第306話 教国の理由
翌日、セリオスは教国の中枢にある教皇の執務室を訪れていた。
教国には十二人の枢機卿が存在する。
教義、外交、聖騎士団、各地の教会など、それぞれが教国を支える重要な役割を担う最高位の聖職者達。
そして教国の頂点に立つ教皇は世襲ではない。
十二人の枢機卿の中から一人が選ばれ、教皇となる。
現在、その座に就いている男の名は。
フランシス・セレスティア 七十二歳。
セリオスが枢機卿となる以前、フランシス自身も十二枢機卿の一人だった。
彼が教皇へ選ばれたことで枢機卿の席が一つ空き、その後、その一席を任されたのがセリオスだった。
大きな窓から柔らかな陽光が差し込む教皇室。
その中央に置かれた重厚な机の向こうに、教国の頂点へ立つ老人は座っていた。
首元まで伸びた髪は、七十二歳という年齢からは想像出来ないほど深い青色を保っている。
顔には長い年月を物語る深い皺が刻まれているにもかかわらず、その髪にはほとんど白いものが見当たらない。
この世界では歳を重ねるにつれて髪の色が抜け、やがて白髪となっていく。
だが生まれ持った魔力量が極めて多い者ほど、老いても髪の色が失われにくい。
七十二歳になった今も深い青髪を保つフランシスの姿は、それだけで彼が並外れた魔力量を持つことを物語っていた。
髪は綺麗に後ろへ撫でつけられ、顎には短く整えられた髭が生えている。
細身の身体を包むのは白を基調とした教皇法衣。
襟元と袖には金糸による細かな刺繍が施され、胸元には教皇だけが身につける聖印が下げられていた。
瞳は薄い灰色。
普段は穏やかに細められ、その柔和な顔立ちだけを見れば、街の子供に話しかけられても笑顔で応じそうな老人に見える。
しかし政治や外交の話となれば、その印象は一変する。
十二枢機卿の一人として長年教国の中枢に立ち、その十二人から教皇へ選ばれた男。
人の言葉だけではなく、その裏側に隠された思惑まで見定めるような鋭さが、今も灰色の瞳には宿っていた。
そのフランシスは今、セリオスから渡された書類へ静かに目を通している。
しばらく紙をめくる音だけが執務室に響いた。
やがて最後の一枚まで読み終えたフランシスが書類を机へ置く。
「数万人か」
低く落ち着いた声だった。
「最悪の場合ですが」
セリオスが答える。
「実際に教国方面へ避難する人数は、大氾濫の規模と進路によって変わります。しかし相応の人数を受け入れられる準備をしておかなければ、避難先として機能しません」
フランシスは再び書類へ目を落とした。
そこにはノルディアが現在進めている避難計画。
領内南部に整備している避難都市。
教国方面への避難経路。
そして大氾濫後、故郷へ帰れなくなった領民をフェルナードへ移す二次避難計画。
その概要がまとめられている。
「随分と先まで考えている」
「レオン殿は、自らが魔獣を討伐出来るかどうかとは別に考えているようです」
「別にか?」
「はい。自分達が勝てなかったとしても、領民が生き残れるようにすると」
フランシスの灰色の瞳が僅かに細められた。
「北の戦神、グラニウスとは違うな」
「私もそう思います」
グラニウスならば、自分が全ての魔獣を討つことを第一に考えただろう。
レオンも戦うことを放棄しているわけではない。
帝国と共同討伐の取り決めまで結んでいる。
その一方で、自分達が敗北した場合まで考えている。
「王国はこの計画を認めたのか?」
「はい。アーサー国王陛下からは、教国が受け入れを認めた場合、王国側でも必要な取り決めを行うとの回答を得ております」
「フェルナードは?」
「条件付きではありますが、受け入れ準備を始めるとのことです」
フランシスは椅子へ深く腰掛けた。
「ならば残るは我々か」
「はい」
セリオスは静かに頭を下げる。
「教国として、ノルディア領民の避難を受け入れていただきたいのです」
フランシスはすぐには答えなかった。
指先で机を軽く叩きながら考える。
