第302話 もう一つの条件
フェルナードとの話を終えた後、レオンとエミルは使用人に案内され応接室を後にした。
二人の足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。やがて扉の向こうから気配が消えると、応接室にはレイモンド一人だけが残された。
レイモンドはソファへ深く腰掛け、テーブルの上に置かれた二つの茶器へ視線を落とす。
数万人。
改めて考えても、とんでもない人数だった。
数百人程度なら領内の町や村へ分散させれば何とかなる。数千人になれば相応の準備が必要になるが、それでもフェルナードの力なら対応出来る可能性は高い。
だが数万人となれば話はまるで違う。
食料を用意するだけでも莫大な金が動く。住居を建てるためには土地も木材も職人も必要になる。
仕事を用意しなければ避難民を何年も養い続けることになり、治安維持のために兵士も増やさなければならない。
そして何より、フェルナードには元々ここで暮らしている領民達がいる。
ノルディアの領民を救うために、フェルナードの領民を苦しませるわけにはいかない。
それでもレイモンドは受け入れるつもりだった。
レオンが何も考えずに助けを求めているわけではないことが分かったからだ。
大氾濫の兆候が出た段階で領民を避難させる。最初からフェルナードへ押しつけるのではなく、ノルディア南部と教国方面へ分散させる。そして魔獣を討伐した後、それでも故郷へ帰れなくなった者達だけをフェルナードへ送る。
さらに国王にも話を通し、王国からの支援まで取りつけようとしている。
そして何より、レオンはノルディアを捨てるつもりがなかった。
『俺がノルディアを建て直すまで、領民が生きられる場所を貸してほしいんだ』
その言葉を思い出し、レイモンドは小さく息を吐いた。
「……やはり、グラニウス殿とは違いますね」
どちらが優れているという話ではない。
グラニウスならば大氾濫が起きれば、自ら剣を握り、誰よりも前に立っただろう。
そして自分一人で全ての魔獣を斬り伏せようとしたはずだ。
実際、それが出来てしまうほどの男だった。
だがレオンは違う。
自分も戦う。
それでも自分達が負ける可能性を考えている。
その時に領民をどう逃がすのか。
逃がした後、どう生かすのか。
そして全てが終わった後、どう故郷へ戻すのか。
戦いが始まるより遥か前から、そこまで考えている。
まだ十六歳。
それを考えると、レイモンドは改めて恐ろしくさえ感じた。
「フローラが惹かれるのも……仕方ありませんか」
娘から送られてくる手紙を思い出す。
学園での出来事。
授業のこと。
友人のこと。
そして時折書かれているレオンのこと。
本人は隠しているつもりなのかもしれないが、父親であるレイモンドには分かっていた。
フローラがレオンを好いていることくらい、とっくに気づいている。
だからこそ、先ほどレオンには伝えなかったもう一つの条件があった。
レイモンドはソファから立ち上がり、窓辺へ歩いていく。
窓の向こうにはフェルナードの街が広がっている。
さらにその先には巨大な港。
何隻もの船が出入りし、多くの商人達が行き交っている。
フェルナードの豊かさを支えているもの。
それは信用だった。
商人は信用で商売をする。
そしてフェルナード家もまた、長い年月をかけて王国内外の商人や貴族達から信用を積み重ねてきた。
だからこそ今回の話は、単純に人を助けるだけでは済まない。
数万人の避難民を受け入れる。
そのために土地を用意する。
住居を建てる。
食料を確保する。
仕事まで用意する。
海運や商会まで動かすことになる。
当然、莫大な金も使う。
王国から支援が出るとしても、フェルナードが負担するものがなくなるわけではない。
そしてそれを見た他の貴族達は必ず疑問を持つ。
なぜフェルナードがそこまでノルディアを助けるのか?。
昔なら説明は出来た。
ノルディアとフェルナードは同じ派閥に属していた。
だが今は違う。
フェルナードは中立派の中でも革新寄りの立場を取り、ノルディアは独自の立場を強めている。
敵対しているわけではない。
むしろレイモンド個人としてはレオンを高く評価している。
しかし貴族社会では、それだけでは通らない。
数万人を受け入れるほどの支援となれば尚更だった。
「我が家にも……理由が必要です」
誰に聞かれても説明出来る理由。
フェルナードがノルディアを助けることが当然だと、他の貴族達を納得させられるだけの理由。
その答えは既に決めていた。
