第307話 まだ見ぬ子供達
「…………子供?」
エミルの思考が止まった。
まだレオンへ想いを伝えてすらいない。
婚約もしていない。
当然、結婚もしていない。
それなのに教皇フランシス・セレスティアは既に、自分とレオンの間に生まれる子供の話を始めようとしていた。
「そうだ」
フランシスは何でもないことのように頷いた。
「先ほどセリオスにも話したが、レオン・ノルディアの魔力量は極めて多い」
「それは……知っています」
エミル自身、レオンの魔力量については間近で何度も感じている。
帝国での長い滞在中も、その膨大な魔力量について話題になったことがあった。
帝国第一皇子ジークハルトを上回るほどだと見られている。
「魔力量は子へ受け継がれる傾向がある」
「はい」
「ならばレオン・ノルディアの子も、大きな魔力を持って生まれる可能性が高い」
「…………はい」
そこまでは理解出来る。
だが自分を前にして話されると意味がまったく違って聞こえる。
フランシスはそんなエミルの様子を気にすることなく続けた。
「そなたとの間に何人か子が生まれた場合、そのうち何人かには将来、教国との繋がりを持ってもらいたい」
「何人か……」
エミルの頬がさらに赤くなる。
一人ではない。
最初から複数人を想定されている。
「無論、無理に聖職者にするという意味ではない」
フランシスは淡々と説明する。
「聖職者でもいい。聖騎士でもいい。本人に別の才があるなら、その道へ進ませても構わない。重要なのは、ノルディア辺境伯家の血を引く者と教国との関係が次の世代にも続くことだ」
「……はい」
「それに高い魔力を持つ人材は、教国にとっても貴重だからな」
フランシス自身がその一例だった。
七十二歳となった今も深い青色を保つ髪。
高齢になっても髪の色をほとんど失っていないこと自体が、フランシスの持つ魔力量の多さを示している。
エミルにも、教皇がレオンの血筋に価値を見出す理由は理解出来た。
理解は出来る。
だが――
レオン君との子供。
頭の中でそう考えただけで、顔が熱くなる。
フランシスはさらに続けた。
「そして少なくとも一人はノルディアに残ってもらいたい」
「ノルディアに?」
「ああ」
フランシスは机の上に置かれていた別の書類へ手を伸ばした。
そこに記されていたのは、ノルディアで行われている事業についてだった。
「ポーションだ」
エミルの表情が少しだけ真剣になる。
ノルディアが現在行っている大きな事業の一つ。
ポーション。
元々、傷を治療するための回復薬は教国だけが作ることの出来る薬だった。
その製法に使用される魔法陣は教国が長年守り続けてきた秘術であり、他国が自由に使用出来るものではない。
だがレオンは教国から正式に許可を得て、その魔法陣をノルディアで使用している。
そしてノルディアで作られる薬には、教国で作られる回復薬とは決定的に異なるものがあった。
丘の湧水。
ノルディアの丘から湧き出す水には、自然に魔力が籠っている。
その特殊な水と魔力草。
さらに教国の魔法陣。
それらを用いて作られた薬は、従来の回復薬よりも高い効果を持つものとなった。
そのため従来の回復薬とは区別され、新たにポーションという名称が付けられた。
「販売権はノルディアが持っている」
フランシスが言う。
「はい」
「そして製造に使われる魔法陣は教国のものだ」
「はい」
「その使用料として、ポーションの売上の一部が教国へ支払われている」
現在、ポーションそのものは主に王国内へ流通している。
一方で原料となる魔力草は、ノルディアから教国へ輸出されている。
ポーションの販売権はノルディア。
製造に必要な魔法陣は教国。
どちらか一方だけで成り立っている事業ではない。
「ポーションが売れればノルディアが潤う」
フランシスは書類を机へ置く。
「同時に我が国にも使用料が入る」
「……はい」
「既にノルディアと教国は、あの事業を通じて利害を共有しているのだ」
エミルは静かに頷いた。
「それに魔力草もあります」
「ああ」
セリオスの言葉にフランシスは頷く。
ノルディアで栽培されている魔力草は教国へ輸出されている。
教国にとって、ノルディアは単なる隣国の一領地ではない。
既に重要な取引相手となっていた。
「ポーションの販売量が増えれば、ノルディアだけではなく教国の利益も増える。魔力草の輸入も含めれば、この関係を失う理由はない」
「だから……私達の子供をノルディアに?」
「ああ」