「助けること自体に異論はない」
セリオスが顔を上げた。
「では!」
「だが国を動かすとなれば、それだけでは済まぬ」
セリオスもそれは理解していた。
教国にも民がいる。
食料にも限りがある。
土地も建物も無限ではない。
数万人もの他国の民が流れ込めば、治安維持のために聖騎士団を動かす必要もある。
教会施設を開放することになるかもしれない。
滞在が長期に及べば仕事まで用意しなければならない。
その何十年後、そのまま住み着いた民が王国だと主張すれば、教国と王国での領土問題にも発展しかねない、火種を抱える事になる。
そして何より問題になるのは――
「なぜ教国が、王国の一領地のためにそこまでするのか」
フランシスが口にする。
「それを必ず、問われるだろう」
「はい」
「困っている者を救う。それだけで済む人数ではない」
数百人ならば教会による救済活動として説明出来る。
しかし数万人ともなれば国家政策だった。
「ノルディアは王国領だ。レオン・ノルディアも王国貴族。教国の民が負担を背負う以上、我々にも明確な理由が必要になる」
セリオスは静かに頷いた。
フランシスはしばらく考えた後、机の上に置かれた別の書類へ手を伸ばす。
帝国との調停についてまとめられた報告書だった。
「レオン・ノルディアか」
「はい」
「改めて見ると、面白い少年だ」
フランシスは書類をめくる。
「十六歳の辺境伯。ノルディアを僅かな期間で発展させ、王国だけでなく帝国との関係まで築いている」
「はい」
「そして、その辺境伯は魔力量も極めて多い」
セリオスの視線が僅かに動いた。
「帝国第一皇子ジークハルトよりも多いという話だったな」
「そのように聞いております」
フランシスは自らの深い青髪へ僅かに触れた。
「魔力量は子へ受け継がれる傾向がある」
「……はい」
「ノルディアと教国の間に正式な繋がりを作ることが出来れば、話は変わる」
セリオスはフランシスの意図を察する。
「婚姻ですか」
「ああ」
フランシスはあっさりと認めた。
「教国の貴族とノルディア辺境伯が婚姻を結ぶ。そうなれば教国がノルディアを支援する理由として使える」
単なる外国の一領地ではなくなる。
教国と正式な縁を持つ家。
その領民を救うために教国が動く。
それならば国内への説明もしやすい。
「それだけではない」
フランシスは続ける。
「レオン・ノルディアほどの魔力を持つ者との間に子が生まれれば、その子もまた大きな魔力を持つ可能性が高い」
「その子供を教国へ?」
「全員とは言わぬ」
フランシスは小さく笑う。
「何人か子が生まれたなら、そのうち何人かが教国へ来てくれればいい。聖職者でも騎士でも構わぬ。大きな魔力を持つ人材が教国との繋がりを持つことに意味がある」
セリオスは黙って聞く。
「そして一人はノルディアに残す」
「一人?」
「ノルディアには回復薬の事業があるだろう」
セリオスはそこでフランシスの意図を理解した。
「その子に事業を?」
「将来的にはな」
ノルディアで発展しつつある回復薬事業。
教国にとっても回復薬は重要だった。
病人。
怪我人。
孤児院。
聖騎士団。
医療に関わる場所はいくらでもある。
「教国と繋がりを持つ者がノルディアの薬事業を担えば、両国の関係は婚姻一代で終わらない」
「随分と先までお考えですね」
「国とはそういうものだ」
フランシスは当然のように答えた。
「問題は誰を嫁がせるかだな」
その言葉に、セリオスの目が僅かに細くなる。
「私はエミルが適任かと思います」
フランシスはセリオスを見る。
「エミルか」
「はい」
「確かに最初は私もそう考えていた」
その言い方に、セリオスは引っ掛かりを覚えた。
「最初は?」
「エミルは聖騎士団副団長だ。教国における立場もある。何より既にレオン・ノルディアと信頼関係を築いている」
「ならば問題はないかと」
「そうだろうか」
フランシスは報告書へ視線を落とした。
