第305話 聖騎士の帰還
ノルディアを出発してから数十日後、エミルを乗せた馬車は教国へ入った。
帝国へ向かうために教国を発ってから、随分と長い期間が経っている。帝国での調停を終えた後も、レオンと共にノルディアへ戻り、王都、フェルナードと各地を回った。ようやく教国へ戻ってきたというのに、エミルに休んでいる暇はなかった。
馬車を降りたエミルは荷物を預けると、そのまま教会の奥へ向かった。白い石造りの廊下を進み、見慣れた扉の前で足を止める。
コンコンと扉が叩いた。
「セリオス様、エミルです」
「どうぞ」
中から聞き慣れた声が返ってくる。
「失礼いたします」
扉を開けると、執務机に向かっていたセリオスが顔を上げた。
「お帰りなさい、エミル」
「ただいま戻りました、セリオス様」
エミルは胸元へ手を添え、深く頭を下げる。セリオスはその姿を見て穏やかに微笑んだ。
「随分と長い滞在になりましたね」
「はい。予定より長くなってしまいました」
「ですが、無事に戻ってきてくれて何よりです」
「ありがとうございます」
セリオスは手元の書類を脇へ置く。
「疲れているでしょう。報告は明日でも構いませんよ」
「いえ。早い方がよろしいかと思います」
「そうですか」
セリオスは少し困ったように笑った。
「相変わらず真面目ですね」
「これが私の役目ですので」
エミルは向かいの椅子へ腰掛けると、帝国へ向かってから今日までに起きたことを順番に報告していった。
帝国と王国によるバルト山脈の共同討伐。
帝国軍をノルディア方面へ入れること。
帝国側へもノルディアの部隊を送り、お互いに監視役を置くこと。
そして教国が見届け人となった正式な取り決めが結ばれたこと。
セリオスは途中で口を挟まず、静かに話を聞いていた。
「なるほど。帝国との交渉は想像していた以上の成果ですね」
「はい」
「レオンさんも、よくそこまで話をまとめましたね」
その名前が出た瞬間、エミルの表情が僅かに柔らかくなる。
「レオン君は最初から、帝国と争うために行ったわけではありませんでしたから」
「ええ」
「ルーカス殿下とも以前から親交がありますし、ジークハルト殿下とも互いに利益のある形を考えていました。それにレオン君は――」
エミルはそこで一度言葉を止める。
「どうしました?」
「いえ」
少し考えてから続けた。
「レオン君は、帝国側の兵士だけが多く負担する形にならないよう、討伐後の魔獣素材についても考えていました」
そこからエミルは、帝国でレオンがどのような話をしたのかを詳しく説明していく。
セリオスは静かに聞いていた。
だが内心では、少し別のことを考えていた。
――やはり。
帝国滞在中から届いていた報告書を思い出す。
当然、エミルは教国の見届け人として定期的に報告を送っていた。
交渉の進捗。
帝国側の反応。
皇帝や皇子達の発言。
本来ならそれだけで十分だった。
しかしエミルから届く報告には、妙にレオンについての記述が多かった。
レオンが何を言った。
レオンがどう判断した。
レオンが何をした。
交渉に関係する内容なら理解出来る。
だが時折、それは必要なのだろうかと思うほど細かいことまで書かれていた。
本人には自覚がないのだろう。
セリオスも最初は、見届け人として相手をよく観察しているだけだと思っていた。
だが報告書が届くたび、その考えは少しずつ変わっていった。
そして今、目の前で話しているエミルを見ていると、その疑念はさらに強くなる。
「その後、王都へ向かわれたのですね」
「はい。レオン君と共に国王陛下へ報告いたしました」
「国王陛下の反応はいかがでしたか?」
「帝国軍五千人がノルディア領へ入ることについて、最初はかなり慎重でした。ですがレオン君が相互監視の意味や、ルーカス殿下が直接指揮することを説明すると――」
まただ。
セリオスは何も言わず聞き続ける。
「最終的には許可をいただけました。ただし活動範囲や指揮権などは、今後詰める必要があります」
「それは当然でしょうね」
「はい。レオン君もその点は理解しています」
セリオスは僅かに笑った。
エミルは気づかない。
「それからフェルナード領へ向かいました」
「例の避難計画ですね」
「はい」
ここからが今回、教国にとって最も重要な話だった。
エミルの表情も真剣なものへ変わる。
「レオン君は、大規模な魔獣の氾濫が起きた場合に備え、領民を事前に避難させる準備を進めています」
「以前の報告にもありましたね」
「はい。ノルディア南部に避難都市を整備しています。しかし、それだけではありません」
エミルはレオンから聞いた計画を説明する。
大氾濫の兆候が確認された時点で、領民を戦場から遠ざける。
ノルディア南部へ避難させる者。
可能であれば教国方面へ逃がす者。
そして戦いが終わった後、町や村が壊滅して帰れない者については、復興までフェルナードで生活させる。
セリオスの表情が徐々に真剣になる。
「フェルナード伯爵は了承されたのですか?」
「はい。条件付きではありますが、準備を進めていただけることになりました」
「条件とは?」
「一つは、レオン君が必ず生きて帰ることです」
セリオスが僅かに目を見開く。
「それが条件ですか」
「はい。レオン君には現在お子がおられません。もし大氾濫で亡くなられれば、壊滅したノルディアを誰が復興するのかという問題が残りますので」
「なるほど」
「ですから、預かった領民はレオン君自身が迎えに来てほしいと」