フランシスは迷うことなく答えた。
「将来、そなたとレオン・ノルディアの子の一人がノルディアに残り、ポーション事業を担えばいい」
「私と……レオン君の子が……」
エミルの頬が再び赤くなる。
政治の話。
事業の話。
そう理解しているのに、その部分だけはどうしても平静に聞けなかった。
フランシスは構わず続ける。
「その子はノルディア辺境伯家の血を引き、同時に教国から嫁いだそなたの血も引く」
教国とノルディア。
双方に繋がりを持つ子供。
その子が両者に利益をもたらす事業を担う。
「婚姻だけなら一代で終わる可能性がある」
フランシスの灰色の瞳が細められる。
「だが子供達と事業まで結び付けば、その関係は簡単には切れぬ」
エミルはようやく理解した。
フランシスが考えているのは今回の避難民だけではない。
数万人のノルディア領民を受け入れる。
そのための政治的な理由として婚姻を使う。
だが婚姻が成立した後は、それを一時的な関係で終わらせない。
レオンとエミルの間に生まれる子供達。
何人かは教国との繋がりを持つ。
そして一人はノルディアに残り、ポーション事業を担う。
現在既に存在する魔力草の輸出。
ポーション製造に使われる魔法陣の使用料。
それらを次の世代まで繋げていく。
「そこまで先のことを……」
「国とはそういうものだ」
フランシスは当然のように答えた。
「今日明日の利益だけを考えていては国など残らぬ」
「……はい」
「だからこそ、そなたには教国の爵位を与える」
エミルが顔を上げる。
「聖騎士エミルが個人として王国貴族へ嫁ぐだけでは弱い」
フランシスは続けた。
「教国から正式に爵位を与えられた者がノルディア辺境伯へ嫁ぐ。そうすることで、教国とノルディアの間に正式な繋がりが生まれる」
それならば教国がノルディア領民を受け入れる理由にもなる。
外国の一領地を一方的に助けるのではない。
教国と正式な繋がりを持つ辺境伯家を支援する。
そのために領民を受け入れる。
「つまり……」
エミルは確認するように口を開いた。
「教国がノルディアの避難民を受け入れる条件として、レオン君に私を妻として迎えていただくということでしょうか?」
「ああ」
フランシスは頷いた。
「正確には、それによって教国とノルディアの間に正式な関係を作ることが条件だ」
「…………」
エミルは俯いた。
条件、これは恋愛の話ではない政治の話だ。
自分がレオンを好きだから結婚させてもらえるわけではない。
数万人の命を守るために必要な婚姻。
分かっている。
それでも胸の奥に、ほんの僅かな喜びが生まれてしまう。
そんな自分をエミルは心の中で叱った。
何を考えているのだろう。
ノルディアの領民の命が懸かっている話なのに。
「ただし」
フランシスの声でエミルは顔を上げた。
「これは教国側だけで決められる話ではない」
「……はい」
「レオン・ノルディアが拒否すれば、それまでだ」
その言葉に胸が少しだけ痛む。
当然だった。
レオンにはレオンの意思がある。
教国が決めたから結婚しろなどと言えるはずがない。
「それと、そなたを第一夫人にすることまでは求めぬ」
「え?」
エミルは思わず声を漏らした。
「王国の辺境伯ともなれば、婚姻には様々な事情が絡む。既に他家から話が来ている可能性もあるだろう」
エミルの頭に何人かの顔が浮かぶ。
クロエ。
フローラ。
そして帝国で出会ったミコト。
特にミコトは隠す気すらなかった。
『勝てば婿、負ければ嫁』
あの時の言葉を思い出し、エミルの眉が僅かに動く。
「教国として必要なのは、そなたがレオン・ノルディアの正式な妻となることだ。何番目かまでは問わぬ」
「……分かりました」
少しだけ複雑だった。
出来ることなら一番がいい。
そんな気持ちがないと言えば嘘になる。
だがレオンほどの立場ならば、一人だけを妻にするとは限らない。
そして何より――
まだ自分はレオンに好きだとすら言っていない。
第一夫人がどうこうと考える段階ではなかった。
「さて」
フランシスが書類を整える。
「教国側の条件については以上だ」
エミルは小さく息を吐いた。
ようやく終わった。
そう思った。
「ではエミル」
今度はセリオスが口を開いた。
「はい?」
「この条件をレオンさんへ伝えてください」
「…………」
エミルが固まった。
「私が……ですか?」
「ええ」
「セリオス様からではなく?」
「あなたがノルディアとの連絡役でしょう?」
正論だった。