「聞けば、帝国で随分と長く一緒に滞在していたそうではないか」
「はい」
「宿によっては同じ部屋で過ごしたこともあるとか」
「そのようですね」
「それだけの時間を二人で過ごして、何もなかった」
セリオスは一瞬黙る。
フランシスは短い髭へ触れた。
「レオン・ノルディアが非常に真面目なのか」
少し間を置く。
「あるいは、エミルを女性として見ていないのか」
セリオスの眉が僅かに動いた。
「それだけで判断するのは早いかと」
「無論、決めつけてはいない」
フランシスはそう答えながらも表情は真剣だった。
「だが政略結婚とはいえ夫婦となる以上、本人達の相性を無視するつもりはない」
「はい」
「こちらがエミルを選んでも、レオン・ノルディアにその気がまったくないのであれば意味がない」
それは確かだった。
フランシスが欲しいのは婚姻によって生まれる教国とノルディアの繋がりだ。
エミル個人でなければならない理由はない。
「教国には他にも適齢の女性はいる」
フランシスが言う。
「レオン・ノルディアと年齢の近い貴族令嬢を何人か調べさせてもよい」
「お待ちください」
セリオスがすぐに口を挟んだ。
フランシスの灰色の瞳が向けられる。
「何だ?」
「新しい女性を選ぶ必要はないかと思います」
「なぜだ?」
「エミル以上の適任者はいません」
セリオスは迷うことなく答える。
「エミルは既にレオン殿から信頼されています。ノルディアにも滞在した経験があり、領内の事情も理解しています。帝国との交渉にも教国代表として立ち会いました」
「それは分かっている」
「聖騎士団副団長という立場もあります。教国とノルディアを繋ぐ者として、これ以上の人物はいないでしょう」
フランシスは何も言わない。
薄い灰色の瞳でセリオスをじっと見つめる。
その視線に、先ほどまでの柔和な老人の面影はなかった。
十二枢機卿の一人として長年教国の中枢を歩き、その中から教皇に選ばれた男の目だった。
「随分とエミルを推すな」
「事実を申し上げているだけです」
「……そうか」
フランシスはそれ以上追及しなかった。
だがその目は、セリオスが口にしていない何かまで探っているようだった。
「では一つ確認しよう」
「何でしょう」
「エミル本人はどうなのだ?」
セリオスは黙った。
「こちらがいくら適任だと決めても、本人が嫌がるのであれば話は別だ」
セリオスの脳裏に昨日のエミルの姿が浮かぶ。
レオンの名前を口にするたびに柔らかくなる表情。
離れると寂しいのではないかと尋ねた時の反応。
そして最後に尋ねた。
『レオン殿と過ごした時間は楽しかったですか?』
その問いに浮かべた笑顔。
『はい』
セリオスは小さく息を吐く。
「恐らく問題ありません」
フランシスが眉を上げた。
「恐らく?」
「本人の口から直接確認するべきでしょう」
「当然だな」
フランシスは机の上の書類を閉じる。
「ではエミルを呼ぼう」
「今からですか?」
「話が早い方がいい」
「昨日戻ったばかりですが」
「今日結婚させるわけではない」
フランシスは平然と答えた。
「まず本人の意思を確認するだけだ」
セリオスは少しだけ苦笑する。
「分かりました」
フランシスは側仕えを呼び、エミルを連れてくるよう命じた。
側仕えが部屋を出ていく。
再び静かになった執務室で、フランシスは椅子へ深く腰掛ける。
「しかし」
「何でしょう」
「もしエミルが嫌だと言った場合は、別の女性を探すぞ」
「その心配はないと思います」
「随分と自信があるな」
「ええ」
セリオスは僅かに笑った。
「昨日、確信しましたので」
フランシスが何のことか尋ねようとした、その時だった。
コンコンと扉が叩かれる。
「教皇猊下、エミル副団長をお連れいたしました」
「入れ」
重厚な扉が開く。
そこに立っていたエミルは、なぜ突然教皇に呼び出されたのか分からない様子だった。
「失礼いたします」
部屋へ入り、フランシスへ深く頭を下げる。
