元奴隷でもない。
過去の身分でもない。
聖騎士団副団長でもない。
政治の道具でもない。
ただ一人の女性として。
「この男なら」
セリオスは静かに言った。
「エミルを託せる」
フランシスはその言葉を聞き、ゆっくりと椅子へ背を預けた。
「なるほどな」
机の上にはノルディアから提出された避難計画。
帝国との取り決め。
ポーション事業に関する資料。
全て国家に関わる話だった。
数万人の命。
王国。
帝国。
教国。
婚姻。
次の世代。
巨大な政治の話が、この部屋では動いている。
だがセリオスがその中心にエミルを置いた本当の理由は、もっと単純だった。
自分が死んだ後も。
あの少女に安全な場所で、大切な人と笑って生きてほしい。
ただ、それだけだった。
フランシスは向かいに座るセリオスを見る。
「ならば死ぬ前に、きちんと見届けろ」
セリオスが僅かに目を見開いた。
フランシスは薄い灰色の瞳を細める。
「エミルがレオン・ノルディアの妻になるところをな」
セリオスは一瞬黙った後、小さく笑った。
「……そうしたいですね」
窓の外から柔らかな陽光が差し込む。
セリオスには、自分にあとどれほどの時間が残されているのか分からない。
それでも、残された時間で、やるべきことは決まっていた。