今回、レオンから教国への避難民受け入れについて話を持ち帰ったのはエミルだ。
ならば教国からの返答をレオンへ伝えるのもエミルになる。
「教皇猊下から正式な書状は用意していただけるでしょう。しかし条件について直接説明出来る者も必要です」
「それは……そうですが……」
エミルの声が徐々に小さくなる。
どう伝えればいいのだろう。
『レオン君、教国が避難民を受け入れる条件なのですが、私と結婚してください』
駄目だ。
完全に自分から求婚している。
では――
『教国として、レオン君との婚姻を希望しています』
これも駄目だ。
自分が希望しているように聞こえる。
いや、実際、嫌ではない。
むしろ――
エミルは慌ててその考えを止めた。
ではもっと事務的に。
『政治的な理由で、私を妻にしていただく必要がありまして……』
「…………」
それも嫌だった。
まるで自分は結婚したくないのに、政治的な事情だけで仕方なく嫁ぐように聞こえる。
それは違う。
絶対に違う。
「どうしました?」
セリオスが尋ねる。
「い、いえ……」
エミルは視線を逸らした。
「伝え方を少し……」
「難しいですか?」
「難しいです!」
思わず強く答えてしまった。
セリオスの口元に小さな笑みが浮かぶ。
「教国からの正式な条件を、そのまま伝えればよいのでは?」
「それが難しいのです……」
「なぜでしょう?」
「…………」
分かっているくせに。
エミルは少し恨めしそうにセリオスを見る。
その様子を眺めていたフランシスが口を開いた。
「ならば簡単ではないか」
エミルが期待するように顔を上げる。
「どのように伝えればよろしいでしょうか?」
「私と結婚しなければ教国は避難民を受け入れません、と伝えればいい」
「そんな言い方出来ません!」
即答だった。
フランシスが僅かに笑った。
どうやら半分は冗談だったらしい。
「教皇猊下まで……」
エミルは赤くなった顔を両手で覆いたくなるのを必死に我慢する。
するとフランシスの表情が少しだけ真剣なものへ戻った。
「エミル」
「……はい」
「冗談はさておき、そなた自身の意思もレオン・ノルディアへ伝えた方がいい」
エミルが目を見開く。
「私の……意思を?」
「ああ。政略結婚だからといって、そなたが望んでいないと誤解されては困る」
「…………」
「我々が求めるのは、そなたを犠牲にする婚姻ではない」
フランシスは静かに言った。
「レオン・ノルディアがそなたを望まず、そなたも望まないのであれば、別の方法を探す」
「ですが――」
「数万人を救うためなら、自分一人くらいどうなってもいい」
エミルの言葉が止まった。
フランシスの灰色の瞳が真っ直ぐに向けられている。
「そのような考えで引き受けることだけは認めぬ」
「…………」
エミルは何も言えなかった。
かつての自分なら、そう考えただろう。
自分一人で誰かを救えるのなら、それでいい。
自分の命など軽い。
そう思っていた。
だが今は――
「分かりました」
エミルはゆっくりと頷いた。
「私自身の気持ちも含めて、レオン君へお伝えします」
「うむ」
フランシスが頷く。
セリオスも穏やかに微笑んでいる。
だがエミルはそこで、重大なことに気づいた。
自分自身の気持ちも含めて伝える。
それはつまり、ほとんど告白ではないだろうか。
「…………」
再び顔が熱くなる。
教国へ戻ってきた時には、避難民の受け入れをお願いするだけのはずだった。
それが一日経っただけで、自分がレオンの妻になる話になり、爵位を与えられる話になり、まだ生まれてもいない子供達の将来まで話し合われている。
そして最後には、その全てを自分の口からレオンへ説明しなければならなくなった。
エミルは小さく息を吐いた。
「……どう説明すればいいのでしょう」
誰にも聞こえないほど小さな呟きだった。
だがセリオスには聞こえていた。
セリオスは困り果てたエミルを見つめながら、静かに微笑んでいた。
自分の幸せなど考えようともしなかった少女が、好きな男との結婚を前にしてこれほど悩んでいる。
その姿を見られることが、彼には嬉しかった。
だからこそ、この話を必ず実現させたい。
それは教国のためだけではない。
セリオスには、フランシスへまだ話していない理由があった。
自分がいなくなった後も。
エミルが誰にも奪われず、誰にも傷つけられず、自分の好きな人の隣で生きていけるように。
そのためならば、セリオスは残された時間で、出来る限りのことをするつもりだった。