「お呼びでしょうか、教皇猊下」
「ああ」
フランシスは頷いた。
「昨日、そなたが持ち帰ったノルディアからの避難民についてセリオスと話していた」
エミルの表情が真剣になる。
「はい」
「教国として受け入れる方向で考えてもよい」
エミルの顔が僅かに明るくなった。
「ありがとうございます」
「ただし条件がある」
「条件……ですか?」
「ああ」
フランシスはエミルを真っ直ぐ見る。
「数万人もの他国民を受け入れる以上、教国にも相応の理由が必要だ」
エミルは静かに次の言葉を待った。
「そこでノルディア辺境伯家と教国の間に正式な繋がりを作りたい」
「正式な繋がり……」
まだ理解出来ていないエミルへ、フランシスは続ける。
「レオン・ノルディアに、教国の女性を妻として迎えてもらう」
「…………え?」
エミルの目が僅かに見開かれた。
「当初はそなたが最も適任だと考えていた」
「わ、私が……ですか?」
「だがレオン・ノルディアと長期間一緒にいながら何もなかったと聞いてな」
エミルの顔が一瞬で赤くなる。
「な、何を仰っているのですか!?」
「もしレオン・ノルディアがそなたを女性として見ていないのであれば、別の女性を選んだ方がよいかとも考えている」
「別の……女性……」
その言葉を聞いた瞬間、エミルの表情が止まった。
「教国には年齢の近い貴族令嬢もいる。そなたが嫌なのであれば――」
「嫌ではありません!」
エミルの声が執務室へ響いた。
「…………」
「…………」
フランシスとセリオスが揃って黙る。
エミル自身も、自分が何を叫んだのか理解するまで数秒かかった。
「…………あ」
顔がさらに赤くなる。
セリオスは口元へ手を当てた。
フランシスはゆっくりと眉を上げる。
エミルは慌てて言葉を続けた。
「ち、違います! 違わないのですが……その……教国のために必要なのでしたら、私は聖騎士として――」
「エミル」
セリオスが穏やかに遮る。
「はい……」
「今は聖騎士としての答えを聞いているのではありません」
エミルが固まる。
「あなた自身は、レオン殿と結婚することが嫌ですか?」
「…………」
逃げ道を塞がれた。
フランシスも答えを待っている。
エミルは俯いた。
帝国で共に過ごした時間。
ノルディア。
王都。
フェルナード。
そして夕暮れの海で交わした言葉。
『エミルが一緒でよかった』
さらに以前、レオンが口にした言葉まで蘇る。
『真面目で、努力家で……一緒にいて気を使わなくて、楽しい人』
『まるでエミルみたい』
胸が大きく鳴った。
エミルは小さく息を吸う。
「……嫌では、ありません」
今度は先ほどより遥かに小さな声だった。
だがフランシスにもセリオスにも、はっきりと聞こえた。
セリオスは静かに微笑む。
フランシスは少しだけ考えた後、頷く。
「そうか」
そして机の上の書類へ手を伸ばした。
「ならば別の女性を探す必要はなさそうだな」
エミルが顔を上げる。
「え?」
「教国としては、そなたをレオン・ノルディアとの婚姻候補とする」
「…………」
「婚姻が成立するのであれば、そなたには教国の爵位を与える」
「爵位……ですか?」
「ああ」
エミルの目が見開かれる。
教国の聖騎士として嫁ぐだけではない。
教国から正式に爵位を与えられ、教国貴族としてノルディア辺境伯へ嫁ぐ。
そうすることで初めて、教国が国家としてノルディアを支援する政治的な理由になる。
だがフランシスの話は、それだけでは終わらなかった。
「それともう一つ」
「ま、まだあるのですか?」
「ああ」
フランシスは当然のように答える。
「将来、レオン・ノルディアとの間に生まれる子供についても話しておく必要がある」
「…………子供?」
エミルの思考が止まった。
まだ想いを伝えてすらいない。
婚約もしていない。
当然、結婚もしていない。
それなのに教皇フランシス・セレスティアは既に、自分とレオンの間に生まれる子供の話を始めようとしていた。