「フローラ……」
娘の名を静かに呟く。
レオンにはまだ言わなかった。
今言えば、今回の避難民受け入れを利用して娘との婚姻を迫っているようにしか見えない。
それに今すぐ必要な話でもない。
大氾濫が起きるとは限らない。
フェルナードへ避難民が来ない可能性もある。
だからこそ、その時になってからでいい。
本当にフェルナードが数千、数万というノルディア領民を受け入れることになった時。
その時に頼む。
フローラを妻の一人として迎えてほしいと。
正妻である必要はない。
レオンが将来何人の妻を迎えるのか、それはレイモンドには分からない。
辺境伯という地位を考えれば、複数の妻を迎えること自体は不自然ではない。
フローラが一番である必要もない。
ただ正式にノルディア辺境伯家へ嫁ぎ、レオンの妻になればいい。
そうすればフェルナードとノルディアは親族になる。
フェルナードが大規模な支援を行ったとしても、
娘が嫁いだ家を助けた。
将来親族となる領地の民を救った。
そう説明出来る。
それだけでも貴族としての面子は立つ。
だがレイモンドが考えているのは、それだけではなかった。
「そして……」
レイモンドは机の上に置かれたフェルナード家の紋章へ視線を向ける。
三本の帆柱を持つ帆船。
代々受け継がれてきたフェルナード家の証。
もしレオンとフローラの間に複数の子供が生まれたなら、そのうち一人をフェルナード家へ迎えたい。
そして自分の後を継がせる。
レオン・ノルディアとフローラ・フェルナード。
二人の血を引く子供が次のフェルナード伯爵となる。
そうなれば両家の繋がりは一代限りでは終わらない。
レオンとフローラの婚姻。
そしてその子供がフェルナードを継ぐ。
ノルディアとフェルナードは次の世代でも強く結びつくことになる。
それならば今回フェルナードがノルディアへどれほど大きな支援を行ったとしても、誰にも不自然とは言わせない。
むしろ将来を考えれば当然の投資だと説明出来る。
それに――
レイモンドは僅かに笑った。
フローラ自身がレオンを好いている。
政治的な理由だけで、娘を望んでもいない相手へ嫁がせるつもりはなかった。
だがフローラが自ら望んでいる相手なら話は違う。
レイモンド自身もレオンという少年を何度も見てきた。
まだ若い。
危うい部分もある。
無茶をすることもある。
それでも領民を第一に考え、必要なら自分より年上の貴族にも頭を下げられる。
そして商売だけではなく、領地を治める者としての才能も持っている。
グラニウスとはまったく違う形で、ノルディアを大きく変えた少年。
娘を任せる相手として不足があるとは思わない。
問題があるとすれば――
「……競争相手が多そうなことくらいでしょうか」
レイモンドは先ほどまでレオンの隣に座っていた少女を思い出した。
教国聖騎士団副団長、エミル。
今日初めて会ったばかりだ。
それでも二人の様子を見れば、かなり親しいことは分かった。
帝国へ同行し、王都へ行き、そのままフェルナードまで二人で来ている。
それだけではない。
レオンが自然にエミルを名前で呼び、エミルもまたレオンを「レオン君」と呼んでいた。
ただの護衛と護衛対象という距離ではない。
そして以前をこの地を訪れた時にはクロエもいた。
さらに帝国に行く商人の手紙にも、帝国の少女について何か書かれていた記憶がある。
「……頑張りなさい、フローラ」
父親として出来るのは、せいぜいそれくらいだ。
婚姻という道を用意することは出来る。
だがレオンの気持ちまで決めることは出来ない。
何よりフローラ自身がレオンに選ばれなければ意味がない。
レイモンドは窓から離れ、再びソファへ戻った。
そして先ほどレオンが座っていた場所を見る。
『必ず生きて帰ってくる』
レオンはそう約束した。
あれが第一条件。
そして第二条件は、まだ伝えない。
レオンが本当に大氾濫から生きて帰り、フェルナードがノルディアの領民を預かることになった時。
その時に改めて話せばいい。
フローラを妻として迎えてほしい。
そして二人の間に生まれた子供の一人を、フェルナード家の跡取りとして譲ってほしいと。
「まずは……生きて帰ってきていただかなければ始まりませんね」
レイモンドは小さく笑う。
窓の向こうでは、今日も多くの船が港を行き交っていた。
まだ起きるかどうかすら分からない大氾濫。
そのための準備が、少しずつ始まっている。
そしてその裏側では、レオン自身の知らないところで、彼の未来に関わる話もまた静かに動き始めていた。