エミルはそこで少し微笑んだ。
「レオン君も必ず生きて帰ると約束しました」
セリオスはその表情を見逃さなかった。
「もう一つの条件は?」
「分かりません」
「分からない?」
「はい。その時になったらお願いしたいことがあるとだけ仰っていました」
「随分と変わった条件ですね」
「レオン君も怪しんでいました」
またレオン。
セリオスはそろそろ数えるのをやめた。
そしてエミルは本題へ入る。
「セリオス様」
「はい」
「今回戻ったのは、この件について正式にお願いするためです」
エミルは姿勢を正す。
「もし大規模な魔獣の氾濫が発生する兆候が確認された場合、ノルディア領民の一部を教国方面へ避難させることを認めていただきたいのです」
セリオスから笑みが消える。
「人数は?」
「分かりません」
エミルは正直に答えた。
「被害や避難経路によって変わります。ですが最悪の場合、数万人規模になる可能性があります」
セリオスはすぐには答えなかった。
数万人。
一人や二人を保護する話とは違う。
食料。
住居。
土地。
治安。
教会施設。
聖騎士団。
様々なものを動かす必要がある。
何より相手は他国の領民だ。
「これは私一人では決められません」
「はい。承知しております」
「教皇猊下にもお話しする必要があります」
「お願いいたします」
エミルは深く頭を下げる。
「レオン君は、無理であれば無理だと答えて構わないと言っていました」
セリオスはエミルを見る。
「そうですか」
「教国の民を苦しませてまで受け入れてほしいわけではないと」
「レオンさんらしいですね」
「はい」
エミルは自然に頷いた。
その時の表情を見て、セリオスの中にあった最後の疑いが消えた。
これまでは、そうなのではないかと思っていただけだった。
報告書にレオンの記述が多い。
帰ってきてからもレオンの話ばかり。
名前を口にするたびに表情が僅かに柔らかくなる。
だが決め手に欠けていた。
セリオスは少し考えた後、穏やかな笑みを浮かべる。
「それにしても」
「はい?」
「長い間レオンさんと一緒でしたから、離れると少し寂しいのではありませんか?」
「えっ?」
エミルの肩が僅かに跳ねた。
「い、いえ……そのようなことは……」
「そうですか?」
「はい」
「帝国での滞在も随分と長かったのでしょう?」
「それは……そうですが」
「その後もノルディアへ戻り、王都、フェルナードと、ほとんどレオンさんとご一緒だったとか……」
「…………」
エミルの視線が泳ぐ。
先ほどまで帝国皇帝や国王への報告を淡々とこなしていた聖騎士団副団長とは思えない。
「ノルディアを出る時も、レオンさんは見送ってくださったのですか?」
「はい。レオン君とクロエさんとゼムさんが……」
「そうですか」
「レオン君も気をつけてと言ってくださって……」
そこまで言ってエミルが止まった。
セリオスは笑みを深くする。
「エミル」
「……はい」
「顔が赤いですよ」
エミルが反射的に頬へ手を当てる。
「これは……少し疲れているだけです」
「そういうことにしておきましょう」
「セリオス様……」
少し恨めしそうな視線を向けられる。
セリオスは小さく笑った。
だがその胸の内では、別の感情が生まれていた。
やはり間違いない。
エミルはレオンを好いている。
それも本人が簡単に誤魔化せる程度の気持ちではない。
セリオスは目の前の少女を見る。
幼い頃から知っている。
自分の命を軽く扱い、自分のために生きるということをほとんど知らなかった少女。
そんなエミルが、一人の少年について話すだけでこれほど表情を変える。
それを見られたことが、セリオスには少し嬉しかった。
「それでは、避難民の件は私から教皇猊下へお話しいたします」
エミルの表情がすぐに戻る。
「ありがとうございます」
「ただし、先ほども申し上げた通り、簡単に決められる話ではありません」
「はい」
「数万人もの他国の民を受け入れるとなれば、教国としても相応の理由が必要になります」
エミルは頷いた。
「承知しております」
「今日はもう休みなさい。長く教国を離れていたのでしょう」
「ですが――」
「これは命令です」
エミルは一瞬言葉を止める。
「……分かりました」
立ち上がり、深く一礼した。
「よろしくお願いいたします、セリオス様」
「ええ。任せてください」
エミルが扉へ向かう。
その背中を見ながら、セリオスはふと思いついたように声を掛けた。
「エミル」
「はい?」
振り返ったエミルへ、セリオスは穏やかに尋ねる。
「レオン殿と過ごした時間は楽しかったですか?」
「…………」
エミルは少しだけ黙った。
そして先ほどまでとは違い、誤魔化すことなく小さく微笑む。
「はい」
たった一言。
それだけ答えると一礼し、部屋を出ていった。
扉が静かに閉じる。
一人になったセリオスは椅子へ深く腰掛けた。
「……なるほど」
机の上には、これまでエミルから届いた報告書が残されている。
改めて一枚手に取る。
そこにはやはり、レオンの名が何度も書かれていた。
セリオスは小さく笑う。
「これは、思っていた以上ですね」
そして視線を、エミルが出ていった扉へ向けた。
教国が数万人もの避難民を受け入れる。
それを実現するには、善意だけでは足りない。
教国側にも、それだけの負担を背負う理由が必要になる。
セリオスには、そのための一つの答えが既に浮かび始めていた。
そして奇しくもそれは、エミル自身の未来にも深く関わるものだった。




